東みつ子

東みつ子

東みつ子

荒川千成と共に

東みつ子・南ふく子時代
(関係者提供)

吉田茂・東みつ子
(関係者提供)

最晩年の東ひさしとのコンビ
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 人 物

 あずま みつ
 ・本 名 瀬良 芳乃

 ・生没年 1926年2月10日~2011年12月24日
 ・出身地 兵庫県 竜野市

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。晩年の吉田茂とコンビを組み、難波利三『てんのじ村』の西美也子のモデルとなった。父は、四海浪太郎。夫の一人は、荒川千成である。

 生年月日、出身地は『日本演芸家名鑑』より割り出した。その経歴は『大阪春秋 特集・新世界』(第88号 1997年9月19日号)掲載の、泉耿子『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』に詳しい。以下は、その引用。

「父は萬歳師で芸名・四海浪太郎(明治三十二年生)、相方は四海浜治、この浜治さんが私にとっては母親代わりみたいなもんです。私は四歳から一緒に舞台に出てました。親子漫才ですな。というのは、浪太郎・浜治のコンビは前半の一五分、萬歳(漫才でない)して、 お客さんの前で服から芝居の扮装(化粧三分、衣装二分)に早変りして、歌舞伎芝居の浄瑠璃を演ります。その合間に舞台から『あと二分』とか『あと一分』とか、タイムをとったり、演し物が『加賀見山旧錦絵』『壺坂霊験記』『苅萱道心』などで、石童丸の役したりね、してました。父と別れて生活し始めたのは私が一四歳ころでした。」

 ただ、『日本演芸家名鑑』では、「4才の時、五味国衛・和田勤二のレンサ劇に子役として出演」とある。本人も語るように、何でも屋の「子役」として、あれこれと駆り出されて出演していたことと見るべきだろうか。

 以来、父とコンビを組んだり、多くの劇団を出入りしながら、旅芸人の娘としてキャリアを積んでいく。親が芸人とだけあって、三味線、音曲、舞踊、雑芸を厳しく仕込まれたが、これが後年の財産となったのは言うまでもない。

 1935年、10歳の時に漫才師デビュー。相方は父・浪太郎。この頃、荒川千成の門下に入り、「荒川みつ子」と名乗る。

 1939年頃、父の元を離れ、独立。一時期はかしまし娘の父・正司利光が主宰する一座にもいたそうで、『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』の中に、

「父と別れて生活し始めたのは私が一四歳ころでした。それから皆さんにお世話になりました。かしまし娘さんとこも行きました。歌江さん(座長)が一二歳、照江さん八歳、花江さん四歳くらいやったと思います。いろいろの 方に仕込んでもろて、おどりや三味線の手ほどき受けて、芸人の格好ついたのは一七(歳)くらいのときですわ。子役で旅廻りして、神戸の松竹やら、新世界の第二朝日劇場でも頼まれて主人の千成の他の師匠の相方も務めました。当時、芸は誰も教えてくれません。 立派な師匠の相方しながら芸を盗むんですわ。」

 とある。

 その後、荒川千成一座に入団。成り行きで千成と結婚する。歳の差なんと、38歳。漫才界でも記録の歳の差結婚ではなかろうか。千成の身のまわりの世話をしながら、芸を盗み、見る見るうちに頭角を示した。『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』の中で、

「荒川千成にはそら沢山、弟子がいたはりました。私が最後の弟子で、結婚したんです。まあ、相方しながら一緒に生活して身の廻りのことしたんです。

 と語っている。

 1944年頃、西成区に転居し、通称「てんのじ村」の住人となる。しかし、戦局の悪化に伴い、高松へ疎開。同地で終戦を迎えた。

 その間、養女として、宮子なる女の子をもらった。この子は、後年、奇術師をやっていたが、あひる艦隊の大谷実と結婚して、主婦におさまった(ただし後年別れている)。

 長らくその消息を探っていたが、先日、高橋ひろみ氏のご協力で見つける事が出来た。上の没年もその時に伺えたもの。ご協力ありがとうございます。

 1946年、高松から引き揚げて、西成区に復帰。夫千成と共に暮した。『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』に、

「私が山王へ来ましたんは一八歳でした。芝居専門の石川興業社で先乗り(興行先に宣伝ビラを配ったり、芸人の宿の手配をする)をしてました。戦争中ちょっとの間、四国の高松へ疎開してましたが、二十一年高松で迎えた養女をつれて再び石炭箱一つで戻ってきてから、もうずうーっとここに住んでます。相方であり夫の荒川千成と一緒に生活してましたけど、主人と私は三〇歳ほど歳が違いましたから、主人が六一歳で中風で倒れた。二十九年に引退興行をして、相方引退後、私は初代久丸さんの妹で 元芸妓さんしてはった南ふく子さんと歌謡漫才コンビを組みました。」

 とある。戦後も地方巡業などに出ていた模様。

 1949年頃、夫の千成が中風に倒れ、看病に明け暮れる。夫が再起不能と知るや、生活のために、漫才を続投した。

 1953年、南ふく子とコンビを結成。ふく子は、元々浅田家日佐絵と名乗った漫才師で、兄に浅田家朝日浅田家日佐丸がいる。

 1954年、花月亭九里丸や一門弟子の音頭で、荒川千成引退興行が行われた。しかし、当の千成は、中風のために舞台へ出られず、当人不在の引退披露という変則的な形であった。

 この頃、松竹演芸にスカウトされ、入社。角座などに出演するようになる。みつ子・ふく子コンビは、従前の写真の通り、三味線を持った音曲漫才で、諸芸尽くしを得意としたコンビであった。

