ハットボンボンズ

ハットボンボンズ

在りし日のハット・ボンボンズ

人 物

 人 物

 豊島としま 園彦そのひこ
 ・本 名 関沢 幸吉(旧姓・福井)
 ・生没年 1914年10月26日~ 2003年1月17日
 ・出身地 東京

 日比谷ひびや きみ
 ・本 名 小峰淳一
 ・生没年 1914年前後~??
 ・出身地 ??

 まるうち 街男
まちお

 ・本 名 砂山 義光
 ・生没年 1914年前後~戦死?
 ・出身地 ??

 はま 美奈登みなと
 ・本 名 志津 恒応
 ・生没年 1914年前後~??
 ・出身地 ??

  ぎん 武羅夫
ぶらお

 ・本 名 渡辺 章
 ・生没年 1914年前後~??
 ・出身地 ??

 御里ごり 夢中むちゅう
 ・本 名 中村 佐平次
 ・生没年 1914年前後~??
 ・出身地 ??

 来 歴

結成前後

 ハットボンボンズは戦前戦後活躍したボーイズグループ。どちらかというと「コミックバンド」に近く、「あきれたぼういず」と鎬を削るほどの人気を博した。解散後、リーダーは関沢幸吉の本名で、ジャズ演奏家に転身。数多くの名演奏やアルバムに参加した。

 メンバーは豊島園彦(トランペット)日比谷公(テナーサックス)丸の内街男 (ピアノ)浜美奈登(ベース)銀武良夫(バイオリン)御里夢忠(ドラム)の六人。名前の由来は、首都圏の名所や当時の流行語・故事成語を当てはめたもの。わかるかもしれないが解説しておくと、

 豊島園彦=としまえん 
 日比谷公=日比谷公園
 丸の内街男=丸の内
 浜美奈登=横浜港(ハマ=横浜)
 銀武良夫=銀ブラ(銀座をぶらぶらの略)
 御里夢忠=五里霧中(彼だけ流行関係なし)

 出身は、豊島園少年音楽隊。この音楽隊は、1928年に設立された14~16歳を中心とした少年音楽隊で、顧問は三越少年音楽隊を結成、長らく指揮した海軍軍楽隊出身の久松鉱太郎を引き抜く形であったという。余談であるが、この前任の三越音楽隊から昭和のオペラ歌手、田谷力三が出ている。

 この久松が中心となって、子供に管弦楽を指導。豊島園内にあった音楽堂で、10時、13時、15時の3回、定期演奏会を行っていた他、夏は夜間公演、冬になると出張公演を行うなど、少年音楽隊らしからぬ本格なもので、きちんと給料も出ていたという。その経歴等は、練馬区がまとめた「2 昔の豊島園と少年音楽隊」に詳しい。

 ハットボンボンズの6人も皆、この楽隊のメンバーで入った時期こそ若干のずれこそあるものの、1932年に同楽隊が解散するまでの間、一緒に音楽を学び合った朋輩であったという――年齢的にも、2~3歳の差しかなかったそうで、昵懇の関係を築いていたという。

 一応、リーダー格は豊島園彦であったそうな。

 1932年、豊島園少年音楽隊解散に伴い、独立。6人で仲良く、横浜の「ダンスホール・フロリダ」(赤坂の名物ダンスホールだった「フロリダ」の姉妹店)に入り、同店のバンドマンとして腕を磨いたという。『横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の 50年』に、関沢幸吉が「福井の幸ちゃん」として随分と人気を集め、淡谷のり子などと共演した旨が記されている。

「新撰 芸能人物事典 明治~平成」では「(豊島園彦は)東松二郎のバンドに居た」とあるが、詳細は不明。

 以降の経歴は『報知新聞』(1940年2月16日号)掲載のインタビューに詳しい。これを丸々引用しよう。

 最近とみに各方面の話題となつて来た新興演芸部六人組の「ハット・ボンボンズ」を捕へその間の要締を尋ねてみる、先づこの六人組は廿八歳の豊島周彦を中心とした平均年齢二十七といふ独身の若者揃ひで、新興入社後は京都銀閣寺附近で仲よく、集団生活をしてゐるといふ、この辺から彼等のスマートな舞台演技がボツ/\生れて来る訳である “僕達六人は全くー身同体で生活も舞台も人生も皆協力主義で行つてゐます、六人とも豊島園の少年音楽隊の出身で、楽器の手ほどきは海軍々楽隊出身の楽長久松鑛太郎先生にをそはりました、当時のメンバーは約三十五人でしたが不思議と僕等六人は仲がよくその後フロリダのバンドにも六人一緒で勤めました、この頃から僕等は演奏以外に何か形式の変つたシヨオを研究し出したのです、それから間もなく僕(豊島)は浅間丸のサロンミユジツクを頼まれて約半歳アメリカへ行き、 あちらのルデイ・ヴァレー音楽団その他を見学して来ました、 そして早速これを僕等のグループで生かして行くことを相談しフロリダの土、日曜コンサートで随分大胆な形式を用ひて見せる音楽を始めたのです、処が幸ひにもこれが好評を博し昨年三月新興演芸部と契約が成り僕等はそつくり買はれたのでした「ハット・ボンボンズ」といふ名称は新興へ入ってつけたのですがこれは豊島園時代「ハトボツボ音楽団」といつてゐたのから取ったものです、 ハツトはHOTで元気を意味し、ボンボンズは関西でいふボンボン(息子) の複数の積りです、つまり「元気な息子達」といふ積りですが”

