寺島玉章・茶目

寺島玉章・茶目

上・茶目 下・玉章

十八番の曲技

(慰霊と追悼より引用)

目次

  人 物

 寺島てらしま 玉章ぎょくしょう

 ・本 名 寺島 玉章(旧名・秦)
 ・生没年 1895年頃?~1970年代?
 ・出身地 中国 天津南保士鎭高村

 寺島てらしま 茶目ちゃめ

 ・本 名 寺島 辰夫
 ・生没年 1914年~1970年代以降
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 ※当時の資料上、「支那」という表記が出てきますが、差別的使用、意図はないことを明言しておきます。ご留意ください。

 漫才師ではなく、曲芸グループであるが、戦前は大阪吉本、戦後は東宝名人会を中心とした寄席に出演し、漫才師たちとの交遊も深かったため、特例として記載する。戦前には相当名を鳴らした曲芸師である。

玉章、来日まで

 寺島玉章は旧姓を「秦玉章」といい、その名前の通り、中国の出身である。当時の中国には、そこまで誕生日を気にする概念がなかったのか、資料によってまちまちであるのが困る。ここでは、『話』(1932年新年号)掲載のプロフィールに従った。

 出身は天津であったそうで、『読売新聞』(1937年7月25日号)の『日中風雲急の折! 祖国に馳せる思い 在京の中国芸人たち』に

大正十一年に日本へ来たが籍は天津南保士鎭高村鎮西里○

 とある。一方、『話』(1939年5月号)掲載の『「日本よいとこ」支那人「話」の會』では、

 記者 寺島さんはどちらですか。 
 玉章 私、北京です。

 と放言しているので困る。あくまでも概念としての「北京」であって、出身地としてみるのは早急というべきか。

 幼い頃から、芸を仕込まれたらしく、60代で「芸歴55周年記念パーティー」を開催したというのだから、煩く仕込まれたのだろう。

 しかし、中国にとどまる事はなく、青年期に国を飛び出して諸国を放浪。『話』(1932年新年号)の経歴には、

 秦玉章 本名寺島玉章。天津に生る、三十七歳。初めロシアのフワナチに三年間藝を学び、後日本へ渡つて二十年、その藝には益々冴えたるものがある。弟秦茶目。

 またドイツでは、デンマーク体操の大御所、ベンボート氏なる人物から、西洋的な器械体操や曲芸を教わったという。どこまで正確性を有しているか不明。しかし、デンマーク体操が曲技の基盤になったのは事実で、中国雑技ともサーカスとも違う独自の芸風を確立するのに役立った。

 その後は芸を磨きながら、放浪。従前の「日本へ渡つて二十年」を信用するとなると、1912年頃にはこちらへきている計算になるのだが、確証はない。ただ一座の座員として来日していた、という事なら、可能性としてある。

 本格的な来日を果たしたのは、1921年頃で、当時は「中国奇術曲技 秦玉章」の肩書、外国人タレント的な路線で看板を掲げた。当時の先駆者に「林福昌」、「李金来」、「林金花」などがおり、曲技を受け入れられる体制はあった模様。

 特に「林福昌」「李金来」の両人は「支那奇術運動曲芸」なる看板を掲げており、当時から、曲技を看板にしていたことがわかる(ちなみに福昌は1922年に掏摸を働き、逮捕されている。報道では春団治門下と記されている)。

 その最古の部類に当たるであろう広告を辿ると、『近代歌舞伎年表 京都編』の大正10年10月、中座で開催された「中華民国大奇術」の広告と『京都日出新聞』(10月8日号)の記事、

○「中座は大阪ルナパークに於て大好評を博せし支那大奇術韓鳳山・秦玉章の一座へ新たに上海より新加入の龍使ひの名手を加へて…。」

 辺りが、大舞台に出た最古の記録か。

 1923年6月9日、名古屋の末廣座に出演。『近代歌舞伎年表 名古屋編』によると、

六月九日〜十二日 午後六時より開演 末広座

欧米巡業大魔術奇術曲芸
初渡来 秦玉章 隣儀女一行

 その後は各地を巡業し、寄席や劇場に出演していた模様。『上方落語史料集成』にある記事を引用すると、

 1925年12月、名古屋に出勤。『名古屋新聞』(12月5日号)に、

◇七寶館の山村豊子 レコード吹込みで名声を高めた小唄の名人山村豊子嬢が一日から七寶館の舞台に現れ、得意の美声を聞かせて居る。一座は関西の寄りぬきばかり、東昇の浄るりは関西仕込みとあつて、一寸聞かせる。目先に変つた男女萬歳は徹底的に腹をよじらせる。秦玉章らの支那大運動。橋本文枝の落語手踊りは感心なもの。その他盛り沢山で、寄席気分を味わしてくれるが、流石に山村豊子は声もよければ、筋まわしもよく、一座をぬきん出て居るだけあつて、連日満員つづき、因みに本紙切抜持参の方は割引優待。