 1961年8月20日、NHKから放映された『日本の素顔 「浪花の芸人」』に、コンビで出演している。僅かであるが、二人の高座の模様を垣間見る事が出来る。

 1963年5月1日、荒川千成死去。臨終に際し、先々妻、先妻、みつ子、それに弟子たち一同が駆け付けた――と吉田留三郎『まんざい太平記』にある。

 この頃が、みつ子・ふく子コンビの全盛で、角座、浪花座、松竹座などに出演。テレビなどにも出演した。

 1971年、ふく子の病気に伴い、松竹を退社。身寄りのないふく子を引き取り、看病をしながら、舞台を続けた。

 以来、コンビをとっかえひっかえ続けたが、縁あって、男やもめになっていた吉田茂とコンビを組むこととなる。

 1974年、南ふく子死去。吉田茂と正式にコンビを組む。みつ子の三味線や歌に合わせて、茂が安来節や野球ダンス、十八番の『かぼちゃ』を踊る珍芸風の舞台を展開した。この芸に関しては、吉田茂の項目に書く。

 この頃、小説家の難波利三と知り合っており、吉田茂と共に『てんのじ村』の主要人物として、取材を受けた。作品の後半に登場し、葛藤苦悶する花田シゲルをよく支え、一緒に売り込むまで行動する相方の西美也子が、東みつ子その人であるそうだ。

 1981年1月29日、NHK「ばらいえてテレビファソラシド」の企画、『芸歴500年・オールド漫才』 に出演。小説でクライマックスになっているのは、この番組だろうか。判らない。

 他の出演者は、萩笑三・萩奈良恵ボクジロー・キミマチコ

 1984年、同作品が直木賞を受賞し、全国に知れ渡るようになると、この茂・みつ子コンビも一気に脚光を浴びるところとなった。晩年、大阪系のテレビ局で演じた『かぼちゃ』や『安来節』などが残っている。

 茂最晩年の舞台は、みつ子が三味線、茂がなぜかウッドブロックを持って、登場し、みつ子が『新土佐節』をつま弾きながら、

 ちょいと出ましたちょいと出ましたゲテモノ同士 茂みつ子の二人連れ そうだそうだ全くそうだ~

  と歌う舞台を展開した。

 1985年12月、吉田茂が老年で没したため、コンビ解消。再び独り舞台に戻る。主に女道楽のような舞台を演じる傍ら、てんのじ村にいる古い芸人たちと臨時コンビを組んで、活動を続けていた。

 この頃、自分で創意工夫をしていた芸風の事が、藤田冨美恵『玉造日の出通り三光館』に出ているので引用しよう。

 みつ子さんは、浜治さんの形見だという三味線を弾きながら、 「花づくし」から聞かせてくださった。
 〽一月は緑の五葉の松、二月は可愛い梅の花、……さあ十二月、年の終わりの桐の 花と「春雨」の節で唄い、最後に、〽男同士が勝負する、ほんに楽しいこのゲーム、 ささ面白い遊びかいな――としめくくる。 つまり、花札遊びを歌い込んだものである。

 二つ目は、沓掛時次郎。三味線をつま弾きながらの割合にシリアスなお芝居であるが、「お絹さん、おうっと、寄っちゃいけねえ、寄っちゃいけねえ。やくざ姿はしていても、他人の亭主にゃ身はかけねぇや」
「なにを言うてんねんな。それは私の言うセリフやがな。お先ぃゴメン」と、笑いもちゃんと仕込まれており、最後は、〽やくざ姿はしていても、恋じゃござんせん、義理と人情のエーエー、時次郎と、調子よく終わる。

 三つ目は、昔からの御殿萬歳をみつ子さんがご自分用に短くまとめたもの。

 〽私の商売、漫才師でござーる。今日も舞台で鼓持つ。アラ、ヨイショヨーイショ、ヨイショヨイショ、ヨーイショーと串本節でスタートし、七福神の様子を唄い上げていき、最後は、私も昭和の初めごろのレコードで聞き覚えのある「数え唄」のメロディーで、〽ようこそご辛抱くださいました。またの会う日を楽しみに、それでは皆様、さようならぇ――と、いかにも萬歳らしくまとめられている。 私にはこれがいちばん面白かった。
 二十一年前に相方の南ふく子さんが亡くなってからの東さんは、決まった方とのコンビを組まず、一人で舞台に立つことが多いそうであるが、聞かせていただいたネタは南ふく子さんとの掛け合いで演ってこられたもの。私のために二十年ぶりに思い出しながら演じてくださったのである。
「そんな前のことをよく覚えておられますね」と感心すると、「昔の芸人は誰でもそうですけど、一つの芸をクルクルクルクル洗濯して仕上げるようにお客さんに見てもらい、自分も納得するまで何年も演り込んでますから、何年経っても忘れません」
 とおっしゃった。東さんの言葉の端々に、芸にかけてきた人の心意気を強く感じた。

 1997年6月、元テイチクレコードの歌手であった東ひさしとコンビを組み、アコーディオンと三味線の音曲漫才で再スタート。これが生涯最後のコンビとなった模様。

 1997年9月、『大阪春秋』掲載の泉耿子『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』に自身の経歴が掲載される。この資料は、関係者の調査によって判明。譲っていただいた。本当にありがたい、感謝を申し上げます。

 2001、2年頃まで名簿に名前が確認できるが、それ以降は消息不明となる。

 関係者と娘さんの話では、最晩年に火事や病気に巻き込まれ、老齢に大きなダメージを負った。その結果、元気をなくし、2011年に85歳で亡くなったとの由。やっと、やっと没年が判明した。

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