 1937年12月、園田が客船「浅間丸」に乗船して、アメリカ渡航。船内演奏を主としたそうであるが、アメリカで本場のジャズや演奏に触れる。これに感銘を受けた園田は帰国後、仲間たちに「新しい音楽」を作ろうと音頭を取り、「福井幸吉とハットボンボンズ」という形でデビュー。

 その新しい音楽性をうわさを聞き付けた新興演芸部が入社を持ち掛け、ハットボンボンズもまた独立を志すようになる。然し、「フロリダ」の支配人の津田又次郎は大反対で、何としても入社を阻止するために、ヤーさんを根回しするなど強硬策を取った。

 更に、新興演芸部と吉本興行部の間の紛争もあり、この入社には一悶着があったが、警察が介入することで事態は収束。無事に入社する事が出来た。草柳大蔵『昭和天皇と秋刀魚』の中にも、

 挑戦タイプでおもしろいのはハット・ボンボンズの面々だ。「豊島園少年音楽隊」の出身者たちは横浜のフロリダ・ダンスホールで働いていたが、昭和十四年五月、関西の新興演芸部に入ってコミック・バンドを作りたいと、支配人の津田又太郎に脱退を申し出た。津田は新しい奏法を取り入れて名支配人といわれていたが、この時ばかりは”スジ者”まで使って脱退させなかった。  
 すったもんだの末、ようやく新興演芸部に身を寄せた連中は「ハット・ボンボンズ」を結成したが、その時の芸名が傑作である。

 と生々しく書いている。

ハットボンボンズ、売り出す

 1939年5月、本格的に新興演芸部と契約を結び、専属となる。新興演芸部発足と同時、演芸人として初舞台を踏む。その初舞台の模様は『近代歌舞伎年表 京都編』に詳しい。

〇五月二十三日〜 松竹劇場

 しんこうぼういずシヨウ われらの楽園 十景
【出演】新興ホツトボンボンズ(豊島園彦 日比谷公 浜美奈登 丸の内街男 銀武良夫 御里夢忠)オールジヤパンスヰングオーケストラ演奏

 土産のりんご 二場 宮村五貞楽大一座
 田中祥弘作 雷門五郎脚色 高木益美編曲
 かつぽれ法界坊 四幕 かみなりもん舞踊座 第一回公演
【出演】雷門五郎 雷門緑郎 実川泰正 浅野八重子 浅野百合子 御室和子 日高松子 竹久よしみ 桜井京子 水上靖子

 浪 曲 キングレコード専属 隅田梅若

 漫 才
【出 演】溌剌新漫才 酔月楼とり三・中井染丸 兵隊漫才 ハリキリ麦兵・トツカン花兵 秋山ヒゲ虎・富士野芳夫 音曲漫才 若葉サヨ子・富士蓉子

 更に『京都日日新聞』(5月22日号)掲載のハットボンボンズの紹介があるので引用。

〇「今回新興演芸部と専属の正式契約を結び、二十三日より松竹劇場に出演することになつた”ハット・ボンボンズ”バンドは、新興演芸部が最大の誇りとする自他共にゆるす東洋一のバンドである。同バンドは最低二十三歳、最高二十六歳の独身美貌の青年六名をもつて組織し、過去六年間メンバーに一名の変更もなく一糸乱れぬチーム・ワークをとり、火の出るやうな猛烈な精進を続けて今日の名声を獲得したもので、各楽士は四種以上の楽器を完全にマスターし、擬声専門の楽器を使用することなく普通楽器で各種の擬音、物マネを演じ、ミユジツクとアクシヨンの融合する音楽喜劇といふべき新傾向を我が国音楽界にもたらした国宝的バンドで、関西公演は今回がはじめてなので絶大の期待をもつて迎へられてゐる。」

 「東洋一」「国宝的」とはすごい言葉のチョイスであるが、吉本との引き抜き合戦で思うように芸人を引き抜けなかった新興演芸部からすれば(特にあきれたぼういずをすべて引き抜けなかったという痛恨事を含め)、若くて芸達者な「ハットボンボンズ」は最終兵器のようなものだったのであろう。それだけ売り込むのも然り、といった所である。

 その後も引き続き、お披露目公演を行い、注目を集めた。

〇五月二十六日〜(二十八)日 松竹劇場

 土産のりんご 五貞楽
 われらの楽園 十景 しんこうボーイズシヨウ
 
ミユジカルコメデーイ 新興ハットボンボンズ
 
かつぽれ法界坊 かみなりもん舞踊座
 
コロムビア ヒツト・ソングシヨウ
【出 演】中野忠晴(バンジョーで唄へば 浪曲ジャズ チャイナ・タンゴ 僕のマリネラ) 音丸(博多夜船 海のローマンス 主はパイロット 皇国の母)

 新興精鋭漫才

〇五月二十九日〜(三十一)日 松竹劇場

 ミユジカルコメデイー 新興ハットボンボンズ
 かつぽれ法界坊 四景 かみなりもん舞踊座
 
漫 才
【出 演】若葉サヨ子・富士容子 アサヒヒノデ・ミスワカバ 吉野家喜蝶・松葉家奴 御園セブン・香島ラッキー 平和ラッパ・浅田家日佐丸 玉松一郎・ミスワカナ 植田民郎・三露イチロー ミス若子・桂春雨 秋山ヒゲ虎・富士野芳夫 ハリキリ麦兵・トツカン花兵 村瀬ジャズ子・村瀬スヰング 酔月楼とり三・中井染丸 浜お柳・河内家鶴春

