千歳家歳男

千歳家歳男

漫才師時代の千歳家歳男

看板芸だったボクシングvs柔道

 人 物

 千歳家ちとせや 歳男としお
 ・本 名 岡本 初太郎
 ・生没年 1904年1月30日~1975年5月30日
 ・出身地 京都 伏見

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。巨漢で見事な瓜顔だったところから、「カバさん」の名称で知られた。長らく「カバ漫才」なる容貌を散々貶されるネタを武器に、中堅どころとして活躍していたが、晩年は新花月の頭取に転向。名物頭取として睨みをきかせていた。

 経歴は吉田留三郎『まんざい風雲録』に詳しい。漫才の鼻祖の一人、市川順若にことよせて、紹介されたものであるが、貴重な紹介記事となっている。

 出身は京都。実家は呉服や帯の芯紙を作る職人をしていたという。珍しい商売である。然し、着物需要や家庭の事情で家業を廃業。九条に移って、漬物屋を開業する。

 幼い頃から芸事が好きで、寄席や映画館に出入りする放蕩息子で、大きくなった後に天狗連に参加するようになる。

 近所に稲葉兄弟というアマチュアながらも芸達者で、中々顔の広い兄弟がおり、この人たちから俗曲や踊り、鳴物、萬歳の柱立(式という)を習った。この時かじった雑芸が、後年、役立つ事になったのは言うまでもない。

 初めは演芸会や余興などの舞台に立つようになり、後年「都家初丸」などというそれらしい芸名までつけて、芸界に出入りするようになる。

 この頃、京都の清国館で常打ちをしていた「市川順若一座」に入団。この順若は、玉子家円辰などと鎬を削った方ではなく、倅の二代目順若であろう。この市川順若という人は、円辰とはまた別系統の萬歳(いわゆる伊勢万歳・伊勢派と呼ばれた)を改良して、相応に人気を集めた人であった。荒川末丸などとも交友があったという。

 同座で、仕出しや三曲萬歳の伴奏など、使い走りをしていた。然し、これがプロへの第一歩であり、歳男の自信をつけさせる一因になったのは言うまでもない。

 また、新派・剣劇俳優の筒井徳二郎の一座にもいたそうで、『サンデー毎日』(1936年10月25日号)掲載の『笑ひの人国記H』の中に、

 彼とコンビの歳男は、京都の盛り場所新京極生れである。小さい時から色物席や活動小屋の中で育つて来たほどもあつて、なか/\その道では小さい時から達者なものであつた。廿歳ごろから筒井徳二郎一座に入つて、田舎を廻つてゐたが、どうにもうだつが上らない。南瓜に眼鼻をくつゝけたように、およそ長閑な顔をした、のつぽの彼が、まともに役者になれさうもない、と自覚した。この自覚、相當根強いものだつたらしく改心して、素つ堅気になつて、なりもなつたり、京都で漬物屋を開業した。この生活が五年あまりも續いたが、ちよつと落ちついて来ると、どうも漬物臭いといふ至極當り前のことが気になつて仕方がなくなつて来たものだ。これで一つ転向しよう、といふんで、一変して、漫才師になつてしまつたのである。

 と、顛末が出ている。これは初めて知った。市川順若→筒井徳二郎→市川順若の順だろうか。

 上記の記事では、芸界から離れて漬物屋になったような書き方となっているが、実際は漬物屋をやりながら、漫才芝居や端席に出ていたというのが本当の所らしい。いうなればセミプロといったところか。

 その後は、「仁輪加芝居や漫才喜劇の仕出しに出たり、時には臨時の相方とツカミの漫才をやって幕間のツナギを勤めて」いたそうであるが、志あって本格的にプロの世界へ飛び込む。

 大阪へ上り、千日前の愛進館に入座。そこにいた若松家正八とコンビを組んで、初舞台を踏む。このコンビはまもなく別れて、橘家オクメなる人物とコンビを組みなおす。この人は、芸名の通り、奥目をした面白い顔の所有者であったと聞く。

