市川福治

市川福治

阿呆陀羅経を演じる市川福治

小沢昭一の取材を受ける市川福治

 人 物

 市川いちかわ 福治
ふくじ

 ・本 名 坂本 安太郎
 ・生没年 1904年11月8日~1976年
 ・出身地 広島県

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。阿呆陀羅経を看板芸に、笛の曲弾き、芝居の真似事、浪花節の節真似など芸尽くしの漫才で独特の芸風を開拓した。晩年は貴重な雑芸の保持者としてテレビに出演した他、小沢昭一『日本の放浪芸』にも取り上げられた。

 出身は、広島。生年は『出演者名簿1963』から割り出した。

 歌舞伎の中村歌三郎門弟で「實川八百太郎」と名乗っていて、歌舞伎の女形であった――というのが定説であったが、調べていくうちに少し語弊がある事が発覚した。

 師匠の中村歌三郎は、「中村」という屋号こそついているが、実際は旅回りの役者で、本格的な歌舞伎役者かというと疑問視せざるを得ない人物である。]

 この人の看板芸は、歌舞伎と浪曲を組み合わせた「節劇」であったり、映画と実演を絡めた「連鎖劇」、また歌舞伎をやるにしてもケレンと早替りを生かしたものであったという。

 経歴等は不明であるが、地方回りの役者だったのは事実で、1916年10月に山口県玖珂郡玖珂村(現岩国市)で一座を立ち上げたらしい。『日布時事』(1916年10月14日号)に、

 それは本月上旬玖珂郡玖珂村にて一座を組織した中村歌三郎一座の浪花節芝居が隔月十三日開園此方土地役者の事とて贔屓筋の毎晩欠かさずと云ふ大人氣大入にて既に三十回と云ふ替り狂言を出して大車輪に演じて居る

 と、あるのが確認できる。以来、節劇を中心に中国地方を巡業。玖珂郡は、広島県の隣である所から、福治も幼い頃よく親しんだのであろう。

『上方演芸人名鑑』によると、17歳の時に中村歌三郎門下に入り、「實川八百太郎」として女形になったのが始まりであったという。

 この歌三郎、地方芝居であったが、太いパトロンがいたらしく、1926年と1930年にハワイ諸島を巡業している。その記録の一部が『邦字新聞デジタル・コレクションジャパニーズ・ディアスポラ・イニシアチブ』に残っている。

 19歳の時に独立して、剣劇一座を結成。この時に「大川八百太」と名乗った模様。

 成人する前後で漫才を手掛けていたらしく、1926年には既に平和ラッパとコンビを組んで漫才師として活躍している様子が『近代歌舞伎年表名古屋編』から伺える。以下はその引用。

七月十五日〜(二十一)日 昼夜二回開演 中座

東京・神戸・大阪・京都 東西両京代表選手万歳大会
「お馴染の千代丸・エンタツ、大正坊・捨丸、福治・ラッパ、春子・房春、小春辰丸などの人気者揃ひで……」

 その後は漫才、レビュー、ダンス何でもありの演芸一座を結成。長らく旅回りをしていた。

 1930年代に本格的に漫才界へ参入。宮川八重子という女性と組んで、中央の舞台に出入りするようになる。当時としては珍しくレコード吹込みに熱心で、数枚レコード吹込みを行なっている。

 1931年5月、オリエントより『吉原の想い出』を吹き込み。

 同年6月、ヒコーキレコードより『大学ローマンス』を吹き込み。

 同年9月、ヒコーキより『阿呆陀羅経・滑稽浪花節』を吹き込み。

 1932年3月、コッカより『浪曲の物真似』を吹き込み。

 また詳細不明であるが、ミカドレコードに『辰ちやんへ』(A253)、1933年頃、吹込みのスタンダード『旅日記(浪花節入り)』がある。

 この中の阿呆陀羅経は、小沢昭一の『日本の放浪芸』で簡単に聞く事が出来る。興味ある人はお買い上げになるなり、図書館へ走るなり。

 1932年頃より吉本の劇場へ出入りするようになり、『上方落語史料集成』を見ると、翌年1月の新春興行では、

十一日より

△新京極花月 八重子・福次、愛子・光晴、千枝里・染丸、照子・菊丸、一郎、歳男・今若、久菊・正八、久次・弟蝶等。昼夜開演。

△千本中立売長久亭 喬之助・三木助、一郎(曲芸)、扇遊、小春団治、千枝里・染丸、蔵之助、福団治、八重子・福次、歳男・今若、染丸、五郎・雪江、照子・菊丸、おもちや、三馬、愛子・光晴、笑福亭竹馬等。