 1939年6月1日、大阪初披露目。インテリ層を中心に爆発的な人気を集めたという。

〇六月一日 正午開演日曜十時開演 角座
 《演 芸》

 新興演芸部大阪進出披露興行

【出演者】ミスワカ子・藤春雨 ムラセスイング・ムラセジャズ子 酔月楼とり三・中井染丸 松葉家奴・吉野喜蝶 青島ラッキー・御園セブン ハットボンボンズ 浅田家日佐丸・平和ラッパ ミスワカナ・玉松一郎 あきれたボーイズシヨウ 豆千代

 基本的な拠点は「京都松竹座」でここでたくさんの名演や名作を残した。

 関西の活躍が多かったが、モダンで垢ぬけた演奏技術と洗練された舞台は、東京のうるさい客やインテリ層にもよく受けたそうで、新興演芸部の看板漫才の中でも上京回数、上京公演は筆頭格である。

 東京公演は都新聞に出ているのがすべて集めきれてないので後述する。

〇六月十一日〜 松竹劇場

 まげものナンセンス 旅は朗らか 六景 新興笑ひの楽園 
 兵隊喜劇二の替り 馬と兵隊の巻 祐十郎一座
 
名曲とタップシヨウ 白高山 杉マサル 杉京美
 
ミュージカルコメディ 愉快なるかな初夏 八景 ハットボンボンズ

 漫 才
【出 演】秋山ヒゲ虎・富士野芳夫 ミス若子・桂春雨 中井染丸・酔月楼とり三 松葉家奴・吉野喜蝶 浅田家日佐丸・平和ラッパ 曲芸丸一小楽・丸一健坊 セーラー漫才 青柳ナナ・ミチロー 時局諧謔漫才 浪速マンマル・マンルイ

 1939年6月28日公開の喜劇映画「金毘羅舟」に出演。このスチールは現存しているそうで、白浪五人男張りに「ハツトボンボン」と記された笠(帽子?)を持っての集合写真が残っている。

〇七月十一日〜 松竹劇場 新興演芸 二の替り

 女剣戟 暴れ合羽 玉水昌子一座
 ハット・ボンボンズ
 プリズム・シヨウ
 ハダカゲキ戦捷日本
 浪 曲 雲井芳雄
 漫 才

〇七月二十一日〜 松竹劇場 新興演芸 三の替り

 夏姿鴛鴦峠 三景 玉水昌子一座
ハットボンボンズ構成
 われらが商売往来 儲けまシヨウ
【出演】大竹タモツ 中野弘高 花房英夫 木戸新太郎 奈良ひとみ 立花芳枝 ダンシングチーム 特別出演 町田金嶺 応援出演 新興ハット・ボンボンズ オールジヤパン新興スヰングオーケストラ ほか
 音曲漫芸 巴家一行
 正 調 鹿児島小原節
 漫 才

 〇九月十一日〜(二十)日 松竹劇場

 新興シヨウ 百万円狂騒曲
 新興バラエティー ハット・ボンボンズ アクロバット・シヨウ タツプタツプシヨウ

 浪 曲 筑波武蔵
 漫才選抜競演会

 この後、「新興演芸部帝都初公演」と称して、ヒノデ・ワカバ、ラッキー・セブン、ワカナ・一郎などと共に上京し、国際劇場に出演。

 外の漫才師が大阪弁の違和感やネタや話術の不備、地元関西の見物客との温度差で苦しめられる中で、ハットボンボンズは漫才を食ってしまったという。『読売新聞』(9月27日号)に初東上の批評が出ているので引用。

 この公演大収穫は六人編成の樂團”ハットボンボンズ”の出發で、一應は自由に数種の楽器を操れる強味に、適度の煽情術を心得、ドタバタに堕さない旋律的な動作は、娯しめる演奏術と相俟つて、前途甚だ期待出来る、傳へられる處によれば、幾度か馘首にしようとしながらこれを育てあげた新興演藝部の努力も買はるべきだ

 この時、「相手のヒノデがひどい」「ラッキー・セブンは新境地開拓を焦った挙句肝心の話術を怠り」「ワカナはネタを一つに絞ったせいで効果が上がらない」と酷評されまくっている中での唯一の好評であった、といえよう。

 作家・色川武大もファンだったそうで、東京公演をたびたび見たという。後年、随筆『唄えば天国ジャズソング』の中で、

 特筆したいのは、ヴォードヴィルの方で名をあげたハットボンボンズだ。 実体はジャズマンの寄り集まりで、 皆、公園をもじったような芸名をつけていた。  
 福井幸吉(現関沢、pm) が豊島園彦、小峰淳一 (sax) が日比谷公、砂山美光(p)が丸の内街男、志津恒応(b)が浜美奈登、渡辺章(ヴァイオリン)が銀武羅夫、 中村佐平次(ds)が御里夢中。 それで楽器ギャグをやる。
  スパイク・ジョーンズのシティ・スリッカーズの線で、現今のクレイジー・キャッツやドリフターズの先輩であるが、この手のものとして傑作グループだったと思う。  
 全員が自分の楽器のミニチュアを造って、それで演奏したり、楽器で空中戦の実況を試みたり、「勧進帳」を演じ、義太夫ばりの演奏をしたり、まことに面白かった。 金盥で殴りっこしたりするギャグもこの連中がすでにやっていたと思う。  
 新興演芸部であきれたぼういずと人気を競り合い、次第にヴォードヴィル的色彩が濃くなっていったが、しかし本来の演奏もよくスイングしていた。福井、砂山、志津、渡辺などは当時のジャズマンとしても一流だったと思う。そうして、戦時下で、わずかにジャズっぽいフィリングが聴けるのは、田中和男等の松竹軽音楽団と、このハットボンボンズだったような気がする。

