内海カッパ

内海カッパ

 人 物

 内海うつみ カッパ

 ・本 名 神田 常厳(後に常英と改名)
 ・生没年 1941年9月14日~2008年8月27日
 ・出身地 大阪生まれ、喜界島育ち

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。僧籍を持った特異の漫才として知られ「おじゅっさん」(お住持さんの訛り)というアダ名で知られた。今日も活躍する女道楽の内海英華の師匠分でもある。

 経歴は『週刊平凡』(1973年12月20日号)掲載の『内海カッパは、実はこの8月得度した坊さんだった!』に詳しい。以下はその概要。

 本名は神田常厳。出身は大阪ーーであるが、生後間もなく奄美大島の喜界島へ転居。同地で育ったため奄美大島出身と称することが多かった。

 戦時中、父と死に別れ、母タカの女手一つで育て上げられた。戦後、大阪へ戻り、大阪鉄道高校を卒業。サラリーマンとして就職するが、朝寝坊と遅刻癖のためにどれも長続きせずに退職。当人曰く、「鈑金属商、土方、トビ職、印刷業……」となんでもやったらしい。

 1961年2月、幼馴染で3歳年下の女性と結婚。妻の叔父が初代・内海突破だった関係から、内海突破に入門。

 1962年、内海突破の紹介で吉本興業に入社。「ポケットミュージカル」をふりだしに、ストリップ劇場の「道頓堀ミュージック」「OSミュージック」と渡り歩いた。

 1965年、コメディアン仲間の今宮エビスとコンビを組み、「カッパ・エビス」を結成。1966年説もあるが、『日本演芸家名鑑』などでは昭和40年となっているのでそちらを採用した。なお、当時のプロフィールには、「1966年3月結成」とある。ややこしい。

 正統的なしゃべくり漫才で人気を集め、若井ぼん・はやと、横山やすし・西川きよしなどと並ぶ若手のホープとして活躍、人気漫才師となった。

 母と妻が西成でてんぷら屋を立ち上げて成功した事から、芸人にしては珍しく裕福で、無茶苦茶な三道楽に凝った、という。一升瓶を開け、博打ですっからかんとなり、女遊びやゲイバーで遊び倒す、などという極道を地で行く生活を送った。

 1973年5月、今宮エビスが肺結核を患い、豊中市刀根山療養所へ入院した為、コンビ活動を休止。ピンで活躍していたが、思うところあって、同年8月22日、比叡山浄土院で得度。

 出家の理由を当人は多く語らず「自分自身をきびしゅう見たかっただけですのや」「わたしら人間は、人生の死という終着駅に着いたとき、お坊さんの世話になって、三途の川を渡るわけですわ。一生に1回は世話になるわけなら、若いうちから(仏を)たよってもええのんとちゃいまっか」と濁しているが、『週刊平凡』は三道楽に対する反省や嫌気があったーーと考察している。

 もっとも、仏教への関心は、1970年ころからあったらしく、比叡山観樹院の中野英賢との出会いが、彼と仏教の距離を縮めたという。

 8月22日、頭を丸め、神田英常と改名。名前は尊敬する中野氏からとったともいうが、詳細は不明。同年9月15日から11月15日まで籠山をし、権律師の位を取得した。

 修行後、帰郷し、大阪の舞台へ復帰。相方が復帰するまでの間、コメディや坊主漫談と称した独り舞台で奮闘。松竹芸能の異質な漫才師として数えられたという。

 間もなく、相方が復帰したため、コンビを続投。エビスのヌーボーとした振る舞いやボケにカッパが強く突っ込み、それをエビスが拝んで謝る、という僧侶の地位を逆手に取った漫才を展開。

 相羽秋夫『相羽秋夫の演芸おち穂ひろい』の中で、

 僧籍を持った漫才師 内海カッパ・今宮エビス

 僧籍を持った漫才師がいる。 内海カッパ・今宮エビスという実力派中堅コンビの内海カッパがそうだ。
 最初から僧侶だったわけではない。
 もともとコメディアンだった彼が、芦屋雁之助の弟子で同じ仲間の今宮エビスと漫才に転向したのが一 九六六(昭四十一)年だ。 一体全体を使った芸風で早くから嘱望されたが、エビスが体を悪くして入院してしまった。
相方に寝込まれた漫才師ほど哀れなものはない。
 カッパはエビスの退院をひたすら待つわけであるが、その間に精神修養の意味で比叡山に通っているうち、いつしか僧侶の生活にあこがれ得度したのである。
専業の僧侶でも今どき珍しいが、彼は頭を丸め、いかにも坊さんらしい風格を持っている。
 そして、そのままの頭で背広を着て舞台に出てくる。
 それだけでも笑いを呼ぶのに、なにかあるとすぐエビスが
「このお住持さん、ああもったいない」
 と拝むものだから、いっそう笑いがふくらむ。
 もちろん寺も檀家もあるわけないので、もっぱら彼が活躍するのは、芸人のお通夜や葬式ということになる。
 友達に生中で葬儀店を営む森やすしさんがいるので、そっちの方の連携プレーも見事だ。