 その後、吉本と深い関係のあった神戸千代之座に連続出演。

 1926年1月初席から、同座に出演。『神戸又新日報』(1月1日号)に、 

◇千代之座 初春興行の番組は、萬歳、支那の正月、松づくし総踊り、小原節の西洋風・支那風・日本風に踊り分け、博多二○加、特別出演珍芸萬歳の橘家太郎、菊春及び初代梅坊主改め太平坊と女梅坊主奏玉章の大曲技、天旭嬢一行の大魔術、扇三、都枝の義太夫かけ合

 2月1日以降も同座に出演。『神戸又新日報』(2月1日号)に、

◇千代之座 七色会一行は、今一日より所作事「浦里一新舞踊」「酒茶屋」「四つ竹小原節踊」金田晩□氏新作「新生」と芸題をかえ、諸芸吹寄せ萬歳の橘家太郎菊春、秦玉章一行の大曲技、天旭嬢の魔術、幸丸小ゑんの萬歳、橘家扇三の人情噺、都枝の珍芸、圓天坊染五郎等の滑稽落語、君廣勝政等の義太夫は例の通り引続き出演。

 当時は、七色会なる芸能一座についていたと見えて、『神戸又新日報』2月21日の広告に、

◇千代之座 七色会一行は今廿一日より、小原節、花踊り、山中節踊り、新舞踊、初牛神楽、所作事桜狩、奇術、秀丸圓朝の萬歳、橘家太郎菊春の諸芸吹寄せ、扇三の人情噺、都枝の珍芸、秦玉章の大曲技、君廣勝政の義太夫に新作俄「酒地獄」

 3月も出演していたようであるが、チラシに名前がない。

 4月は、近くにあった大黒館と掛け持ち。『神戸又新日報』(4月16日号)に、

◇千代之座 七色会一行は今十六日より、熱田神楽千本道を吹寄せ舞、立山節踊、磯節踊、安来節踊、萬歳阿波踊に拳等と芸題かえ。

◇大黒館 今十六日より左記の芸題かわり。新舞踊「伊勢詣り」「ヘラヘラの総踊」福助、三升、燕路、春輔等の落語、秦玉章の大曲技に山村喜一の男道楽。

 その後は、広告に出たりでなかったりするようになるが、千代之座での活躍と安定した活躍が認められた形となり、1927年頃、吉本興業に入社した模様。

 但し、同社には先輩のクレバ栄治がいたせいか、表立った舞台には出ず、相変わらず巡業や千代之座中心の活躍だった模様。

茶目・玉章時代

 この頃、結婚をして「寺島玉章」と改名。在日中国人というような形となった。当人は帰化を望んでいたようであるが、中国との関係悪化や諸般の事情により、なかなか許可が下りず、「秦玉章」「寺島玉章」の二つの名前で振り回されることとなる。

 結婚後、義弟(妻の弟)である辰夫が入門。寺島茶目と名乗り、曲技を覚えるようになる。

 出身は日本であったが、幼少期は中国に居たそうで、義兄の玉章は、『話』(1939年5月号)掲載の『「日本よいとこ」支那人「話」の會』の中で、

玉章 家内の弟です。面白半分に始めました。
奥野 お生れは?
茶目 生れは日本で、直ぐあちらへ行きましたから 育ちは支那です。爺やは支那人でしたから、まあ両半々ですよ。

 と語っている。爺やは「中国人」という所から、クォーターか何かだったのだろうか。

 そのあたりの事情はハッキリとしないが、しばらくして帰国。7歳の時に新派の井上正夫の一座に入り、子役として初舞台を踏む。子役として、新派にいたものの、姉が玉章と結婚した事を受けて、曲技に転向した模様か。

 余談であるが、玉章の倅もまた一時期新派にいたことがあって、その旨が『新派百年』などに綴られている。因みに、中田三一朗を新派に入れたのは、寺島玉章のおかげであったという。『新派百年』によると、

 大正五、六年ころ、連鎖劇で井上の人気が急激に高まり、「浅草の大統領」を連呼された当時のことである。
 清島町の人形屋の前を通って御国座へ楽屋入りする子役がいた。曲芸師寺島玉章の長男である。彼はうらめしい目で子役の後姿を追った。
 堪らなくなって玉章から紹介状をもらい、楽屋に井上を訪ねた。弟子入りを懇望したわけである。ところが、井上の膝下は書生で一ぱい、たまたま新幹部待遇になった藤村秀夫に弟子がいない。それで、井上の高弟づきに廻された。時に中田三郎二十四才、藤村を師と仰ぐことになった。

