浅田家キリン

浅田家キリン

十八番の「抜け首」
前がキリン・後ろが日佐丸

 

 人 物

 浅田家  あさだや キリン

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1970年以降
 ・出身地 大阪

 来 歴 

 戦前活躍した漫才師。「キリン」の名の通り、細長く色白の顔と首がトレードマークであったそうで、これを売り物とした。

 元は浪曲師だったらしく、『都新聞』(1936年6月12日号)掲載の「出演漫才師列伝」の中に、

浅田家キリンさんは大阪の生れ、浪曲家浅田家水戸黄門の弟子となり、浪花節を修業後、浅田家朝日の門に入つて漫才に転向、首が長いのでキリンと命名……

 とある。然し、水戸黄門などという浪曲師は実在したのだろうか。もしかしたら、日吉川秋水一門(関西浪曲界の大御所。水戸黄門を得意とした)を省略して言っているのかもしれない。

 浅田家朝日に入門後、まずは師匠の朝日とコンビを結成。『上方落語史料集成』を見ると、1933年には既に一枚看板となっており、同年7月には、

△北新地花月倶楽部 キリン・朝日、円馬、福団治、九里丸等花月連出演。入場料三十銭。 

 と、早くも一流の寄席に出演している様子が確認できる。

 1934年頃、兄弟子の日佐丸とコンビを結成。『上方落語史料集成』には、1934年10月中席の番組表に、

△北新地花月倶楽部 雪江・五郎、柳橋、庫吉・芳奴、三木助、一光、日左丸・キリン、枝鶴、文男・静代、円枝、九里丸、正春・春子、福団治、蔵之助。

 両人ともに、浪曲師が前身だったためか、声が良く、浪曲や唄も達者で初期の漫才を代表するコンビとして注目を集めた。

 また、自らの長い首を生かして、「抜け首」なる珍芸を演じる事もあったそうである。その「抜け首」は『ヨシモト第1巻2号』(1935年9月)の『首が売物』に詳しく描写されているので引用。

 人に秀でたる者のことをキリン兒と申しますか、我がキリン氏もその名に恥じず人より秀いでて居ります。ーー首より上が。
 そこで日佐丸氏得意の珍無類「首の按摩」が始まります。
 日佐丸氏、盲人の恰好よろしく、
「旦那、これ首ですか、脛と違いますか。フーン本當に首ですか。大抵の人は耳の下が肩やが、旦那のはどこに肩があるか分らん。アレアレ揉んでると旦那の首は段々伸びて来ますね!」
さすが、この道で永年努力苦労してるだけに二人の舞台は一種独特の味で我々を魅きつける。そして、二人の舞台は臨機応変だ。
この間も角座の大会で、カブリ付きの客が舞台の端に置いてゐたパナマ帽を、キリン君がさつさと覆つてしまつて、観客の爆笑を呼んでゐた。敬服すべき機知だ。
仄聞するところに依ると、二人は目下舞台の新工夫に切りに練つてゐるとか。我々もキリン君に負けないで首を長くして待つてゐますよ、おつとコレは失禮。

 然し、この直後に日佐丸と別れ、1936年3月(雑誌『ヨシモト』4月号の広報より)、河内家一春とコンビを結成。コンビ結成後、これまでの浪曲や珍芸を捨てて、話術一本にシフトチェンジを果たした。

 1936年6月12日、JOBK『寄席中継』に出演し、「僕のメイアン」を披露している。以降、吉本の中堅株として活躍し、「一時はエンタツ・エノスケに迫る人気となった」(『大衆芸能資料集成』の小島貞二の記載)が、戦中に漫才を廃業した模様である。

 戦後は「興行師」になったらしく、どういう事情か不明であるが久留米に移住し、当地で芸能社を経営していたそうである。秋田実主催の『漫才』(1970年3月号)の『笑いのテクニック(20)』に、

ちなみにキリンさんは今も元気に、久留米を本拠にして芸能社をやっている

 とある。晩年まで秋田実と交友があったのは事実のようだ。

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