 と紹介されている。

 以来、角座をベースに堅実な活躍をつづけ、やすし・きよし、ぼん・はやとのような派手さこそないものの、巧みな漫才で多くの観客を笑わせ、内外のひいきに恵まれた。

 また、大須演芸場との関係も深く、東西の芸人との交友も盛んであった。この顔の広さのおかげで、名古屋にも職場を得、コンビを長く続けるできたのではないだろうか。

 1981年、旭堂南陵門下の女流講談師、旭堂南蝶が入門(病気のため、講談師を廃業していた)。内海英華と名付け、翌年デビューさせている。この期待の弟子を、「かしまし娘」のようなボードビリアンに仕立て上げたかったそうであるが、英華氏が「吾妻ひな子」のような路線に行きたい、と主張したため、漫談家にさせたという。以降、おはやしや踊りなどを習わせ、やさしく厳しく見守ったという。

 1984年角座の閉館による不況で、多くの若手・中堅漫才師がコンビ解消・廃業をする中で、第一線で活躍。松竹芸能の貴重な中堅株として、存在感を放った。

 平成に入った後は、浪花座を中心に出演。多くの大御所がドロップアウトしていく中で、淡々たる舞台を展開。21世紀にはいることには、芸歴30年超えの名コンビへと成長していた。

 浜一夫は『もうひとつの上方演芸』の中で、

 2人がそのまま絵になるコンビである。そして2人とも芝居畑出身というのもおもしろい。
 カッパはうめだ花月で吉本新喜劇に登場したのが昭 和38年、エビスは京都南座で昭和35年に初舞台を踏んでいる。コンビ結成は昭和41年で今は亡き横山やすしや、若井ぼん・はやと等とほぼ同時期にデビューしている。よって同期等とつるんでのやんちゃぶりは枚挙 にいとまがない。その元締が坊さんのカッパと聞くと、人間の不思議を思わずにいられない。
 エビスが病気となり、その療養中にカッパは高野山で得度し、頭を丸めて僧侶となったので、今の「仏教漫才」と呼ばれるスタイルができた。「雨降って地固まる」である。
 厳しい口調のカッパに対し、やや舌足らずなエビス のしゃべり。奇妙に調和している。 先日の浪花座の舞台。
 とぼけた味とでもいうか、エビスがお世辞にも似ているとはいえない声色を披露し、さらに厚顔にも? お客さんのリクエストに応えるという。 
「村山富市。」
 と客席から(正直に)声がかかる。 
「ええと村山。村山さん、政治家でしたな」。 
 それからエビス、リクエストをもらっておきながらなかなか演じない。政治問題、経済問題をひとしきり論じる。焦れたお客さんが再度「村山富市!」と声をかけると、 エビスすかさず、 
「こらえ性のない人やなあ」。
 結局エビスはものまねをやらず、それをカッパが詫びるという、このコンビの流れとなった。カッパが 「南無阿弥陀仏」と唱え手を合わせ、下げた頭がライトに輝く。
 諸行無常の芸界で「南無阿弥陀仏」と唱え続けるカッパ。一つのスタイルを構築したカッパ・エビス。安定した笑いを供給している。
 ただ気がかりなのはエビスの健康である。ともに幕内ではやんちゃで通っているだけに健康に留意されたい。
 完成されたしゃべりに2人の笑顔千両がさらに磨きをかける特異な舞台。 味のある名コンビの一組に数えられるだろう。

 と、その舞台を激賞している。

 晩年はエビスとともに体調を崩しがちとなり、活動をセーブするようになったが、お呼びがあれば寄席でも劇場でも出演した。また、昔のライバルで友人の若井ぼんが運営する「笑集会」にも積極的に参加をしていた。

 2008年1月、相方の今宮エビスが肺炎のために亡くなり、コンビを解消。ピン芸人として転向をした矢先、本人も病に倒れ、相方の後を追うように亡くなった。2008年8月27日、66歳没。

 期待の女弟子であった内海英華は、見事な一枚看板に成長し、2020年現在も「内海」の名を守り、達者な芸を披露し続けている。

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