二十一日より

△南地花月 せんば、小雀、重隆・武司、千橘、勇・清・クレバ、蔵之助、八重子・福次、円枝、十郎・雁玉、柳好、石田一松、小春団治、五郎・雪江、円馬、春団治、日の出家社中、三木助。

三十一日より

△北新地花月倶楽部 九里丸、柳好、次郎・志乃武、春団治、石田一松、小文治、延若、八重子・福治、笛亀、文治郎、とり三・今男、紋十郎・五郎、一郎、馬生、染蔵等花月幹部連 
△天満花月 八重子・福治、文治郎、扇遊、玉枝・成三郎、馬生、〆の家連、春団治、日廼出家連、小文治、つばめ・ボテ丸、柳好、正二郎・捨次、重隆・武司、紋十郎・五郎、せんば、亀鶴・星花。昼夜二回。

 と、凄まじい掛け持ちぶりを発揮している。以来、旅回りと中央の寄席出演の二足の草鞋を履く事となった。

 このころには既に戦後まで続く雑芸漫才の型を完成させていたらしい。十八番は天光軒満月『父帰る』、『召集令』、天中軒雲月の『忠臣蔵』、綾太郎の『壷坂霊験記』といった浪曲物真似、尺八・琴古流の戸澤行古から伝授された奏法を篠笛に生かした「尺八の物真似」、目を白黒させて詠いまくる『阿呆陀羅経』、虫の音や動物の物真似など、自由自在であった。芸の虫といえよう。

 1935年、レビューダンスの座員として市川泰子が入門。更に同時期に市川歌志が入門している。この二人は結ばれて夫婦になった。

 この頃、吉本を飛び出し、放浪時代を過ごす事になる。なぜ吉本を出て行ったのか不明。そのせいか、『ヨシモト』などに名前や芸風が記載されなかった。足跡を追うのも難しくなる。

 しかし、日中戦争の勃発や統制によって、一座を解散。福治は大阪へ戻り、出戻り帰参という形で吉本に復帰する。この頃には、八重子と別れ、市川五十鈴とコンビを組みなおしていた。

 1940年頃、再び吉本の一流劇場に復帰する。漫才師の数も少なくなった事もあって、上手く潜り込めたのであろう。

 同年5月、淳子なる人物と組んでいるが不明。ただ、この頃は病欠とかあるとすぐ臨時コンビで出るので、暫定的なものと言えよう。

△北新地花月倶楽部 林家染蔵、三遊亭円若、三遊亭小円馬、橘家蔵之助、光晴・枝雀、桂文治郎、市松・芳子、夢若・歌楽、桂春団治、福治・淳子、林芳男、アチヤコ・今男、桂三木助、川柳・花蝶、花月亭九里丸。(順不同)

 以来、戦局の悪化を受けながらも、吉本の北新地花月、南地花月に定期的に出演した他、新興演芸部の対抗馬として生まれた京都花月劇場などにも出演。『近代歌舞伎年表京都編』などでその名前を拾う事が出来る。

 1941年5月には東宝名人会に招聘され出演。ただ上方味の濃厚で節真似本位の漫才は東京の客とは合わなかったようで、『都新聞』(1941年5月4日号)では、

◇…五十鈴、福治の漫才は永永と友衛の「小野川」などを聞かせて全然漫才的なはづみのない物真似で退屈を極め……

 と、ボロカスこき下ろされている始末である。

 敗戦後は吉本と契約解消。復興するまではドサ回りをしていた模様。そのためか、復活するのに時間がかかる。

 戦後、五十鈴とコンビを解消し、香取奈津江(1917年~?)とコンビを組む。なお、香取奈津江と大杉てるみは別コンビのように扱われるが同一人物。

 1950年代後半に、漫才に復帰した小唄静子とコンビを結成。数年間このコンビで出る事となる。

 1961年12月角座下席、市川福治・かなめのコンビを結成。ただ、手元にある名簿や「笑根系図」を見ると齟齬がある。

 このかなめは市川福治の妻で、尼ヶ崎の砂糖屋の娘――と『上方演芸人名鑑』にある。本名、坂本末子。1922年3月6日生まれ――と『出演者名簿』にある。長らく家庭の人で、舞台経験がないにもかかわらず、夫に懇願されてコンビを組んだ異色の人物であった。

