千代廼家蝶九

千代家蝶九

千代廼家蝶九

1940年の渡米時の広告

 人 物

 千代廼家ちよのや 蝶九ちょうく
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1940年以降
 ・出身地 関西

 来 歴

 千代廼家蝶九は戦前活躍した漫才師。当時の漫才師としては異例の国際派として知られ、渡航に色々と壁のあった戦前当時で三度もアメリカ公演を行っている。横山エンタツをアメリカに手引きしたのは実はこの人でもある。その割に経歴は謎に包まれている。

 経歴は不明。相方の登美子は安来節の出身だったらしく、長らくその界隈を歩いていた模様。大正時代にはすでに一枚看板だったことを考えると、経歴は横山エンタツや松葉家奴などと同等、それ以上ではなかったか。

 1926年にはすでにハワイへ渡って公演をしている。当時、アメリカ(特にハワイ)には日系コミュニティがあり、そこで興行を行う人がいた。こうした興行で喜ばれたのは浪花節であったというが、蝶九もお眼鏡にかなったのだろう。

 漫才師としての渡米としては本当に早い。

『央州日報』(1926年11月22日号)に――

藝者揃ひで大評判 関西笑樂團一行の来布 
愈廿七日廿八日の両日當市で開演 當市の北米興業社の招聘に応じて新渡米した関西笑樂團一行は去る七月沙市に上陸して以来各地を巡業中であったが到る處で大喝采を博し定刻前満員札止めの盛況を呈した由である。一行は関西浪界で滑稽読みで有名な京山福雲昨年鳥取県の安来ぶし美声会の優勝者千代廼家登美子出雲綱子及萬歳界のスター千代廼家の蝶九の四人である千代廼家の滑稽萬歳、落語、四ツ竹踊は 
△蝶九の滑稽な顔と大阪弁が
面白く蝶九と出雲綱子のかっぽれ踊は綱子の艶姿か観客を喜ばし京山福雲の浪花節『水戸黄門漫遊記』『乃木将軍』も大喝采を博し登美子の出雲本場安来節や博多節は美声の蝶九と登美子の娘萬歳、座員総出の二人羽織は捧腹絶倒の大喝采を博したと、同一行は當地へは廿七八の土曜日曜の両日開演する筈で一般の人気は大したものである

 とあり、挨拶として「自作安来節」を掲載している。

ポートランド市めしやづくし 安来節 蝶九作 
広いポートランドの飯屋の内に いつぞや行きたる大正亭 一目主さんミカドより 
名古屋甚句『其の又ほどの淀川よ、其上心は丸三で、まよいましたよ一力に 
千鳥までも暮したや、私しの吉備ずしとゞいたら 
あなたのお側で筑紫ます 
どんな無理でもノオゝゝホイ私や菊水よ』 
松壽庵まで添ひとげてあけて日の出でがおがみたい

 1926年12月にはサンフランシスコへ移動し、アメリカ本土へ上陸。

笑樂團一行来桑 加州を巡興 
新渡米関西笑樂團一行は一昨日北方より来桑、加州館に投宿、昨日本社を訪づれたが一行は 
北米興行会平尾健吾 同川原辰次郎 千代廼家蝶九 京山福雲 千代廼家登美子 出雲綱子 
であるが来る二十四、五日両夜金門学園の開演を振出に加州を巡興する筈……

とある。それから1927年正月から夏まで半年近くにわたってアメリカを渡り歩き、稼いでいたという。

 1927年8月にはハワイへ戻り、同年暮れまで働いていた――それこそ1年間の大仕事である。

 帰国後は一座を率いて行動していたが、1年半後に再び渡米。1929年9月7日、天洋丸でハワイへ上陸し、興行を打った。

 メンバーは千代の家蝶丸・登美子、横山エンタツ・須賀春子、玉子家源六・足利啓丸、浪曲の鼈甲斎吉之助、女道楽の濱田一二三・笑の家住之助という顔ぶれであった(後に千代の家蝶一、横山太郎、桂扇団治なども名前が出て来る)。エンタツは後にしゃべくり漫才で一時代を築いた「横山エンタツ」である。

