若松家正八

若松家正八

晩年の若松家正八

 人 物

 若松家わかまつや 正八しょうはち
 ・本 名 山本 茂
 ・生没年 1902年~1978年
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。漫才の技芸というよりも、派手な女性関係と奇人変人の行動の方が有名だったらしく、上方漫才の一種の名物人間だった模様。前田すみ子は晩年の妻。水町千夜子は義理の娘、柳エンドは娘婿らしい。

  その経歴は『上方演芸人名鑑』及び『週刊ポスト』(1974年8月9日号)掲載の『小沢昭一四畳半むしゃぶり対談⑤』に詳しい。以下は『上方演芸人名鑑』の記載。

若松家正八(二代目) わかまつやしょうはち 【漫才】
本名山本茂。一九〇二(明三五)~一九七八年(昭五三)
初代若松家正右衛門の門下。前名を大和家福楽といった。舞台では独特のパターンを作り出し、私生活でも奇人としてならした。晩年は妻の前田すみ子と組んだ。巨根の持ち主としてもつとに勇名をはせた。

 漫才師・山崎正三若松家正坊は兄弟弟子にあたる。

 また、『週刊ポスト』の記事には、また別のことを書いてある。

ふれこみ/生まれは明治35年。女形、漫才と、芸ひと筋に生きたもと裁判所書記の息子があかす上方芸人遊びの心、全部公開!

 週刊誌のいう事なので、すべて鵜呑みに出来ないが、いい所のお坊ちゃんだったのは確かなようである。

 『上方演芸人名鑑』及び『笑根系図』では「前名・大和家福楽」と書いてあるが、前述の『週刊ポスト』の中には、新派の女形をやっていたらしく、

相棒証言②/(※浅田家)寿郎さん(前出)「正八さんが芝居やっていたのんは、『籠の鳥』がはやった時分。いい時代やった。黒門町のさきのフトン屋の二階に、わたしら立役の芸人が十人、二十人いる。すると、田舎から太夫元が買いにくる。そこで一座つくって旅しまんのや。いわば、ここ、プロダクションや。正八さんは、ここで、女形の“山本繁”で売れていた。そらキレイな男やった。ただ、“飛行機の山本”いうくらい、すぐドロンする。旅先で、五日、六日働きますやろ。ほなら。コウモリガサにワラジはいて“ごきげんさん” 汽車でスゥーッ。“駆けこみ”いうてドロンしても、ほかの土地まわっとる一座にはいれるから、食えまんがな。それで、太夫元も怒らんで、また使ったもんやった」

 上記の記載や放浪癖から、「山本繁」名義で、女形を経験した後、喜劇の大和家宝楽一座に入って、福楽と名乗った――と、解釈すべきだろうか。

 大阪にわかの衰退や漫才勃興の煽りを受けて、漫才師に転向。

 若松家正右衛門の門下に入り、若松家正八と名乗る。二代目正右衛門の息子の話では「親父を除いて、正八というのが一番弟子」との由だったが――

 当初は浅田家寿郎と組んだ模様か。寿郎とは仕事関係を越えて、親しくなり、晩年まで付き合いがあったという。

 戦前、吉本に入社し、轟久菊とコンビを結成。この人は芸者上がりで、凄まじい性欲の持主だったそうで、流石の正八も困惑するほどであったという。

 1933年7月21日より京都座へ出演している様子が『近代歌舞伎年表』で確認できる。曰く――

万歳 吉本興行部特選万歳連 万歳(轟久菊 若松家正八)万歳(三升家小金 三升家小三)剣舞(斎藤重隆 池田武司)万歳(河内家一春 松鶴家団之助)曲技(東洋一郎)音曲万歳(吉野家千枝里 富士廼家染丸)

 戦時中は、籠寅と契約を結び、 若松家正八は桂菊八とコンビを組んだ。戦時中は浅田家日佐絵――南ふく子とコンビを組んだ。

 さらに、前田すみ子とコンビを結成。後年、結婚をして、夫婦漫才となった。この前田すみ子の娘が、水町千夜子であり、千夜子の夫が柳エンドなので、芸能一家を構成したという事になる(血縁があるかどうか不明。確かなかったと聞く)。

 漫才としてはあほだら経や音曲を生かした古典風の漫才だったという。若松家では高弟分で「兄貴」と慕われたという。

 何度も書いてきたとおり、この正八の真骨頂は、色道・女道楽にあり、その凄まじさは、『週刊ポスト』内で赤裸々につづられている。以下はその抜粋。見ているだけでくらくらしてくる。

小沢 先週は、高砂屋ちび助師匠に、東京の遊びの心をお聞きしました。今回は、大阪の方の話を、師匠から、ぜひ。
 ハナから恐縮ですが、リッパなものをお持ちだそうですね。
正八 リッパかどうか。昔、わてが喋ってると「大マラ正八の声がする」いわれたけどな。
小沢 それはリッパだ。映画界では、一に草人、二に宇礼雄というのがあるんです。草人が上山草人、宇礼雄が江川宇礼雄。漫才界では一に正八ですね。
正八 そないにハヤさんといてえな、センセ(笑い)。わて、そんな噂がたったもんやから、柳家三亀松さんに、殴りこみかけられたんでっせ。
小沢 ホォ。いつごろですか。
正八 戦争前。三亀松さんが、はじめて、東京から大阪の寄席へ出はったときや。わて、難波の南陽館に出てますねン。木戸銭十銭の小屋。そこへ、「若松家正八いうのおるんかい」なんや、えらそうなのがきた。
小沢 それが三亀松さん。
正八 そや。それで、何いうのか思うたら、「てめえ、“路線”がでけえらしいな。オレも東京じゃ、ちょっとは名を売っている男だ。すまねえが、見せちゃくれまいか」(笑い)。
小沢 変わった殴りこみだ(笑い)。それで見せましたか。
正八 そら、もう「どうぞ、先生、こんなもンで」(笑い)。そしたら、三亀松さん、「なるほど、てえしたモノだ。わるいほうじゃねえ。オレと変わらない」(笑い)。ワニ皮の財布から、五円札出して、「せがれに何か買ってやんな」と、わてのカリの上にペターッ。

正八 やらされたんや、わて。寿郎さんが座長の富士乃屋娯楽いう一座がおました。そこの立女形の、“三浦てるお”いうのが、寿郎さんにかいてくれ。寿郎さん、わてはホンマの女に忙しい。正八さん、かいてんか (笑い)。
小沢 これは難題。ことわれなかったですか。
正八 ダメなんや。三浦いうんは、床山もやりよるし、誰かがかかな、抜けられたら一座が立ちゆかぬ。それに、もう二階も借りてあるの。
小沢 新居ですか(笑い)。
正八 往生しましてな。一緒に寝ていて、「赤ちゃんでけたらどうするの」(笑い)。
小沢 アホなこといわんといて。
正八 というたら、あかんのや。抜けられたら困る。上手に合わさな。それで黙ってると、「情のない人やわ。できるというてちょうだい。でけたら奥さんになって……こんなん、よう、つらいわァ」

 晩年こうして、取り上げられたことは、遊びつくした芸人にとって、一つの仕合せだったのではないだろうか。

 1976年、78才という長命で死去。極道一代、これにて完結。

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