 と、回顧し、その芸や演奏を高く評価している。ただ、ミニチュアの演奏はこの色川の回顧にしか登場せず、本当にやったのか謎が残る。

 洗練された演奏とその人気は目覚ましく、デビュー半年にも関わらず、宇野千代が経営していたファッション雑誌『スタイル 第4巻第11号』(1939年11月号)に、『近頃評判・ぼういず巡り』という題名で、あきれたぼういず、ミルクブラザーズ、ザツオンブラザーズと共に、ボーイズの人気者として取り上げられている。

 当時の吉本と新興の興行戦争も相まって、取り上げられた感じは強い。以下はその引用。

ハツト・ボンボンズ

新興演藝部であきれたぼういずのチームに對抗してゐるハツト・ボンボンズは所謂ぼういずものではなく 六人編成のショウ・バンドで、ジャズの漫畫化を狙つて大成功を拍してみる。音が主力だがプレイアーが何れも相當な技倆を有つてゐるので、音楽ショウとしてはマトモから聴いてゐて面白い。テナー・サキソフオンがソロで、虎造のフシを吹くところなぞがミソである。ハツト・ボンボンズではシーム・ソング (Theme Song グルーブが看板にしてある曲)に鳩ポッポを使つてゐる。 ハット・ボンボンズにひつかけたのが、ここら邊も氣がきいてみて傑作だ。
 三人寄れば文珠の智慧、 と云ふが四人も六人も寄つてゐるのだから、 各チームとも虎造やダイナばかりでなく、アッと驚くスタイルで、新しい秋刀魚みたいな味のものを、どしどしみせて貰ひたいものである。

 11月は再び京都に戻っている。この頃から、新興演芸部の強力な後押しを得て、全国を回るようになる。

〇十一月二十一日〜(三十)日 松竹劇場

 女剣劇桜田門余聞 勤王女役者 玉水昌子
 ミユジカルコメデイー どれみは人生 ハットボンボンズ
 新興ヴァラエティ 冬来りなば
 新作漫才大会 

 余談であるが、彼らのギャグやネタの多くは新興演芸部を出入りしていた喜劇役者、伴淳三郎がよく提供していたそうで、ハットボンボンズにとって伴淳三郎は良き相談相手であったという。伴淳三郎もハットボンボンズを高く買っており、後年自伝の中で此のことを振り返っている。

ハットボンボンズのレコード

 1939年12月、コロムビアから『音楽万才 すばらしき音楽』(30432)を発表。長らく未発見のレコードとして知られ、ジャズ研究家の瀬川昌久も『【Crazy】ハットボンボンズに迫りたい』の取材の中で、

 ーということはハットボンボンズの演奏を録音の形でも聴くことは、今の段階では不可能だと
「そういうことになります。SPレコードの蒐集家のみなさんが必死で探しておられるのですが残念ながら」

 と明言するほどであったが、コレクターが所有していたらしく、その音源がYouTubeで公開されている。「超」の付く貴重音源といえるだろう。誰か瀬川昌久氏に聞かせる人はいないのだろうか。

 聞いてもらえばわかるが、テーマ曲は、童謡「ハトポッポ」をジャズ調にしたもので、なるほど「ハトボンボン」の語源になった理由がわかる。テーマが終わると、浪曲、牧場の光景、祭囃子を天理教のおつとめを、見事に大衆向けに崩したメロディでつないでいき、最後は、あきれたぼういずも得意とした「虎造節」をピアノとサキソフォン、トランペットで吹いて見せる――曲弾きがつく。

 あきれたぼういず、ミルクブラザーズと比べると音楽主体で、笑いの要素が薄いことが判る。ある意味では、あきれたぼういず、ミルクブラザーズ以上に正統的な「コミックバンド」的な色が強い。そう考えると、日本のコミックバンドの鼻祖はこの「ハットボンボンズ」の方に軍配が上がるのではないか、と思ったりもする。

 こうして伝説の名盤をロハで聞けるのは、思えば思えば良き時代である。この公開者に大きな拍手をお送りしたい次第である。

太平洋戦争

 1940年は新年から松竹劇場の一枚看板。

〇一月一日〜 松竹劇場
 音楽喜劇 チャンポン街道 ハットボンボンズ
 新興バラエテ 響け革靴
 実演若旦那混戦記 
 女剣劇剣術二人娘
 オール新作漫才

 1940年4月1~10日、南座で行われた『新興演芸部創立一周年記念大会』に出演。出演者数が多いので省略するが昼夜共に出演し、十八番の『裏街の勧進帳』を披露して喝采を得た。

 あきれたぼういずとは一味違う芸風と確固たる結成1年足らずで大御所的な地位に上り詰めたハットボンボンズの評判は、日本のみならず、当時日本の植民地下にあった台湾にも伝わる程で、当地の雑誌『台湾藝術新報』(1940年8月号)に秩父晴夫『ハットボンボンズについて』なる記事が掲載される程であった。