 さて、兄に弟子入りした辰夫は、兄について曲芸を修行。1分間に100回のバク転を命じられたり、2時間半の逆立ちをしたり、と血の滲むような努力と修練でみるみるうちに頭角を現すようになった。

 1932年春、浅草萬成座に出演。しばらく同座に出演した。

 その後、再び大阪へ戻り、吉本の劇場に進出。9月中席より、さっそく北新地花月に出演。

 △北新地花月倶楽部 落語喜劇万歳の夕。桂小文治、曲技寺島玉章一行、柳家三亀松、桂春団治、桂三木助、桂文治郎、金原亭馬生、余興大喜劇「かつら」(小春団治、福団治、福団治、延若、円枝、五郎、小円馬、アチヤコ・エンタツ)。仲入余興舞踊オリムピツク。

 その後は、「寺島玉章一行」名義で、吉本の主要劇場に出演。東京に花月が出来てからは、そちらを中心に活躍する傍ら、全国を巡業するという東西問わない幅広い活躍を見せ、人気を集めた。

 その頃から、至芸の凄まじさは評判だったようで、作家で文藝春秋社長の菊池寛は随筆「話の塵」(「菊池寛全集 24巻 話の屑(昭和十年)」より 556~557頁)の中で、

エンタツ一座

 久しぶりで、新宿第一劇場でエンタツの漫才を聴いた。エンタツの長所は、その軽妙な身ぶりとその話術にある。だが、それ丈に話の内容が空疎になりがちである。漫才をもつと発展させるためには、やはり作者が必要であることを感じた。映画における考案者のやうな人がゐなければならぬと思つた。この一座の雪江五郎、染団治などは、だん/\上手になるやうだ。それから、一しよに出てゐたアクロバットの寺島玉章の芸は、至芸である。あれを見てゐると、昔の剣術の名人などの到達した妙境と云ふものも、理解される気がする。牛若丸の早業も、天分と修業とで、やれないことはないやうだ。

 と、激賞している。辛口の菊池寛にこれだけ言わせたのだから、相当の実力だったのは言うまでもないだろう。

 1936年、PCL制作の映画『唄の世の中』に出演。同作品は、同年8月11日に公開。近年、そのフィルムが再発見され、曲技をする二人の姿を拝むことができる。

 1937年7月、盧溝橋事件の遺恨から日中戦争が勃発。これまで険悪化しつつあった日中関係は絶望的なものとなり、満州事変直後はひどい扱いや言われもない言葉を浴びせられたという。

 日本と中国二つの祖国を持つ玉章はその複雑な心境を『読売新聞』(1937年7月25日号)の『日中風雲急の折! 祖国に馳せる思い 在京の中国芸人たち』の中で吐露している。同じ境遇の人物には、吉慶堂李彩もいた。

 しかし依然として人気は高く、日中戦争後に勃興した東宝名人会に迎えられる形で、同会に定期的に出演。東宝演劇にも出演するなど、幅広い活躍を展開した。

 1939年5月、『話』の特集座談会『「日本よいとこ」支那人「話」の會』に出演。ここでも複雑な胸の内を語ってる。

「曲技」と称されたように、人間ブリッジ、火の輪くぐり、逆立ち、バランスなど、人間離れした技を持ちネタとし、観客の度肝を抜いたが、十八番は「剣の輪くぐり」で、これは戦後まで得意とした。

 その至芸を加太こうじが自著『下町演芸なきわらい』の中で述べているので引用。

 軽業、曲芸と言われる演芸は、奇術が幻戯と称して日本に渡来した奈良朝時代から、やっていることはほとんど変わっていない。
 寺島玉章と言うのは旧姓泰玉章で、日中戦争中に日本国籍になった中国人である。昭和初期に”剣の輪くぐり”と言う芸で東京の寄席の人気者の一人だった。高座のテーブル上に木の枠が置いてあって、その枠には上下左右から剣が刺してある。剣の先は枠の中央に向いていて輪を作ったかたちになっている。その輪は人間のからだが通るのがやっとのことのせまさである。玉章は湯呑茶碗三個づつを、左右の手で持って、その六個を平行させて持つと、剣の輪はせまくてくぐりぬけられないことを客に見せる。そして、木の枠のところから数歩さがって、気合もろとも宙をとんで剣の輪を、こちらから向うへくぐりぬけるのである。この芸は江戸時代からの“籠ぬけ”と言う芸の変形である。筆者はこの芸や李彩の井鉢などは四、五歳のころから五十歳ぐらいまでのあいだに何十回も見ている。彼は一度として失敗をしたことはない。まさに絶妙の技だった。