 1932年頃、紹介する人があって、千歳家今男に入門。その時、仰々しい入門式を行ったそうで、これが後々貴重な経験談となった。『まんざい風雲録』に載せられたあらましによると、

 千歳家今若に弟子入りした時は古式にのっとって入門式を挙げた。今聞けば何か芝居らしくて信じられないが、その時分は大まじめにやっていたらしい。参考までに、あらましを書いておく。
 まず仲人役をきめる。歳男の場合、これは浅田家の家元の朝日が買って出た。仲人の上に、まだ「仲裁人」というのも付く。これは荒川ラジオが勤めた。現在のラジオとは別人、千成の弟子ですでに亡くなっている。神棚には明々とお灯明があがり海の幸、山の幸を供えて飾られた御幣が神々しい。正装に威儀を正した一同、ここで、しずしずとお神酒を汲み交す。「御神体は神農様か」と尋ねてみたが歳男さんは知らなかった。盃が終わると御幣を柱の上の方にくっつける。これは何のためか、と再び歳男さんに聞いてみたが、これも知らん、と答えた。詳しい意味はわからなくても、ともかく厳粛にして重々しい雰囲気だったという。

 当時の漫才師はこういう儀式を以て、師弟関係を結んだのだろうか。

 それから間もなく同門の兄弟弟子、千歳家今若とコンビを結成し、「千歳家今若・歳男」となる。

 1933年1月、さっそく京都の「千本中立売長久亭」の中席に抜擢され、コンビとして華々しくデビューを飾った。出演者は、

▲千本中立売長久亭 喬之助・三木助、一郎(曲芸)、扇遊、小春団治、千枝里・染丸、蔵之助、福団治、八重子・福次、歳男・今若、染丸、五郎・雪江、照子・菊丸、おもちや、三馬、愛子・光晴、笑福亭竹馬等。

 以来、若手漫才のホープとして吉本系の劇場に出演し、腕を磨く。

 1934年1月、天満花月の舞台を踏み、同年3月には南地花月の檜舞台を踏む――吉本の漫才経営策に乗じる形で人気を集め、スターダムの階段を上り始めた。

 また、この頃に「吉本漫才研究会」の選抜として引き抜かれ、夢若・夢路、右楽・左楽、川柳・花蝶と共にしのぎを削り合った。

 1935年8月、新橋演舞場で行われた「吉本漫才大会」に出演。若手枠としての出演だったようであるが、中々の評判を集めたそうで、翌月東京吉本から依頼される形で東京に残留。東京の花月と横浜花月を掛け持ちで出演した。 

 この頃出された雑誌『ヨシモト』(1935年9月号)に、今若・歳男の記事があるので引用。

 今若・歳男
 独創を主眼とする名實共に新進コンビ

 吉本の漫才研究會第一回選抜に川柳と花蝶、右楽と左楽、夢若と夢路と共に加つた若手中の人気者です。両人共千歳家今男の門下ですが、若いだけに千歳家流の型から一歩出て独創的な材料で既成幹部の牙城に迫つてゐます。その舞臺をみてゐますと真剣な勉強のほどが判然と表はれてゐます。
 八月は新橋演舞場の漫才大會に大阪勢に加つて東上し、アチヤコや師の今男、太郎や菊春、川柳や花蝶、市松や芳子等と伍して遜色のない舞臺振りで活躍しましたが、九月は亦東京吉本に残留で、東京と横濱を股にかけて懸命です。
 
この頃の漫才界は創作第一といふことに努めてゐますが、この両君も対話なり演技に型破りの手法をみせてゐます。柔道の心得のある?といふので今若君は吹けば飛ぶやうな痩躯に柔道着も有段者らしく、拳闘選手の歳男君を相手に対抗珍試合を最近やつてゐますが、この笑ひのボクシングを見る歳男君は、自分の特徴なり癖を十二分に生かして素晴らしい効果をあげてゐます。これも創作であり、こゝに苦心があるわけでせう。
 今若君は奈良育ち、文房具店の店員生活から、好きな道ならやつてみろ、と親の許しで急転向、今年二十六歳です。
 歳男君は、京都の漬物屋の主人公から、安来節黨になつて、遂々店を畳んで、アラエッサッサで一通り修行してから漫才に方向転換したのですが、その苦労の故か一見四十位ですが、本当は三十一歳なんです。

