桂枝輔

桂枝輔

 人 物

 かつら枝輔えだすけ
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 桂枝輔は、戦前から戦後にかけて活躍した漫才師。「桂枝助」とも書く事がある。その名前の通り、元々は落語家の出身であったが、後年漫才師になった。どちらかというと雑芸色の強い地方巡業専門の芸人だったと聞く。

 経歴等は不明。『落語系図』によると、三代目桂梅枝の門下で、「桂枝助」とあるのが確認できるが――

 それらしい名前が確認できるのは、1907年8月の『近代歌舞伎年表京都編』である。

 8月24日~30日、南座で行われた「桂派落語大合同」という公演の中に、「文福、文蔵、枝輔、三木輔、仁笑、右衛門、雀之助、紋三郎、仁鶴、文作、あやめ、仁助、仁三郎、仁左右衛門、枝雀、文枝等なり。」とあるのが確認できる。

 仁助は、戦後まで活躍した桂南天であることを考えると、彼と同世代・少し年上だった模様か。

 その後は、主に互楽派に属し、神戸やドサ回りで活躍した模様。1911年4月24日の『上方落語史料集成』の中に、

◇屋幸満席 落語定席屋幸満本日よりの出演者は左の如し。落語(枝助)落語講談(松三郎・花橘・柳左衛門)落語手踊(鶯枝)新落語と笛(松助)常磐津浮世節(金之助)音曲噺手踊(福吉)落語(しん橋)

 とある。ただ、どこも落ち着かず、ふらふらしていたらしい。

 1911年6月には、朝鮮巡業をしていたらしく、東京から来たジョンベール、そして先輩の笑福亭福圓の一座に参加。『京城新報』(6月18日号)に、

◇浪花館 久しく休業中なりし同館にては、今回東京大阪合併のお賑かい処を呼び下して十八日夜より花々敷開演すべし。其の顔触れは左の如し。 
落語(桂枝輔)清元浮世節(柳家枝〆吉)手踊(桂枝三郎)ぼんの曲舞(笑福亭圓三)音曲落語(柳亭芝鶴)筑前琵琶(魁駒弥)落語(大隈柳丈)音曲一人ニワカ(ジョンペール)

 7月下旬には満洲、10月には再び朝鮮へ戻り、12月に下関へ出演するまでの半年間、外地で稼いでいるような形である。

『上方落語史料集成』にもあるように、元々はしっかりとした落語を演じていた模様であるが、長い旅暮らしか、はたまた当人の気質か知らないが、徐々に本式の落語を外れ、音曲や踊り、一人相撲、滑稽掛合といった色物路線を歩むようになり始める。

 1918年頃、落語家団体・大八会が結成された際にはこれに参加。雑芸を得意とする色物の芸人として相応に売れた。

 1920年代、大八会が解散し、吉本と漫才が台頭するようになると漫才師に転向。『近代歌舞伎年表 京都編』の1928年6月の記事に――

○六月(十一)日〜(二十)日 昼夜二回開演 夷谷座

万歳大会 砂川捨丸一行
【番組】万歳(大和 捨春 文蝶 捨奴 愛之助 市丸 助六 枝助 春代 捨丸) 音曲(ブル松 和楽) 滑稽曲芸(ブル松 栄楽 栄三郎 和助 和楽)  唄道楽(吉原芸者〆龍 〆丸 〆福 〆二 小〆 〆奴) 正調追分(右近 お多福)
【典拠】「京都日出新聞」6.9、19、「大阪朝日新聞(京都版)」6.10。
【備考】○「万蔵界の覇者砂川捨丸一行を久し振りに迎え、十一日より毎日 昼夜二回開演することゝなつたが、出演者は砂川大和・砂川捨春・小原文蝶・砂川捨奴・宝家ブル松・宝家和楽・砂川愛之助・東家市丸・桂家助六・桂家 枝助・新吉原福本〆龍・〆丸・〆福・〆二・小〆・〆奴・橘右近・橘お多福・ 中村春代・砂川捨丸。」(「京都日出新聞」6.9)
〇「捨丸一行の宝家連中ブル松(中略)の滑稽曲芸は、垢抜けした舞台で見物を陶酔させてみる。」(同紙6.3)
○「捨丸一行の新吉原芸者連は、手踊に唄に江戸情調を濃厚に味はせ、高評を博してみる。」(同紙6.1)
〇「捨丸・春代の万蔵は一流の滑稽百出、満場を映笑させ、助六・枝助の余興独り角力も賑はしてある。」(同紙6.5)
○「連日満員の盛況であるが、愛之助・京丸の浪曲、文珠・捨奴・ 大和・捨春の万歳は、捨丸一派の秀才揃ひとて益々評判が高い。」(同紙6. 7)
〇「砂川捨丸一行は二十日で打上げることこなつた…。」(同紙6.9)