 少し長いが、彼らの当時の芸風が生で描かれているので、そのまんま引用しよう。舞台芸について細かく触れているのがミソである。

 今、京阪神、東京を湧き返へらせ演藝界と云はず音楽界まで風靡してゐる世紀の人氣者『ハットボンボンズ』とはどんなものか?
 當時、東京と京阪神をカケ持ちで忙がしく活躍してゐるこの人氣者は、昨年春新興演藝部の創立と共に、演藝界にデヴユーした新人である。
音楽喜劇ミュージカルコメディ』を表標して立つこのチームは、獨身美貌の六人の青年音楽家によつて組織されてゐる。
 バンド・マスター豊島園彦トラムペツト、日比谷公サキソホン、丸の内街男ピアノ、濱美奈登バス、銀武良夫ヴァイオリン、御里夢忠ドラムで、バンドマスターの藝名が示す如く豊島園少年音楽隊の出身で過古十年間メムバーに一名の變動もなく、一絲乱れざる統制の下に火の出るやうな精進を續けて昨春想ひ出の東京に因む名前をつけて、ステーヂに脚光を浴びた。
 彼等は前述の専門楽器の外に各自四種以上の楽器をマスターしてゐることが他のいづれのバンドよりも軒口が廣く、行動半径が大きい。即ち多藝の強みは彼等が口にする音楽喜劇なるものの發生した原因である。
 ――そこで音楽喜劇とは――
 文字通りに解釈すれば、軽い音楽と喜劇の交流である。具體的に説明すればなんら擬音専門楽器を使用することなく、例へば馬の嘶き、汽船、汽車、自動車の音、浪の音、蟲の聲、他にエトセトラの音を、各自の楽器で容易にこなす。この手法を用ひたものが、今全國を燎原の火の如く流行する廣澤虎造の「森の石松金毘羅代参」の浪曲のメロディをサキソホンで、相の手をトラムペツトで利かし浪曲を忽ちにして音楽化する。
 同じく、ボンボンのヒツト物で「ニース」と云ふ題名の舞臺は、我が勇猛果敢なる荒鷲の南京空爆を描寫したもので、トロンボンとトラムペツトで爆音を表現、爆弾投下の空氣を截る金属音的な音響をヴァイオリンで、爆破の音響をピアノ、機關銃の音をドラムで傳へる等のリアリズムな演出は、古今未曾有で日本音楽界、否世界音楽界のエキスパートが為し得なかつたところである。
 又、最近の問題作「裏街の勧進帳」は正に辨慶、義経も三舎をさける奇想天外のものである。
 古くから傳へられる長唄「勧進帳」を語るにこの連中は鼓も三味線も持たず、水差し、丹塗りの箱枕、風呂桶のたぐゐにギターにバチを添へて持ち出すと云ふ凡そ大變なもので、語りも
「旅の衣は鈴懸けの……」
 でなく、
「旅は恥のかきすての、智慧なき頭しぼるらん……」
 と語りだすや、枕だとか、桶、水差しの類が小鼓大鼓の代用をして盛んに鳴り出し、ギターが三味線のかわりをやつてのける。その企畫、構想の妙は全く天衣無縫にて、皆々腕におぼへの技術は昨今かけ出しの楽隊屋とは違ひ、些のインチキ性もなくアイデイアを充分に生かしてゐるさまは心憎いばかりである。
 かくて、東京、京阪神の初舞臺で決定的な聲儥を得たハツト・ボンボンズはその後順風満帆の勢で昨年以来演藝界、音楽界に雄飛して今や斯界の寵児として中央に於て絶讃を拍してゐる。この六月は中央より踏み出し、北海道公演に於て好評を得て居り、後に残された攻略すべき地區は臺湾、朝鮮、満洲と云ふことになつたが、新興演藝部ではハツト・ボンボンズが上記の各地に派遣するやうな企畫があるときくから、その實現も遠いことではあるまい。
 幸ひ、音楽愛好の士、或は漫才を以つて代表する千遍一律の在来の演藝に飽き足らぬ人々は必ずや期待にそむかないものがあると信ずる。

 最後に「その実現が遠いことではあるまい」と記されているが、ハットボンボンズが外国巡業・南方慰問に出かけるのはもう少し後の話である。

 9月後半、京都に戻り、相変わらず一枚看板で出演して居る。

〇九月二十一日〜 松竹劇場
 永田キングと興亜行進譜 
 音楽と兵隊 ハットボンボンズ
 新興新作漫才

〇十月一日〜 松竹劇場
 征矢大陸 新興乗合船 雷門舞踊座・新舞踊合同
 愉しい老後 淡海
 唄とタツプ ミミー宮島
 音楽と兵隊 ハットボンボンズ
 新興新作漫才

 1941年1月下席、京都松竹劇場。この頃から戦争色が強くなり、彼らが得意とするジャズや洋楽にも厳しい目が向けられるようになる。

〇一月二十一日〜(三十一)日 松竹劇場
 音楽手帖 ハットボンボンズ
 永田キングショウ 美の祭典
 喜劇縁結び出世侍
 漫才

 同年5月、新興演芸部自慢の歌謡祭りに参加。2興行連続で出ている――が、日本音楽「サワリ」を採用するなど、苦労している様子もうかがえる。

〇五月一日〜(十)日 松竹劇場 (松竹歌謡祭)

 歌と音楽のアトラクション 神田千鶴子
 海軍記念日奉祝前奏曲 あきれたぼういず
 皇国の興廃 この太平洋に在り ミミー宮島
 隣組狂騒曲 新興歌謡劇団
 軽音楽 ハットボンボンズ
 新舞踊 新興振袖連
 漫才

〇五月十一日〜(二十)日 〈歌謡まつり〉第二陣

 独唱と音楽の実演 日暮里子 小泉幸雄とその楽団
 新妻と居候 新興歌謡劇団
 出てゆけ素足のお姫様 あきれたぼういず・新興快速舞隊
 新日本音楽集 佐和利集 ハットボンボンズ
 漫才