 上の記事にあるボクシング漫才の他にも、「サイレント浪曲」なるコント仕立ての漫才も得意としたそうで、閃きと斬新さは若手漫才でも随一であった。サイレント浪曲に関しては『大衆芸能資料集成』に詳しい記載が出ている。

 千歳家今若・歳男――。
 二人ともアチャコとコンビの今男の門下。若手らしく「何でもやってやろう」の意気に燃え、客の意表を衝く工夫で受けた。今若が柔道着、歳男がボクサーに扮して、“柔拳漫才”なども演じている。
 秀逸は二人の“サイレント浪曲”で、今若が京山幸枝ゆずりの節真似をする。すごい拍手に奮然とした歳男が、「只今は弟子が演じましたので、こんどは師匠の私が、篠田実の”紺屋高尾”をひと節……」とはじめるが、サマにならない。からかうので「おまえは邪魔だ。ここへ入っとれ」と、テーブルの下へ押し込む。
 おもむろに歳男が篠田節をうなるが、最後に実はテーブルの下の今若が歌っていたことがバレるという演出だ。

 1936年3月15日、全国中継の「花月劇場漫才大会中継」に出演し、「チョンマゲ氏とハイカラ君」を演じている。出演は砂川菊丸・照子、秋山右楽・左楽、林田十郎・芦の家雁玉。

 1938年5月の舞台を最後に、召集を受け、出兵。残された今若は、浪花家市松、次いで兄の千歳家今次とコンビを組みなおした。

 戦地へ送られ、中国戦線を転々とする。この時の上官が、将棋作家の倉島竹次郎であった。倉島は、同業者の鹿島洋々の従兄弟であったという。『話』(1940年新年特大号)掲載の石原金三『漫才界太平記』に、

(千歳家)歳男・繁子の歳男は、今男の弟子で依然、相弟子の今若と組んで可成り将来を愉しまれてゐた一人だ。それが今度事変に應召して、東日の将棋観戦家の倉島竹次郎の部下として、北支に転戦し、無事帰還して、恰度洋々とコンビを解消したばかりの繁子と組んだのである。繁子は、一時安来節で鳴らした女、相変わらずの美聲と、歳男戦線土産の天神髭で、昨今吉本が賣出してゐるコンビ。

 1939年初夏、除隊を受けて帰国。当時はまだ戦勝ムードがあった事もあってか、盛大なお出迎えがあったそうで、吉田留三郎は『まんざい風雲録』の中で、

 かくて相方も同門の千歳家今若となりコンビも漸く安定した時に赤紙が来て出征することになった。まだ日華事変の時である。時が早かっただけに大変な騒ぎであった。家が京都だったので京阪天満橋へ帰還してきたのであるが、吉本興業会社挙げての出迎えであった。当時、私は吉本の文芸部に籍を置いていたので、数の内として迎えに行ったが、あの茫洋とした顔に関羽さながらの長髭を生やして、ヘタな部隊長なんか足許へも行けないような威容で帰って来たのを覚えている。

 その帰還は、なかなか大きく取り上げられたと見えて、帰国後間もなくして、花月劇場で独り舞台を踏むほどの注目を集めた。『近代歌舞伎年表京都篇』に、

七月十一日~ 花月劇場

ラヂオは叫ぶ 九景 吉本フオリーズ
社会劇 あの日この日 二幕 爆笑王国 田宮貞楽 戸田三楽
親恋道中 六景 剣戟漫党 洋子・陽之助
漫談 ひげと兵隊 千歳家歳男 
漫 才 吉本俊鋭漫才連
【出演】出羽助・竹幸雪江・五郎勝美・幸若水月・朝江 かもめ・新月 小文字・菊次 福丸・小八重ほか

