マジカルたけし

マジカルたけし
人 物
マジカル たけし
・本 名 前田 武司
・生没年 1944年2月20日~1991年3月19日
・出身地 神戸市 灘区
来 歴
戦後、上方演芸界でも数少ないプロマジシャンとして活躍した一人。松旭斎晃洋門下。実兄は落語界の爆笑王こと二代目桂枝雀。幼い頃は兄と行動し、インスタント漫才コンビを組んでいたこともあった。落語と奇術を生かした「マジカル落語」を創始したが夭折した。
幼年期の経歴は枝雀と大体同じである。前田武男・ますえの末っ子として生まれる。5人兄弟の末っ子で、姉3人、兄1人であった。その兄こそが枝雀である。
父・武男は神戸市灘区中郷町にブリキ工を営んでおり、熟練工であったという。仕事で得た金を道楽や音楽に使うような人であり、枝雀・たけし兄弟にもこれが遺伝したという。
1945年6月10日、神戸大空襲に罹災し、父親の出身地である鳥取県倉吉市(当時は倉吉町)へ疎開。父の親類の家に転がり込む。
兄姉たちは地元の学校に通うことになったが、たけしは1歳だったこともあり、鳥取時代の記憶を持たなかったという。
1946年6月、兵庫県伊丹市に戻り、同地で育つ。その後は地元の学校へ進学した。
1954年、父の武男が死去。戦後貧しかった家計はますます傾き、極貧生活を強いられることとなる。この頃から兄同様に落語や漫才に興味を覚え、素人演芸に熱中するようになる。
1957年夏、朝日放送の素人コンクール番組『漫才教室』に出演。兄貴と共に「前田兄弟」を結成。コンクールを勝ち抜き、天才少年としてうたわれた。
当人たちはチャンピオンの座よりも賞金が欲しかったこともあり、番組関係者に頼んでわざと殿堂入り直前に不合格にしてもらったり、1人でコンクールに出たりしてあの手この手で出演を続けていた。関係者も前田兄弟の腕と生活を見込んで、あれこれ骨折りしてやったという。
中学卒業後から奇術界入りの理由は、廓正子『まるく、まぁ~るく桂枝雀』に詳しい。
松旭斎たけしの回想――。
「『漫才教室』に出はじめた頃は(小学生で)小さかったので、好きでも嫌いでもなかったように思います。ぼくは末っ子やったから、いつも兄貴にくっついていただけ。 兄貴と漫才をやらない時は、二人とも落語で出たりしてたんです。ぼくも(大阪・ ミナミの)南炭屋町にいてはった米朝師匠にちょっと教えていただいたこともありました。
そのうち、兄貴が内弟子に入るというし、ぼくも中学を卒業して、北野高校(大阪府立)の定時制に入学し、阪急電鉄に勤めました。仕事は改札係です。改札係というのは、 休憩時間がたくさんありましてねえ。早出の時は午前六時から午後二時までで、一時間(改札口に)立ったら三十分休みです。これも慣れてくるとお互いに、時間の融通つけあうこともできたんです。
サ、そうなると休憩時間はあるしラジオの素人参加番組に出るにも相手はいてへんし、なんぞすることないかいなあ……。ふと、思い出したのが手品です。
小学生の頃、母親に連れられて阪神百貨店へ行った折に、一階に手品の売り場があって、ディーラーが四つ玉』というんですが、ピンポン玉を増やしたり、減らしたりしてるのを見て不思議やなあ、と思ったのが頭に残ってたんですねえ。そうや、 手品やったら一人でできるなあ……
梅田駅勤務でしたから、休憩時間に阪急百貨店へ行ったら、ちょうどゼンジー中村さんが『パンカード』をやってはったんです。トランプをさっと扇形にするネタです。 早速、買うて帰りました。ただし、普通のトランプをです。
この後、仕事のかたわらで奇術に熱中するようになる。当人は「漫才は相方を作らねばできん、落語などは師匠につかねばならんが、奇術なら努力次第でいくらでもなる」という熱心さから奇術に没頭したという。
井澤壽治『上方大入袋 名人の心と芸』によると――