 以降は時局の悪化を知りながらも勢力的に舞台へ立った。太平洋戦争開戦までの間、以下の数だけ松竹劇場の舞台に出ている。

八月十一日〜 松竹劇場〈納涼お盆特別大興行〉

 民謡道中膝栗毛 日佐丸ラッパ 雷門五郎
 妄想部落 永田キング一座(十五日まで)
 音楽道場 ハットボンボンズ(十五日まで)
 少女アクロバット 大橋少女舞踊団(十七日まで)
 漫 才

〇九月二十日〜 松竹劇場
 健康美シヨウ日独伊 益田隆舞踊研究団 新興舞踊隊
 音楽喜劇結婚行進曲 小林千代子一座
 歌謡豪華シヨウ 神田千鶴子
 軽音楽 ハットボンボンズ
 続演 名犬竜号(※学者犬)
 漫 才

〇十月三十一日〜 松竹劇場
 海国綺談 あきれたぼういず 新興快速舞隊
 何処へ 新進劇団
 軽音楽 ハットボンボンズ
 漫 才
【出演】サクラ・ヒノデ 芳若・豊子 貴美子・富美子 日佐子・絹奴 美津子・比呂志 日佐絵・正八 豊香・サヨ子

十一月二十一日〜 松竹劇場
 元禄武士道一代男 日佐丸劇団
【出演】日佐丸・ラッパ 特別出演 沢力夫 応援出演 花園キク子・ツユ子 浜田家日佐一・日佐治 〆廼家政月 津村敬一 杉原松月 松本アオバ 南隅子ほか

 大合同ショウ 亜細亜の乙女 新興舞踊隊 ミミー宮島 京町操
 
音楽ショウ ハットボンボンズ セルビアン楽団
 漫 才
【出 演】漫弾(新乃亮・喜代治) 竹幸・出羽助 洋月・艶子 寿々男・まり子 ノボル・テル子

 同年12月8日、太平洋戦争勃発。アメリカと敵対する事となり、彼らの活動もまた時局の協力と敵勢音楽の禁止という厳しい条件を突き付けられることとなる。

ハットボンボンズと戦争

 年明けて1942年正月、前年の真珠湾攻撃の成功もあってか、興行は浮かれに浮かれていた。この頃から戦時色が一層強くなる。

〇一月一日〜 松竹劇場
 軍国歌謡合戦
 丹下左膳大岡政談 永田キング一座 青春劇団
 青春日本晴れ 新興歌謡劇団
(歌謡曲)ハットボンボンズ
 漫 才

 多くの市民や芸人が召集されていく中で、20代にも関わらず、彼らの元にはまだ応召は来なかった。1942年も以下のような活躍をしている。

〇二月十日〜二十日 松竹劇場
 花咲く共栄圏 秦国の踊り 新興舞踊隊 ミミー宮島
 宮本武蔵 卜伝閑居の巻 青春劇団
 軽音楽 ハットボンボンズ
 漫 才

〇四月(十一)日〜(二十)日 松竹劇場
 明朗軽喜劇 天晴れ若旦那 藤井貢 伴淳三郎
 小鳩の笛 新進劇団
 楽しき日向路 葉村舞踊隊 新興舞踊隊
(軽音楽)ハットボンボンズ
 漫 才

〇五月二十一日〜 松竹劇場
 
ビルマの少女 伏見信子 二村定一
 兄いもうと 劇団文化座
 軽音楽 ハットボンボンズ
 漫 才

〇八月(六)日〜 松竹劇場 演目差し替え
 
夏の団扇絵 新興振袖連
 軽音楽 ハットボンボンズ

〇八月十一日〜 松竹劇場
 
をり鶴七変化 伊原史郎
 軽音楽 ハットボンボンズ あひる艦隊
 漫 才 東声小柳ほか

〇九月(二十)日〜 松竹劇場
 爆笑軽喜劇 箱入らず娘 新生歌劇団
 軽音楽 ハットボンボンズ
二十五日まで
キングレコード歌謡大会 司会 田中徳三郎 伴奏 あひる艦隊
(林伊佐緒、横山郁子、松山映子、宮城しのぶ、近衛八郎)
漫才 ヤジローキタハチほか

〇十一月二十一日〜 松竹劇場
 
お小夜恋姿 永田キング一座
 新舞踊もみぢ絵巻 新興振袖連
 燈台もと明るし あきれたぼういず 葉村舞踊隊 新興舞踊隊
 歌謡唱 甲斐百合子
(軽音楽)ハットボンボンズ
 漫 才 ラッキーセブン、司郎喜世美ほか

 1943年になると、規制も徐々に厳しくなり、舞台の検挙や検閲が一層強化され、英語由来の芸名を使う芸人・歌手たちは改名を迫られた。ミスワカナが玉松ワカナ、香島ラッキー・御園セブンが「楽貴・世文」といった事例は有名であろう。

 ハットボンボンズもその例外でなく、時局を慮って「愉快な楽人」と味も洒落っ気もないチーム名へと改名した。

〇四月十日〜 京都座
 
鈴木澄子の実演 新釈お吉野菊物語 新生劇合同応援
 軽音楽 ハットボンボンズ改め愉快な楽人
 新興新作漫才 日佐丸・ラッパほか

 そして、この頃になると戦況も悪化し、大人気のハットボンボンも優秀な若手の兵力として睨まれるようになる。これはあきれたぼういずや諸漫才連にも言える事であろう。彼らは少しでも舞台に残れるように軍事慰問や南方巡業などを行う事となる。

 しかし、その苦労も報われず、丸の内街男は出征。長年の六人組の友情もここに崩壊した。一行は穴埋めとして「大児七郎」「大木戸一」の二人を入れ、7人体制で頑張る事となる。