 戦時中は劇場の閉鎖や空襲の激化に伴い、戦地慰問や軍事慰問などを中心にこなした。

 長らくコンビでの活躍が続いていたが、茶目に赤紙が届き、出征。玉章は一人で舞台を勤める事となった。出征後、戦地に送られた茶目は手を負傷。医者から「曲技は不可能」と宣告されたそうであるが、これを克服した。秋田実『大阪笑話史』に、

 ついでだが、茶目さんは出征中に手を負傷し、帰ってからは曲技は不可能と宣告されたが、その条件を克服して舞台に元気に復帰したのである。その手の養生をしている間、当時の進駐軍の慰問演芸の仕事をしていたが、そこから出てきたのが人気者のトニー谷さんである。

 戦後は茶目の回復を待ちながら、地方巡業や進駐軍慰問に参加。早くから進駐軍キャンプに出入りをすることとなった。

敗戦後の活躍

 1947年11月、有楽座で開催された榎本健一主演の『エノケンの孫悟空』に特別出演。妖怪・金龍(玉章)銀龍(茶目)として出演。得意のアクロバットを見せた模様。

 戦後は東宝に戻り、日劇レビューや東宝名人会に定期的に出演。洗練された曲技で老若男女のファンを魅了し、独自の地位を保った。見た目本位の華やかな芸のお陰か、早くからテレビに出演。

 1953年2月5日、NHKの『演芸』に出演。他の共演者は、声帯模写の木下華声。

 1953年8月27日、NHK『演芸』に出演。共演者は、三遊亭円歌の「柳の馬場」。

 1954年4月15日、NHK『演芸』に出演。共演者は、奇術の松旭斎天洋。

 また、1954年設立の日本喜劇人協会に初期から携わっていたそうで、澤田隆治氏から伺った話では、「なぜか知らんけど、協会の集まりとかになると、寺島玉章さんがね、居るんですわ。ただ、表立って何かする人でもなし、会場の陰でひっそりと坐っている人で、僕も別段親しく話しかけたわけではないんだが、思えばあの人にあれこれ聞いておけば、判った事は沢山あっただろう、と今となって後悔している節がありますわ」。

 1955年11月16日、NHK『ミュージカル・ショー〝とらんぷ譚〟』に出演。

 1960年、長年の活動や募金活動が評価されたらしく、紺綬褒章が贈られている。

 同年3月16日、国際観光ホテルで舞台生活55周年記念を兼ねたパーティを開催。古川ロッパはこのパーティに参加したそうで、『古川ロッパ昭和日記 晩年篇』の中で、

 三月十六日(水曜)晴
 NET「陛下と共に」楽ぢやないデス。九時に起されて、起きる。朝食、カリフラワー煮、大根みそ汁、鹿角草、飯は一杯。読経。それから日記。十二時半、タクシーで出る、KRT。行くと、金語楼一党皆ゐるが、二十三日本版の僕出演の分は、今日稽古中止の由。何のこっちゃい、そんなら、一時からの寺島玉章の会へ出られる。タクシー八重洲口、国際観光ホテルへ。寺島玉章舞台生活五十五年、同茶目四十年及紺綬褒章受賞記念といふ会。会費なしの招待。入ると、今日の主催者の一人、徳川 夢声が喋ってゐる。ビールしか出てないので、少し甜めたのみ。オードヴルをいろくつまんだ。指名されて、一寸祝辞を述べ、立ってるパーティーは辛し、腰かけてると、 皆に、やれ肥った、やれ、やせたと色々言はれて、返事めんどくさし。二時すぎ出て、タクシー、中谷迄。

 と触れている。

 同年夏、当時人気絶頂にあった子役の小鳩くるみの来訪を受け、同年8月発行の児童雑誌『たのしい五年生』に二人の姿が掲載される。小鳩くるみを相手に、逆立ちをしたり、肩車をしたり、と老いてもなお意気揚々と活躍する二人の姿が描き出されている。 

 1960年代の演芸ブームには完全波に乗りきれたわけではなかったようであるが、時折テレビに出演するなど、60過ぎてもなお、矍鑠と働いている姿が確認できる。晩年は茶目が主要の曲技を演じるようになり、玉章は土台役やトリネタを演じるにとどまったと聞く。

 1968年2月7日、NHK『テレビ演芸館』に出演したのを最後に消息が途絶える。澤田氏によると、「いつの間にかいなくなっていた」との事なので、1970年代に入って一線を退いた模様。

 先に玉章が死に、茶目も後を追ったという噂であるが、詳細は不明。ただ、茶目には戦後に生れた娘がいたという。その娘さんの関係者なら何かご存知かもしれない。

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