「梅田駅の改札係です。この仕事、割合に休憩時間があってヒマやったんです。時間潰しに阪急百貨店を覗いたらちょうど売場でゼンジー中村さんが実演中でした。カードが扇形にひろがりますねん。改札に戻っても、目に焼きついて消えません」
奇術を見てあこがれる、ネタを買って練習する。うまくできる筈がない。ここであきらめるというのが、おおよそのパターンである。たけしは運がよかった。好きが嵩じて通勤電車の中でも熱中した。見知らぬ人から声がかかり、手品のベテランを紹介された。
「手品は指先の訓練が一番や、まず十円玉を指から指へ送っていく。”指送り”から始めなさいというわけです。十円玉が指から落ちてころがる。拾いあげて指に戻す。また落とす。それでも辛抱づよく毎日繰り返しているうちにできるようになりました」もう強いものである。次々と新しいネタに挑戦する。余興にも招かれる。好きな手品が人前でやれて謝礼がもらえる。こうなると、かつての漫才教室時代の栄光も甦って自信になる。十九歳の時松旭斉滉洋に入門。内弟子としてプロへの道をこころざす。以来十年、きびしい修行に耐え昭和四十七年独立を許される。
そして、そんな努力が実って次々と奇術をマスターしていき、最終的にはセミプロとして金を稼ぐようになった。
「そうしているうちに売り場でアマチュアやセミプロの人たちとも知り合うようになり、ある日。こんな仕事あるねんけど、行けへんか”と誘われました。どこかの祭りやったと思いますわ。人前でやってギャラいただいた最初です。そこそこ受けたし、 お金もいただける、こら面白いなと思いだしたんです。
いまもあんまりかわりませんけど、あの頃は奇術やれたら、アマもプロもほとんど関係なかったようで、ぼくにも次々と仕事がきはじめたんです。海水浴場のアトラクションがたくさんありました。芸名を勝手に“星たけし”とつけてね。
会社もたけしがマジックを副業にしていると知っていたようであるが、黙認した。この後、「ノイローゼ」と称して会社を休み、地方巡業とキャバレー廻りに出ていたことが会社と親にバレた。
会社は許してくれたが、母親は激昂、ずいぶん泣かれたという。
こういうこともあり、たけしは「一本立ちしよう」と志し、会社を辞めたという。
しばらくはフリーでやっていたが、当時売れっ子であった松旭斎滉洋にほれ込み、彼のもとに弟子入りを直訴。
19歳の時(1963年とも1964年とも。公式プロフィールでは64年だが、古川嘉一郎『少年の日を越えて 「漫才教室」の卒業生たち』では63年としている)、松旭斎滉洋に入門。本名から「松旭斎たけし」と名付けられる。
当時の関西の奇術事情もあり(プロマジシャンが少なかった)、早くから松竹芸能を紹介され、「松旭斎たけし」の名前で高座に出るようになった。
1972年、師匠から一本立ちを認められ、独立。松旭斎滉洋が所属していた広栄企画と松竹芸能に所属した。
奇術師としては師匠譲りのスライドハンドマジック、テーブルマジック、シガレットのマジックなど、立って演じられる西洋奇術を得意とした。
颯爽としたタキシード姿で現れてスピーディーに奇術をこなし、バックミュージックや後見も西洋ナイズされたものであったという。
1975年に吉本興業へと移籍。漫才の合間の色物として出演し、頭角を現すようになった。
1978年7月1日、広栄企画を退社し、フリーとなる。吉本には所属を続け、漫才ブームや吉本人気の勃興などもあり、出番には相応に恵まれた。
この頃、兄の桂枝雀が頭角を現したこと、上方落語の復興が成し遂げられたこと、当人も落語好きだったこともあり、「マジカル落語」と称した新しい奇術を模索するようになる。
1980年4月20日、『花王名人劇場』の「爆笑!枝雀たっぷり」にゲスト出演。兄とのトークと奇術を演じ、全国区に名前が知れ渡るようになった。澤田隆治などの引き立てもあり、枝雀との行動が続くようになる。