 1943年7月より、海軍の派遣で、歌手の松平晃、林伊佐緒、太神楽の鏡味小鉄、浪曲の天中軒月子たちと共に南方慰問。この時、花形アイドルとして随行したのが、往年の名女優・森光子であった。

 森光子は自伝『人生はロングラン』の中で、7月から1944年初頭まで約八カ月居た旨を記載している。

 帰国後、凱旋こそしたものの、既に戦局は悪化していた。

 大所帯を誇った新興演芸部の芸人連の中からも出征組が現れ、臨時コンビや数少ない人間でできる喜劇などでお茶を濁すようになる。以下の広告からもそれが読み取れるであろう。

○三月(一)日〜(十日は休業) 正午開場 京都座
 日佐丸ラッパの爆笑実演浪曲劇 万石一粒丸 日佐丸ラッパ劇団
 舞踊喜劇法界坊 雷門五郎一座
 (笑ふ音楽)ハットボンボンズ改メ愉快な楽人
 【出 演】豊島園彦 日比谷公 御里夢忠 浜美奈登 銀武良夫 大児七郎 大木戸一
 
漫 才 奴・喜久奴ほか
(※愉快な楽人が南方慰問から帰還第一回の公演と補遺あり)

○三月(二十二)日〜(三十日は休業)京都座 
 
大歌謡唱 日暮里子 鈴村一郎 緑川嘉信三重奏団
 
明朗時代劇 殿様明暗録 新生劇
 倅 雷門五郎一座 特別出演 花柳貞奴・花柳愛子
 (軽音楽)愉快な楽人
 女流浪曲 薫風軒桜月
 漫 才 小豆・かほるほか

〇五月一日〜 京都座
 
名月赤城山 川浪良太郎一座
 (音楽ショウ)愉快な楽人
 現代明朗喜劇 へちま 青春劇
 漫 才 日佐丸ラッパ

 上の公演をめどに、豊島園彦たちにも赤紙が届き、遂に活動停止を余儀なくされる。それから終戦後の数年間余り、ハットボンボンズ及び「愉快な楽人」は芸能界の表舞台から姿を消す。

 もっとも、彼らが出征した後、東京・大阪の劇場は焼き尽くされ、仲間たちの中には戦死した者もいた。戦争はハットボンボンズの活躍の翼をもぎ取ったといえよう。

 そして、丸の内街男も戦死。澤田隆治氏は『テケレッツノパ芙蓉軒麗花』の小論『芙蓉軒麗花ーー「浪曲」の盛衰と「歌謡浪曲」の成立をめぐる一考察』の中で、

「丸の内は応召して戦死したが、豊島は日活ファミリー・クラブ、日比谷は映音、浜と銀は青森三沢基地、御里は東京周辺の 基地で、演奏生活をつづけている。」

 と記している。戦後のメンバー表を見ると「丸の内街男」の名前こそあるが担当楽器が変わっているので、戦死した可能性はあり得るが、一方、前述の「四種以上の楽器を使えた」という点を考えると別楽器に移動したという可能性も否定できない(但し、初期メンバーだとするなら、後進に自分の得意楽器を譲る必要があったのかという矛盾も出てくる)

焼け跡とハットボンボンズ 

丸の内街男以外は無事に復員し、メンバーの到着と再会を待って、再び再結成。1946年初旬に再び立ち上がった模様。

 丸の内街男の穴を埋めるためか、或いは心機一転するためか、詳しい事情は判らないが、新メンバー5人――

 1946年12月、浅草常盤座への出演で本格的に復帰。『演芸新聞21号』(12月下旬号)に「ハットボンボンズの復活 浅草常盤座 ハットボンボンズが久しぶりに東京へ姿を現した……」という記事があるが、保存状態がすこぶる悪く解読する事が出来ない。

 ただ、この公演で本格的に復帰したとみてもよろしいだろう。復活の時は、7人体制であったが、この後に「トロンボーン・富井斗志、アルトサキサホン・丸の内街男、トロンペット・山尾登、波守攘、ピアノ・安湖まき」を加入させ、10人体制となった。随分と大所帯である。安湖まきは唯一の紅一点であった。

 1946年12月17〜30日、日劇レビュー『日劇クリスマスプレゼント』に出演。益田隆の引き上げ公演としても評判になった。

『日劇レビュー史』によると、出演は、益田隆、荻野幸久、姫宮接子、加藤昌子、橘薫、並木一路・内海突破、ハットボンボンズ、南部ハーモニカ楽団、川端文子、TDA。

 1947年3月11〜17日、『日劇音楽祭』に出演。出演は桜井潔とその楽団、三遊亭歌笑ほか。

『演芸新聞』(1947年7月中旬号)に当時のメンバーと担当楽器が記された、広告が掲載されている。戦後の新メンバーを知る数少ない資料である。

ハットボンボンズ

バンドリーダー トロムペット 豊島國彦
ベース 濱美奈登
ドラム 御里夢忠
アルトサキサホン 銀夢良男
テナーサキサホン 日比谷公次
トロンボーン 富井斗志
アルトサキサホン 丸の内街男
トロンペット 山尾登
トロンペット 波守攘
ピアノ 安湖まき

マネージャー 森田健三

 そして、メンバー紹介の記事も掲載されている。

 ハットボン/\新メムバー

 舞台または近頃映畫に活躍しているハットボンボンがメムバーを増強して一層ハリキルことになりこのほど新メムバーで記念のシャシンを取った即ち上掲の如しである、新メムバーはトロムペットの豊島園彦君をはじめ同じく山尾登、波守攘、トロンボーン 富井斗志、サキソホン丸の内街男、銀夢良男、日比谷公次、ピアノ安湖まき、ベース 濱美奈登、ドラム御里夢忠の諸君。

