轟一声・勝世

轟一声・勝世

電話をする轟一声(関係者提供)

 人 物

 とどろき 一声いっせい
 ・本 名 白石 正光
 ・生没年 1906年1月18日~1982年春
 ・出身地 愛媛県 新居浜市

 とどろき 勝世かつよ
 ・本 名 白石 玉子
 ・生没年 1907年10月3日~1979年
 ・出身地 鳥取県

 来 歴 

 戦前戦後活躍した夫婦漫才師。漫才師の実績よりも、興行主としての方が有名だった模様。

 二人の出生年月日と出身地は『上方演芸人名鑑』『文化人名録 1968年度版』より割り出した。

 一声の経歴は、『国立劇場演芸場』(1981年3月号)の『てんのじ村今昔』に詳しい。当人は律義に経歴を「大阪市西成区山王町の今と昔」なる覚書を国立劇場に送ったという。結果として、これが遺言のようなものとなった。

 出身は愛媛。『上方演芸人名鑑』によると、新居浜市の出身。『国立劇場演芸場』によると、元々は浪曲師であったが、パッとすることなく、1930年冬、漫才師に転向。エンタツアチャコ以前の大看板で人気者だった轟一蝶に入門し、「轟一声」。

 その後の経歴は『国立劇場演芸場』に詳しいので引用。

私は昭和五年冬に漫才師になり、地方の旅まわり一座に入り、昭和八年春、山王町二丁目(現一丁目)に市川駒治・橘ルリ子、立花家竹の子・わかめ、それに私たち三組が住んだ。いづれも漫才師だが、これが山王町に居住した最初の芸能人である。私が山王町を知ったのは師匠の轟一蝶・美代子がこの地で旅館を経営していて、地方廻りの合間に泊っていたことからだ。旅館経営では旧吉本興業(敗戦で解散)にいた酔月楼とり三もやっ ていた。漫才師で私同様芸能社をやっていた松鶴家団之助(昭和54年歿)が居を構えたのは私たちより少し後だった。当時の山王町は西成区でなく住吉区だったが、それ以前は西成郡天王寺村だった。私が山王町を根じろに仲間と仕事に出かけたある日、どこに住んでいるのやと聞かれて、天王寺村ですとからかい気味に答えたのが、天王寺村『てんのじ村』の語源である」。

 妻の勝世は前歴不明であるが、元々は浮世亭出羽助門下の出羽治とコンビを組んで人気があったという。1932年頃、コンビを解消し、夫とコンビを組んだ。

 その頃、山王町に引っ越し、いわゆる芸人横丁・てんのじ村の先駆けを作る。本人は、その元祖的な自負があったようであるが、遂に注目されることはなかった。

 戦前及び戦時中は、吉本にも新興芸能にも近づかず、石川芸能なる中堅どころの会社に斡旋してもらい、端席や地方巡業、軍事慰問などに出かける日々を過ごした。

 慰問は何度も行ったらしく、当人は「中支、南支、北支、満州、果ては海南島まで」に行ったとの事。

 ただし、『近代歌舞伎年表』などを見ると、新興演芸部の劇場に出入りして、ワカナ・一郎やラッキー・セブンと共演している様子が確認できるため、眉唾な一面もある。

 戦後もしばらくは、芸人として地方巡業や慰問などに精を出していたが、間もなく轟芸能社を経営するようになったため、舞台から一線を退いた。

 因みにこの引退に伴い、師匠轟一蝶から譲られたミュージックソーを横山ホットブラザーズに譲渡した。時に「横山ホットブラザーズは轟一蝶からノコギリをもらった」とあるが、それは間違いである。

 事実、アキラ氏は、生前の一蝶が演じるノコギリを見たことなかったという。『上方演芸大全』の聞き書きに、

――漫才はいろんな珍芸を生みました。
アキラ 轟一蝶・美代子さんはバイオリンを壊したりの芸でしたが、うち、あれもらいました。のこぎりも一蝶師匠が戦前アメリカ巡業に行ったとき買うてきはってそれももらいました。一蝶師匠がバイオリンを組み立てておいてバーンと叩いて壊して「熱海のー海岸ぁんー散歩するー」というと、美代子さんが「貫一っつぁーん」「あぁびっくりした」となったりの芸があって、それも使わしてもらいました。のこぎりは一度も使わはるのを見たことがなかったが、それがお弟子の轟一声さんに渡って、一声さんは相方が三味線弾いている横でカンカラカンと当たり鉦みたいな感じでのこぎりを打っていた。それを「漫才やめて興行師になるからお前、使え」言うてくれはった。ぼくらも何とかものにせないかん、言うて工夫したんです。

 妻の勝世は、古い友人で、てんのじ村の住人であった荒川芳香とコンビを組んで、古風な音曲漫才を展開していたという。

 同じく興行社を経営する松鶴家団之助と鎬を削ったようであるが、団之助の方がかつての人気と人望が物を言ったと見えて、遂に村長格になり得ることはなかった。そういう意味では割を食ったといえるだろう。

 1973年、芸人たちとの和合が取れないことや東五九童との対立を理由に、人生幸朗・山崎正三や吉本系の芸人たちと共に関西演芸協会から離反。「関西芸能親和会」発足に奔走し、人生幸朗と山崎正三を会長・副会長に仕立て、自身は事務局長に就任。主に裏方の仕事に徹した。

 1979年、妻の勝世が死去――と、『上方演芸人名鑑』にある。

 1981年度の『演芸家連合』の名簿に、「会計事務局長」として出ているが、翌年には吉田茂と交代している。

 会報誌『演芸連合 21号』(1982年8月1日)の中に、人生幸朗と並んで「没」とある。1982年に亡くなったのは間違いない。

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