 そういう経歴故か、漫才的な掛合や駆け引きはほとんどやらず、夫の諸芸尽くしの伴奏や相槌を打つ程度であったという。

 コンビ結成後「かなめ」と名乗っていたが、間もなく「かな江」と改名した。

 諸芸尽くしの漫才を展開し、しゃべくり全盛の中で独自の孤塁と芸風を保った。特に「阿呆陀羅経」は貴重な漫才の財産として高く評価される程であった。横山ホットブラザーズや桂米朝はその一部を習っており、前者は舞台で、後者は学術的な考察や実演として本や座談で演じてみせる事があった。

 一方で、人間としては些か狷介、人と群れぬ一匹狼のきらいがあったそうで、時として他の芸人や関係者ともめ合いになる事もあったと聞く。足立克己『いいたい放題上方漫才史』の中で、

 この松葉家奴ほど華やかな話題はなかったが、芸では負けていなかったのが市川福治という人だ。かな江とコンビを組んでいたがかな江は三味線を弾くだけで市川福治のワンマンショーだった。地味な存在だったのであまり知られていないが、その多芸多才ぶりは見事だった。横笛で尺八の音色を出すのが十八番だったが、 その他にもアホダラ経、浪花節、都都逸、新内と何でもこいだった。
 この福治の出番は大体いつも真ん中位だった。彼より後の出番に浪花節の芸人が出ると、この福治は舞台で浪花節が中心のネタをやった。後の出番に都都逸が十八番の芸人が出るメンバーの時は、都都逸を福治はやった。いつも後に出る芸人に挑戦していた。楽屋で「福治という男はイヤな奴や。邪魔しよって」といわれていたが、福治にすれば、「クヤシかったらオレよりうまい事やってみい」という心意気だったのだろう。
 大体寄席の出番というのは、上手な者ほど後に出る。 前の演者が何をやろうと後に出る芸人はそれを上まわるか、それを避けるかしなければならない、という不文律があった。福治はそれを逆手にとって常にチャレンジしていたのだ。 こんな芸人根性が大好きだ。

 という記載がある。足立克己は高く評価しているが、他の芸人からすればやはり協調性がないと卑しめられても仕方ない。

 一方、桂米朝は『米朝集成』の中で「一見とっつきづらそうであったがキチンと質問すれば答えてくれる人であった」と、その律儀な人柄を批評している。

 また、音楽ショーにしゃべくり漫才全盛とあってか、角座の舞台から遠ざけられ、新世界花月や神戸松竹演芸場が主な舞台になるなど冷遇もあった。

 それでも、へこたれずに己の道を進み、マスコミ時代の波に乗った。古き良き芸が、明治100年(1967年)と共に評価されたのもあるのだろう。

 永六輔からは高く評価され、彼が携わった演芸番組『わらいえて』に出演。この時の映像はワッハ上方に保存されており、見る事が出来る。

 1965年7月21日、NHK『テレビ演芸館』に出演。他の出演者は「軽口」の一輪亭花蝶・ 松原勝美と 「浮世節」 の千葉琴月連。

 1967年8月1日、毎日放送「第5回芸能わらいえて」に出演し、阿呆陀羅経を披露。共演は、松鶴家千代若・千代菊、若井はんじ・けんじ――数年前までワッハ上方で見られたが、なぜか2022年では再生不能になっている。

 1967年9月16日、NHK『土曜ひる席』に出演。他の出演は、司会漫才の夢路いとし・喜味こいし、漫才の上方柳次・柳太、落語の林家染語楼、民謡・和楽。

 しかし、この後間もなく病気で倒れ、手が不自由となったため、一線を退く羽目となった。

 一応回復して、1970年初頭には小沢昭一の来訪を受け入れた、が、その時には既に木魚も阿呆陀羅経も怪しい状態にあった。『日本の放浪芸』の中にその断片があるが、微妙に呂律が回っていない所を見ると、脳溢血か脳梗塞で倒れたのだろうか。 

 結局、第一線に戻れることはなかった。長い闘病の果て、1976年にひっそり亡くなったという。遺品の木魚は、人手に渡って、「ワッハ上方」に納められた。

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