 しかし、10人体制の活動は必ずしも成功とは言えなかった模様で、この頃から徐々にソロ活動の方へと重点を置かれるようになる。

 その背景には新興演芸部が解散してフリーになった事、劇場が未だ復興しきれていなかった事、進駐軍慰問でジャズ演奏をした方がよい給金・待遇になったから――という当時の時局も挙げられると思う。

 世志凡太氏の話ではないが「ジャズバンドの慰問に行くだけでハムやパンをたくさんもらえた。時にはドラムや楽器箱の中に隠してまで持ち帰った」という待遇があった以上、寄席の微々たる給金などアホらしくなったのではないだろうか。ましてや彼らが一流の演奏家であったとなれば、寄席芸よりも演奏家の道を選ぶのは当然の選択だったといえよう。

 解散を明言した様子は、目下確認できないが、1950年初頭を最後に活動休止に至り、そのままなし崩し的に解散した模様。

 明確に裏付けの取れる、「ハットボンボンズ」としての最後の出演は、1953年2月の日劇レビュー『ラッキーサンデー』。『日劇レビュー史』に、

☆『ラッキー・サンデー」4場(28・2・18→3・3)
〇構成(山本紫朗)演出(堀内一)振付(岡正躬)装置(三林亮太郎)衣裳 (吉村倭一)音楽(村山芳男)
〇出演ーディック・ミネ、トニー谷、市村俊幸、空飛小助、小島まり子、ハット・ボンボンズほか、NDT

ニューヨークの大遊園地コニー・アイランドを舞台に、土曜日の夜から日曜日にかけての賑わいとペーソスを狙ったモダン・ バレエ。和歌みつるの抜擢、トニー谷、市村俊幸、ディック・ミネ、空飛小助、ハット・ボンボンズ等の起用がことごとく図に当って、娯しさの溢れたショーになった。

 と書かれているのが確認できる。

 最終的には、かつてのライバル、あきれたぼういずと同時期に自然解消をした模様。

ハットボンボンズの解散

 ソロへ転向後、それぞれ別のバンドや会社に所属し、バンドマンとして食っていく事となった。

『芙蓉軒麗花ーー「浪曲」の盛衰と「歌謡浪曲」の成立をめぐる一考察』の中で、

「丸の内は応召して戦死したが、豊島は日活ファミリー・クラブ、日比谷は映音、浜と銀は青森三沢基地、御里は東京周辺の基地で、演奏生活をつづけている。」

 と、先述したがメンバ―の消息はこれくらいなものである。

 ただ一人、豊島園彦は本名の「関沢幸吉」名義で活躍。マスコミや演奏会にも率先して出演するなど、ハットボンボンズ解消後も一流の音楽家として名を連ねた。

 1964年11月26日、NHK放映の『黄金の椅子「昨日から明日へ」―林 伊佐緒― 』で、久方ぶりに、日比谷(小峰)と園田(関沢)が顔を合わせた。

 1975年には、谷口又士率いる『オールドボーイズ』に参加。戦前ジャズマンの生き残りとして、その実力を発揮する事となる。

 1979年、斎藤憐『上海バンスキング』が注目されると、この一行も注目を集めるようになり、主演の吉田日出子と交友ができるなど、ちょっとした話題になった。

 1980年4月、リーダーの谷口が急逝したため、ジミー原田をリーダーに昇格させ、引き続き「オールドボーイズ」の活動を続けた。

 1981年12月、アルバム「今、青春!ジミー原田&オールドボーイズ」発表。老齢ながらもいつまでも若々しく巧みな演奏する一行の姿が高く評価され、売り上げも上々。翌年1月には初のリサイタルを行うなど話題を振りまいた。以下は『朝日新聞』(1982年1月11日号)の記事。

  69歳今青春「オールドボーイズ」がジャズ公演

 平均年齢六十九歳のジャズメン・グループ「ジミー原田&オールドボーイズ」が十四日午後六時から東京・有楽町の読売ホールで「今、青春!」と題して初コンサートを開く。初アルバムを出したのを機会に、円熟したサウンドを楽しんでもらおうという催しだ。
 グループは昭和五十年秋、谷口又士(トロンボーン)をリーダーに上野正雄(クラリネット)、関沢幸吉(トランペット)、小原重徳(ベース)、ジミー原田(ドラムス)とピアノの六人でスタートしたが、間もなくピアノが増尾博に入れ替り、五十五年四月、谷口の死去により馬場誠一(アルトサックス)、チャーリー菊川(ボーカル)を加えて原田をリーダーに再出発した。

 平成に入った後もジャズ界の長老として矍鑠とした活躍を見せて居たが、2003年1月17日、88歳という長寿を名残に死去。

 ジャズ界の長老とだけあってか、各紙訃報欄に掲載された。以下は『朝日新聞』(2003年1月19日号)掲載の訃報。

 〇関沢幸吉さん死去

 関沢幸吉さん(せきざわ・こうきち=ジャズトランペット奏者)17日、心不全で死去、88歳。葬儀は19日正午から東京都板橋区徳丸1の8の5の東武練馬シティホールで。喪主は長男一賀(かずよし)さん。
 日本のジャズトランペットの草分け的存在。コミック・ジャズバンド「ハット・ボンボンズ」にリーダー格で参加。戦後はジミー原田のバンドなどで活躍した。

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