四海浜路・浪太郎

四海浜路・浪太郎(左)
人 物
四海 浜路
・本 名 ??
・生没年 1900年12月25日?~??
・出身地 ??
四海浪太郎
・本 名 ??
・生没年 1900年11月4日?~1971年9月29日
・出身地 ??
来 歴
四海浜路・浪太郎は戦前戦後活躍した漫才師。元々俳優であったが思う所あって市川福治門下の漫才師となった。歌舞伎漫才という特異な漫才を得意とした。浪太郎の娘が東みつ子である。
生年は『出演者名簿1969年度』より割り出した――が「明治37年」とありサバを読んでいる可能性が高い。『笑根系図』では明治33年生まれとある。誕生日だけが信ぴょう性あるとみるべきか。
浪太郎は元々旅回りの歌舞伎役者・実川八百蔵門下で、実川八百吉と称していた。旅回りの一座ながらも色々な役を求められたようで、立役・女形両方を勉強した。この時覚えた芸が大きな財産となったという。
一方の浜路は鈴田進という旅回りの俳優の弟子で、市村文男という名前で舞台に出ていたという。こちらも旅回りの一座という関係もあり、色々な役を仕込まれたという。米朝によると「節劇の俳優だった」らしいが。
二人がどういう経緯で知り合ったかは不明。ただ、大正末に売り出しの漫才師・市川福治に入門し、「市川八百吉・文男」と名乗る。
師匠が旅一座で活動していた関係もあり、大阪の寄席には余り出ず、巡業や独自の漫才大会で存在感を発揮した。
1926年2月10日、浪太郎は娘・芳乃を授かる。これが後の東みつ子である。
この頃から歌舞伎漫才と称する独自の漫才をやっていたようである。
『大阪春秋 特集・新世界』(第88号 1997年9月19日号)掲載の、泉耿子『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』よると――
「父は萬歳師で芸名・四海浪太郎(明治三十二年生)、相方は四海浜治、この浜治さんが私にとっては母親代わりみたいなもんです。私は四歳から一緒に舞台に出てました。親子漫才ですな。というのは、浪太郎・浜治のコンビは前半の一五分、萬歳(漫才でない)して、お客さんの前で服から芝居の扮装(化粧三分、衣装二分)に早変りして、歌舞伎芝居の浄瑠璃を演ります。その合間に舞台から『あと二分』とか『あと一分』とか、タイムをとったり、演し物が『加賀見山旧錦絵』『壺坂霊験記』『苅萱道心』などで、石童丸の役したりね、してました。父と別れて生活し始めたのは私が一四歳ころでした。」
さらに、桂米朝は上岡龍太郎に対して「なつかしの漫才師」として二人の存在を上げている(『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』より)。
米朝 四海浪太郎・浜治というコンビ、これももう誰も知らンやろうな。前の屋号は市川やった。晩年、九里丸さんが姓名判断に凝った時に、「名前を変え」というて、四海浪太郎・浜治にしてしもてん。だいたい節劇の役者で、浪太郎さんは二枚目のええ男でな、これはどっちも男やねンけど、 浜治という人は典型的なオカマやねん。この浜治さん、鼻のところに大きなホクロがあるしな、どう考えたって女形をしていたとは考えられへん。この浜治さんが三味線を弾く。「お紺殺し」。お終いに幽霊になる。戸田川の渡しのくだりで、「お手元は……」と、三味線を抱かえて女乞食が出る。 殺して幽霊になって出てくる。その時に、歯ァを紙でこしらえて口の中に挟み込む。それをボトッと落とすねん。それを拾いあげてまた口の中へ。「なんちゅう歯や、それは」。これは一番ラスト。もうひとつは、「加賀見山」。岩藤と尾上か。「これから出来上がるところを見てもらおう」と舞台上で顔を作るわけや。化粧箱を出して来て、鏡をポンと置いて、ぼたん刷毛で首筋から塗るところから、目ェのところへちょっと青いのをつける。それにかつらをのせて、衣装は着てないけれども、スッと裾をもち上げると下はちゃんと長襦袢が揃えてあって、見得をかまえるところで、お客がワァ――ッと拍手や。それを三分ぐらいで見せる。それで終いの大詰めのところだけをちょっとやる。そら新世界のジャンジャン町では拍手喝采や。それで楽屋へ戻って来て、化粧を落とす。 この人らは一日三回とも同じネタやねん。「考えてみたらけったいな商売や。同じこと何十年やってまンねん」。もうひとつは、「鳴戸のお鶴」。それは母親とお鶴をおもろい顔の浜治さんがやる。
上岡 女優の渡辺美佐子さんのひとり芝居「化粧』(作・井上ひさし)みたいですね。
米朝 私の知っている限りはネタが三つやった。
上岡 でも、客の方も「加賀見山」といえば分り、「鳴戸のお鶴」といえば分るという素養がね、ありましたですね。
米朝 あったンやけれどもね。知らン人でもあの顔を作るところから見事に女になってな、普通は見られヘンところやからね。それでこの人らは突如として舞台へ出ンようになってしもた。その時に誰かに聞いたらよかってンけどね。二人とも消えた。よう考えたら、これどっちかがやれンようになったらもう出来ひン芸やわな。漫才では、絶対この人がおらなんだらやれンというコンビがある。
戦前から西成区のてんのじ村に住み、余興や地方巡業などで活躍。派手な舞台ということもあり、地方では相当な人気があったという。
戦後、花月亭九里丸が姓名判断に凝り、楽屋中の芸人に「改名を勧めたる」と言い始めた。もろた玉枝・広多成三郎などはその代表例であるが、浪太郎・浜路もその時に改名を勧められたという。
世界にある四つの海に、海に類する浪と浜――と粋な名前であるが、当人たちはどう思っていたことだろうか。
戦後も西成区に居を構え、松鶴家團之助の團之助事務所に所属し、事実上フリーの漫才師として活動をしていた。ただ、ジャンジャン横町の演芸場や演芸会などには呼ばれることがあり、自慢の歌舞伎漫才を見せて喝采を得たという。
1960年代後半まで余興を中心に活動していたが、間もなく浪太郎が病気がちになり、1969年頃を最後に事実上の解散となった。『出演者名簿』も1969年度版で終わっている。
孫にあたる東みつ子氏の娘さんの話では「最後は身体を悪くして日赤病院に入ってそこで亡くなった」とのことである。没年は遺族と吉田留三郎のメモより割り出した。
浪太郎の死後、浜路も後を追ったらしいが完全引退したため、消息不明。


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