河内家正春・春子

河内家正春・春子

 人 物

 河内家かわちや 正春まさはる
 
・本 名 ??

 ・生没年 ??年~??年
 ・出身地 ??

 河内家かわちや 春子はるこ
 ・本 名 ??

 ・生没年 ??年~??年
 ・出身地 ??

 来 

 戦前活躍した夫婦漫才師。正春がバイオリンをかき鳴らす漫才で人気があったという。

 正春は元々洗濯屋の従業員で、バイオリン演歌をやっていたという変わり種であったそうで――『大阪春秋・28号』(1981年5日1日)掲載の『座談会 大阪演芸よもやま噺』で、浮世亭歌楽がその前歴を語っている。

 三奇人の一人に、河内屋正春がいた。芳春の弟子で洗濯屋の若い衆で、演歌師になりとうてバイオリンをやってたが、巡業にきた芳春の一座に加わった男です。

 ここでいう芳春とは、河内家千代鶴とのコンビであった初代の河内家芳春の事であろう。芳春は、1923年に亡くなっているので、それ以前に入門して修行したことは間違いなさそうである。

 『上方落語史料集成』で確認できるのは、1926年が最古か。この頃には一枚看板だったところを見ると、それ以前から人気があった模様。以下は、『京城日報』(大正15年12月1日号)に出た広告。 

◇[広告]明治町 電話二六〇番 浪花館/十二月一日より 東京落語橘家圓坊・橘家扇三一行/入込御〇(喜ん三)浪花噺(楽天坊)落語手踊(枝女蔵)落語珍芸(三五郎)高級萬歳(春子、正春)落語盆の曲(圓坊)女道楽(芝美初)人情笑話(扇三)一流舞踊大切(座員総出)

 なぜか大正末から、昭和初頭は朝鮮半島にいた模様。理由は知らないが、落語の一座の座員として入座していた、と見るのが妥当か。下は改元後間もない、『京城日報』(1927年3月27日号)の記事。

◇[広告]浪花館/三月二十七日より東京落語橘家扇三一行/演題 浪花落語(喜久三)笑話踊(枝女蔵)落語手踊(橘家楽天坊)女道楽(歌沢芝美初)落語百種珍芸(桂三五郎)高級音曲萬歳(河内家春子、正春)ヴアイオリン義太夫各動物物真似(石村松雨)人情笑話一流踊(橘家扇三)大切余興(座員総出)

 1年近くにわたる朝鮮巡業の末に帰国。再び大阪の吉本系の小屋に出るようになる。1928年1月に開催された漫才大会に出演している様子が確認できる。

 京都の寄席案内 二十一日より
△新京極富貴 東都講談界の大家神田伯竜及東洋メリー、直造、小春団治、枝鶴、可蝶、芝鶴、馬生、ざこば、助六、三八、源朝、桃太郎にて開演。
△新京極花月 夜万歳大会 小正、正右衛門、康男、当月、川畑連、春子、正春、一春、出羽助、七五三吉、都枝、セメンダル、小松月、照子、菊丸、小夜子、喜楽。

 1928年11月11日より「御大典記念興行」の興行に出演。

△新町瓢亭 蔵之助、正春・春子、福団治、芝鶴・歌蝶、染丸、千橘、武司・重慶、春団治、直造、馬生、枝鶴、五郎・雪江、塩鯛。

 『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「河内家正春・春子」とある所から、この頃には吉本専属だった模様。

 1929年8月、京都新京極にあった富貴に出演。ここは南北の花月に次ぐ名門の席で、ここで修業した漫才師も多かった。以下は『上方落語史料集成』に出てる番組。

京都の寄席案内
一日より △新京極富貴 三木助、文治郎、正光、勝太郎、ざこば、春子、正春、馬笑、助六、直造、三馬、卯之助、三八、源朝。

 以来、富貴を中心に活躍。当時は「流行小唄万歳」と名乗っていたらしく、『大阪毎日新聞』(1930年4月20日号)に、

◇本社職員家族慰安会は十九日午後六時半から大阪中央公会堂に開かれた…ワンダー正秀、同正光の奇術にはじまつて桂小文治の落語、河内家春子、正春の流行小唄万歳、さては長唄「靱猿」を杵家弥七社中の美しい人々が聞かせ……

 とある所から、もうこの頃にはバイオリン漫才を確立していた模様。

 当時としては珍しくレコードに率先して吹き込みを行い、録音を残した。以下は『演芸レコード発売目録』などから割り出した一覧。

 1929年10月、ニットーレコードから『小唄吹きよせ』『民衆的英語』(3642-A・B)

 同年11月、ニットーレコードから『都々逸(乃木将軍)』。

 同年12月、ニットーレコードから『ヴァイオリンの都々逸』(3738-A・B)。

 1930年4月、ニットーレコードから『八百屋お七』(3934-A・B)。

 同年5月、ニットーレコードから『アラビア問答』『アイウエ王国・小原節

 同年8月、ニットーレコードから『モダン忠臣蔵』。

 1931年6月、ニットーレコードから『結婚と八卦』(5179-A・B)。

 同年7月、ニットーレコードから『満韓旅行』(5221-A・B)。 

 同年9月、ニットーレコードから『萬歳放送』(5306-A・B)。

 少し遅れてテイチクの子会社、スタンダード盤に加えて、『朗らかに歌え』『ノンキな父さん』が発売されている。

 当時の漫才師としては、なかなかの枚数であり、その人気が反映されているように思われる。なお、『民衆的英語』は『大衆芸能資料集成7巻』の中に納められている。また、コッカ、ツルなど含めて、23枚ほど吹き込んでいるというのだから、相当人気があったのだろう。(以上、『ニットーレコード総目録』より引用)

 1931年6月中席、吉本きっての名門劇場「南地花月」に初出演。以下はその顔触れ。

△南地花月 リーグ舌戦会 おもちゃ、清・クレバ、春子・正春/西村楽天、小春団治、円馬、枝鶴、直造、ろ山、春団治、三木助/コミック、ジャズ、松旭斎天右一行。

 この出演で成功をおさめたと見えて、それ以降は南地花月の常連になる。さらに、北新地花月にも出演が許されるようになり、名実ともに上方漫才の大看板へと成長した。

 この頃、日本芸術協会の発足に伴い、一時期会員となっている。東京の寄席にも出演した。

 漫才のスタイルは、先述したとおり、バイオリンをかき鳴らし、都々逸や流行歌を謳うスタイルで人気があったという。

 また、非常に変わった、面白い人間だったそうで、一種の奇人のきらいがあったという。浮世亭歌楽は『座談会 大阪演芸よもやま噺』の中で、

 嫁はんと舞台に出るんですが、気に入らなんだら舞台を下りるなり、バイオリンでバーンと撲るんで毀れるです。次の舞台バイオリンなしで実に旨く勤めるんだ。
 この男が無類のバクチ好きで、負けがこむと道具屋さんできて、「わし、 ここ出るよってに、ウチラにあるもん全部買うてくれ」いうて宿替えしてしまうんだ。

 と語っている。腹いせにバイオリンを殴って、商売道具を壊してしまうそそっかしさが、何とも言えない悲哀がある。

 人気があったものの、『ヨシモト』などに写真が出ていない。どうしたものか。

 戦時中まで、その名前を確認する事が出来るが、戦後ぱったりと消息が途絶える。廃業した模様か。

 人気の割に、これという資料のない不思議な存在である。

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