『大衆芸能史料集成 7巻』の付録に付けられた「昭和三年道頓堀における萬歳大会」の中にも、

 松竹専属名流萬歳選抜競技大会 昭和三年十二月十二日より

 珍芸萬歳 桂家助六・枝助

 とあるのが確認できる。相方は「桂助六」だろうか。

1929年には砂川捨丸一行の朝鮮巡業にも参加。『京城日報』(1929年3月19日号)に、

<砂川捨丸一行・朝鮮東亜倶楽部>

◇捨丸一行 明日から東亜倶楽部で興味をひくプログラム 高級萬歳、小唄、曲芸、軽口と見てもきいても面白い砂川捨丸一行は明廿日から六日間府内三社の後援により黄金町東亜倶楽部で開かれる。蓄音機、或はラヂオを通じて彼の美声、そのユーモアを知る人々は勿論、演芸界を風靡したその名声は上下の階級を通じ、老若、男女を問わずもの凄い人気をもつて開会の日が待たれて居る一行は、捨丸をはじめとしてその相方をつとめる中村春代、新進の萬歳家十余名、正調、追分には橘右近、お多福の両名、それに三人滑稽曲芸を演じる宝家連中と新吉原の芸妓連久本一行十名すべて三十名に近い一行である。入場料は一等二円、二等一円五十銭、三等一円の三種である。

▲正調追分節 橘右近 橘お多福
▲新吉原芸妓連 久本〆龍 〆丸 〆福 〆二 小〆 〆奴
▲三人滑稽曲芸(宝家連中) ブル松 小政 和三郎 楽三郎 和助 和楽
▲萬歳連 浮世亭秀春 吉田二三丸 小原文蝶 砂川捨奴 砂川愛之助 東家市丸 桂家枝輔 桂家助六 中村春代 砂川捨丸

 その後は、漫才師になったらしく、地方巡業や慰問で順調な活躍を見せた。

 作家の水上瀧太郎は、漫才師時代の枝輔を見ているそうで、『出張日記』(1931年9月6日)の中で、

出席代理店を代表して津山の關當純氏の御挨拶があり、食事が始まると同時に餘興もはじまった。寄席藝人らしい桂枝輔といふ東北訛の著しいのが、おきまりの束髪に紋附帯模樣の女を相手に所謂万才から、身振物真似曲彈と數を盡して御機嫌をうかがった後で、私が先頃の出張日記で紹介した福山事務所の新人横山賴美氏が登場し、得意の安來節をうたった。

 とその芸風の印象を記している。

 腕はあったようであるが、遂に大看板になる事はなく、戦時中・戦後は砂川女捨丸の一座にいたらしい。

 戦後、この一座に入って来たのが白河珍児で、彼を育て上げた。

 彼のご遺族の証言によると「枝輔という人は女捨丸最後の弟子と自称していて、父(珍児)の愛媛訛りを厳しく直させた。父が芸人になれたのは枝輔さんのおかげ」という。

 ただ、この話を聞く限りでは、枝輔は二代いたような気がしなくもない。一体全体よくわからない漫才師である。

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