 この頃にはすでにハイカラな漫才を演じていたようで――『日布時事』(1929年9月15日号)に、

◇……今やスポーツ万能時代映画に劇に、音楽に萬歳にスポーツの気分や文句や、写真が織り込まれて来た。いま来てゐる笑樂團の蝶九と登美子がやる萬歳にも野球の慶應や水泳の鶴田や、エールや野次が綴り込まれてゐる。スポーツを知らないで現代を語ることは出来ない

 とある。1929年12月にサンフランシスコへ上陸。1930年3月までアメリカ本土で仕事をしていた。

 帰国後は主に「千代の家一座」を率いて全国を巡業。これという会社の専属にはつかなかったらしい。この旅回り中に拾ったのが、後のミヤコ小蝶であるという。

 1932年8月31日、JOBKより「萬歳・渡米話」を放送している。

 1940年1月より5月にかけて、「愛国ショウ」を率いて三度目のアメリカ公演を行っている。

 一行は、千代の家蝶九、千代の家蝶々、千代の家お蝶、千代の家美蝶、千代の家みどり、ベビーテンプル、藤間静子(藤浪扇太郎)荒川歌江、大谷伸蝶、大谷マサル、大谷ソング、大谷マンガ、大谷美佐子、砂川玉子の14人。

 この渡米の第一報は、1939年のクリスマスイブに届けられた。以下は日系人向けの地元紙『Kashū Mainichi Shinbun』(12月24日号)の記事。

       日米興行會社招聘の『愛國ショウ』此れこそは素的! 

 當市日米興行會社にては新春初頭を飾る飾る初興業として今回故國より「愛國ショウ」一座を招聘することゝなり、一行は来る廿は知日桑港着の浅間丸便にて着米の豫定にて目下海上にあるが同地上陸後直に出迎へ人の案内で自動車にて南加し羅府に入る筈であるが、男子四人、女子七人の大一座は嘗て北中南支の皇軍将士慰問に渡航し漫才に所作事に勇猛果敢な皇軍将士を慰め其名を謳はれた合同一座で當市においては元日、二日三日の三日間大和ホールにおいて開演するすることになつてゐるが、プログラムは左の如きものである。 

△時局漫才と新舞踊女道楽所作事 プログラム 
△小唄漫才 千代の家マサル、美蝶 
△節まね漫才 千代の家蝶々、みどり 
△新舞踊 △時局漫才 千代の家お蝶、蝶九 
△女流漫才 荒川歌江、藤間静江 
△ナンセンス座員 同 
△天才少女漫才 千代の家伸蝶、テンプル 
△與太 大谷ミサコ、タマコ 
△女道楽 歌江、静子、みどり、お蝶、蝶々 
△アツクルバツト 大谷マンガ、リング 
△所作事

 上ではなぜか「男子四名、女子七名」と書いてあるが、実際は14人である。

 1939年12月28日、ハワイへ無事に到着し、当地で大晦日を迎える事となる。

 1940年1月1日、ハワイ大和ホールで、開演。5月30日に帰国するまで、ハワイ諸島を巡業し、日系人を相手に漫才や所作事を披露。

 『日布時事』(1940年3月19日号)に――

愛國ショウ 愈明晚初日 
前景氣盛ん好劇家が待ちに待つてゐた爆笑團『愛ショウ」 一座は二十日ウエンスデー午後七時より娯楽の殿堂東洋劇場で華々しく初御目得興業を開始する事になつたが一行の座長格千代廼家蝶九君は崩れそうな笑顔でに「私共の漫才は普通の漫才とは一寸變つたところがオマスノヤ、一座の中には砂川捨丸の相手役をしてた荒川歌江もゐますし、アクロバット漫才では日本一されてゐる大谷マンガもゐますし踊りの方じや押しも押さもせぬ藤間流の名取りの藤間静子がゐます番組は鐵壁かトーチカのようにオマスノヤ、一ぺん見てやつてオクレヤシ』云々=因に當夜は混雑を防ぐため午五時からテケツを売出し特別席は本日から発売してゐる

 とインタビューが出ている。

 5月30日、午前4時出港のピアース号で日本へ帰国。『日布時事』(5月30日号)に、

愛國ショウ歸國 ホノルルを初め各地で好評を博した愛國ショー一座は今三十日午前四時出帆のピアース號で歸國の途についたが出發に先立ち昨二十九日午後一行の代表者が日米興行布哇支社中濱氏の案内で告別挨拶に来社した

 とある。

 その後の消息は不明。戦後没したらしいが――

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