 その下に、備考欄と説明がある。曰く、

【備考】●「昨年〇月応召、直ちに出征して中支戦線より更に転じて南支戦線へと文字通りの肉弾戦闘を続けて、〇日賜暇帰還した吉本興業専属の漫才千歳家歳男が、中隊一の人気男になつた程の元気さでこの十一日より新京極花月劇場へ出演して……。」
(「京都日出新聞」7.10)
○「十一日より花月劇場、富貴に出演中の千歳家歲男は、戦地の土産物として立派な器を愛嬌に「ひげと兵隊」と名附けて、現地の生々しき体験をユーモアたつぷりに戦線風景を漫談化し爆笑を浴びてゐる。なほ出演時間は花月劇場は四時と八時……。」(「京都日出新聞」7.6) 

 と、デカデカ紹介されている。 

 もっとも、従軍体験だけでは食っていけない為に、帰国後まもなく深田繁子とコンビを結成。かつての相方、今若は兄の今次と組んでいたために、コンビを再結成する事は出来なかった。

 この頃、長野県から漫才師になるためにやってきた渡辺次男を門下に入れ、「千歳家飴男」なる名前をつけてやった。「千歳飴」の略である。この渡辺青年は、戦後東京へ移り、「新山悦朗」と改名。東京漫才の幹部にまで上り詰めた。

 1940年7月12日、「傷痍軍人慰問の夕」に出演。

 太平洋戦争開戦前後まで、繁子とコンビを組んでいたが、諸般の事情によりコンビ解消。相方の出征で宙ぶらりんになっていた一輪亭花蝶とコンビを組んで、「花蝶・歳男」を結成。

 1942年2月に発行された『誌上演藝館』ではすでに「歳男・花蝶」になっている所から、戦争勃発後まもなくコンビを組んだものと思われる。

 戦時中は多くの劇場が閉鎖、移転を余儀なくされる中で、最後まで吉本系の劇場で奮闘をした。

 1944年頃、花蝶とコンビを解消し、これまた相方の不在で宙ぶらりんになっていた立花幸福とコンビを結成。敗戦後しばらくの間、このコンビで続投していた。

 それからしばらくして、幸福が妻とコンビを組むことになったため、コンビ解消。古くからのよしみであった松鶴家団之助とコンビを結成。関係者が記憶する歳男の漫才師としての姿は、この団之助とである。

 小柄で二枚目な団之助が飄々と、巨漢でカバ面の歳男をいびる独特の漫才を開拓。実際即席に近い形で組んだため、ネタは殆どなかったという。

『米朝上岡が語る昭和上方漫才』に漫才の概要が出ている。

米 朝 それから千歳家歳男・松鶴家団之助の歳男はんのカバ。あれは一緒に旅(巡業のこと)を廻ったンで、毎日同じネタを一回ないし二回は聞くからね、もうだいたい覚えてしもたけどね、あの人は二つぐらいしかネタがなかった。 

上 岡 昔は十日間ぐらい旅を廻るから、楽屋で聞いているとネタって自然と覚えるもンですよね。 

米 朝 勝手に覚えてしまうな。団之助はん、出るなりなァ、「この間、天王寺の動物園の園長はんに会うたらなァ……」というて、いきなりそんなとっから入る。「そんならね、むこうにね、カバがいてンねや。これがメスのカバで、まァ、人間でいうたらちょうど十九か二十歳ぐらいの年頃なんや」「ほーう、ええ年頃やな」「そうや、むこうは婿はんを探してるちゅうンでな」「えッ、カバの婿はん?」「サァ、で、まァ、天王寺の動物園やさかい、それで新しい小屋も建ちかけてンねや」「ふーん」「鉄筋コンクリートでなァ、何ちゅうたって大阪市が付いてンねやさかい食う心配は ない。先々病気になったって、ちゃんと獣医はんが見てくれンねん」「ほーん」「このさい、君もよう考えなイカンで」(笑)。「何を考えなイカンねん!」。それでトリネタは、団之助はんが歌をうたうと、カバはんが洋服を着たままで踊る。「ちょっと舞のケがあるンやな」「私は何でも踊る」。それでほかの歌をうたうねンけど同じ手や(笑)。「私は何をやってもね、こっちをこう見て、それから反対をこう向いて、それで、こうこうこうやって(と振りつけを見せながら)。それで首をふったら歌と合う」「何でも」「何でもそれで合うンや」。それでほかの歌でもちゃんと合う。最後に天理教の「悪しきを払うて助けたまえ……」、それにもちゃんと合う(笑)。楽屋から大太鼓をドンドンと入れてね、今の文枝君なんかよう太鼓を打たされてた。