この頃になると吉本の寄席のかたわらで、兄の師匠である桂米朝一門に近づくようになり(以前から親交はあったが)、米朝一門の身内というような落語会にも出演するようになる。
中でも枝雀一門、米朝一門など落語家とのつながりが深く、奇術師の中でも特異の存在となっている。
こうした落語界との関係もあり、「マジカル落語」を練り上げて演じるようになった。
普通の落語家同様に着物姿で見台の前に座り、落語を一席演じる――というものであったが、噺の要所要所で奇術を見せるという奇抜なアイディアを見せた。
いくつか映像が残っているが、例えば「うどん屋」を演じる場合は――まずは高座に出てきて、軽い奇術を演じる。うどん屋と客の掛合を見せながら、「茶碗から紙吹雪」、「紙うどん(紙くずをどんぶりに入れてうどんに変化させる)」、「紙筒からビール瓶の取り出し」、「ビール瓶の消失」、「ハンカチの手品」などを次々と展開する。
その奇術も、噺の邪魔にならない、ほどのよさがあった。他にも『子ほめ』『道具屋』などを改良したネタを持っていた。
初めて大劇場で演じたのは、1981年8月25日、新潟県長岡市で行われた「枝雀独演会」だろうか。当初は段取りもあまりよくなく、話術も地味だったこともあり、客の反応はイマイチであったが、徐々に工夫を凝らしていき、話術も奇術も両方見せるというユニークさを発揮した。
その変わりようは兄の枝雀も驚くほどであったという。
1982年8月、「マジカルたけし」と改名。以来、独立独歩で活躍をつづけた。
ユニークな奇術に加え、兄・枝雀や米朝の引き立て、当人も芸熱心で真面目だったことから、昭和末に入るとテレビや落語会を掛持ちするほどの人気者となった。
一方、私生活では以前から愛飲していた酒癖がひどくなり、酒で舞台を休演したり、体調を崩すこともあった。
『よしもと大百科』の中で同僚の月亭八方は――
この人普段はおとなしいんやけど、酒のむとホンマに人が変わるで。別に悪い人に変わるわけやないからエエもんの、飲んでない時と比べたら、そら顔つき目つきがちごてるわ。
と指摘し、同輩の西川のりおも『吉本興業商品カタログ』の中で――
マジカルたけしって、枝雀さんの弟さんですよ。この人酒癖悪いんです。吉本のマネージャーの野山に以てまんねん。ようなんば花月の向かいの『赤垣屋』で、酒飲んで、ぼやいとった。飲む前と後ではいちばん変わりますね。
と揶揄している。井澤壽治『上方大入袋 名人の心と芸』でも――
たけしの家は阪急塚口駅より少し離れた住宅街にある。ホロ酔い機嫌のたけし、駅を出るとあたりは真っ暗闇。なにかの事故で停電になったらしい。通いなれたる道とて構わず家路を急ぐ。折悪しくドブ板が腐敗していて溝に落ちこんだ。腕から肩をしたたかに打って、しばらくは昏倒。かなりの重傷だ。しかも大事な右の利き腕が使えない。ところが次の日、彼は桂歌の助の落語会で、まじかる落語を約束していた。誰もが無理だと思った。さすがはマジシャン、包帯を和服で隠し左手一本で演じて見せた。
「恥ずかしいて溝に足とられたなんて言えますかいな、芸人が穴あけてどないしまんねん」 見上げたプロ意識である。しかしこのあとが大変だった。回復に二カ月もかかった。
笑顔の絶えない優男のたけしからは想像もつかない話だが、ドブ板に穴をあけても舞台に穴をあけない。芸人根性には頭の下る思いだ。
1991年1月8日、吹田市メイシアターで行われた「桂枝雀独演会」に出演し、達者なところを見せていたが間もなく肝不全の悪化のために入院。2か月足らずで息を引き取った。
この弟の夭折は、当時精神的不調を訴えていた桂枝雀に大きな打撃・負担となったそうで、枝雀は弟の死以来、ますますふさぎこむようになったという。
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