 1951年9月11日、154回『上方演芸会』に出演し、歳男と共にカバ漫才を披露。共演者は、暁伸・南アキ子(ミスハワイ)、夢路いとし・喜味こいし。

 このテープは現存し、澤田隆治氏がNHKラジオ名人寄席で流した事がある他、NHKライブラリーで聞くことが出来る。

  1958年5月25日公開の映画『大阪の女』に出演。楽屋の頭取というチョイ役であるが、特徴的な面長の顔と声を拝むことができる。

 1960年頃まで、断続的にコンビで仕事をやっていた模様であるが、団之助が興行社に力を入れた事もあって、コンビを解消。1961年の「関西演芸協会名簿」からはコンビでの記載が消されている。

 以降は特にコンビを組むことなく、三遊亭柳枝の喜劇一座に出入りしたり、コメディに出演するなど、請われるままにやっていたようで、『まんざい風雲録』にも、

 以来相棒としては深田繁子、立花幸福、松鶴家団之助等と変わったが、絶えず中堅漫才の中のベテランとして売ってきた。舞台に出ていた最後は柳枝劇団に出演していた時である。

 1961年に柳枝が亡くなったことを受けて、芸能界から一線を退く。但し、引退したわけではなく、長らく関西演芸協会に籍を置き続けていた。

 その後は、紹介する人があって、新花月の頭取に就任。「カバさん」「カバの頭取」として同業者から広く慕われ、後輩からも畏怖される存在であったと聞く。

 その存在は、芸能界のみならず、新花月の常連にもよく知られていたそうで、常連からは「カバさん」と広く慕われたほか、一悶着や舞台進行などで顔を出すと、懐かしそうに声をかける常連も随分説といたと聞く。

 吉田留三郎が『まんざい風雲録』の中で、その愛嬌について触れている。

 一つ挿話を加えて終わりとしよう。
 荒川キヨシというベテランの漫才がある。数え唄を得意にしているが、この数え唄は、合間に「腹ヘル、腹ヘル」という合の手がはいる。そして最終の小節には「ちょっと水飲んでこう」との囃子言葉が付く。この歌い方が実に軽妙で彼の十八番になっている。例によってこの持ちネタを出し「水飲んでこう」と舞台の袖の方に行く真似をした時、そこに恭しく水を捧げたカバさんこと歳男の雄大な顔がニューッと出ているではないか。
 まったく打ち合わせなしのハプニングである。キヨシも吃驚したが観客は一層の大喝栄である。舞台と客席と、そして舞台裏までが三位一体、渾然と和合した瞬間と言える。大阪的な、というより庶民的な、あまりに庶民的な寄席風景、大阪には、まだこんな劇場風景の残っていることを知ってほしい。
 千歳家歳男、明治三十七年生まれの六十六歳、まだまだ若く元気である。漫才とともに庶民とともに密着してきた半世紀、まだまだ元気もあり覇気もある。機会があれば、まだ舞台へ復帰したい気構えである。好漢の自愛を望みたい。

 1970年9月9日、豊中市民会館で開催された、NHK『お笑い招待席』に出演。

漫才「お笑い発明教室」(中田明成・作)  中田ダイマル・ラケット
踊り 千歳家歳男
漫才「お笑いカラーがいっぱい」(足立克巳・作) 海原お浜・小浜

 なぜ「踊り」で出たのは不明。しかし、諸芸尽くし漫才時代からの生き残りで、ユーモアあふれるカバさんが飄々と踊る姿はさぞ壮観だった事であろう。

 1975年5月30日に亡くなった、と、ご遺族から伺った。墓は大阪一心寺にある由。

 漫才師名物男。これにて一巻の終わり。

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