姿三平
姿三平・浅草四郎時代(三平は左)
人 物
姿 三平
・本 名 細田 日出麿
・生没年 1924年1月13日~1972年以降
・出身地 大阪?
来 歴
姿三平は戦後活躍した漫才師。浅草四郎とコンビを組んで「三平・四郎」。ハイセンスなしゃべくりとコント仕立ての漫才で人気を集めたが、不仲のために早く別れてしまった。一時期東京漫才としても活動していた事がある。
あまり人付き合いをしなかった関係もあるのか、前歴は謎が多い。生年のみ判明。『出演者名簿1963年度』より割り出した。
『笑根系図』によると、元々は新興演芸部のコメディアン「岸田一夫」の門下生で、新興演芸部の下回りで初舞台を踏む。
戦後、新興演芸部が解散したため、ストリップ劇場のコメディアンに転身し、各地を転々とする。西條昇氏のコレクションだったかに、戦後間もないストリップ劇場の広告に「姿三平」と出ていたのを記憶している。
大阪のストリップ劇場「温泉劇場」で働いている際、浅草四郎と出会い意気投合。1956年頃、コンビを組んで「浅草四郎・姿三平」として売り出す。
童顔でフニャフニャとした四郎と、ちょっとコワモテでかっきりとした三平の対比が売りで、「三平ちゃん三平ちゃん」「なんですかあ~四郎君」という出だしだけで観客を爆笑させたという。
すぐさま新鋭コンビとして注目され、秋田実率いる「上方演芸」にスカウトされ、同社に入る。上方演芸は劇場を持っていなかった関係から、できたばかりの千土地興行に送られ、千日劇場の花形となった。
後年、千土地興行の専属となっている。
ほぼ同時期に売り出したのが、横山ノック・アウトで、後の漫画トリオとも仲が良かった。
芸にうるさかった上岡龍太郎もそのファンで、自伝『上岡龍太郎かく語りき』の中で、
〇なつかしの三平四郎
姿三平・浅草四郎という漫才さん。ぼく、大好きやったんです。もう高校時代から好きでよう真似してたんですよ。
「三平ちゃん、三平ちゃん」
「なんですか、四郎君」
と言う調子で、楷書でしゃべる人でしたね。
「あー腹たつなあ」
「癪にさわるわな」
というのがギャグでした。四郎さんが、素朴、朴訥という感じでとつとつとしゃべる三平さんをおちょくるのがすごくおもしろかった。このコンビも、アルコールでやられました。三平さんがアル中でもうどうもできんようになって、別れた四郎さんが岡八郎さんとコンビを組んだんです。
三平さんは松竹へ移籍して、若い人を相方にして「一平・三平」とかいってまたやってたんですけどね、もう舌が回らんようになってしもうてね。ぼくらの知ってる三平四郎さんの、あのテンポは望むべくもありませんでした。四郎さんは浅草の軽演劇上がりの人で、体がやわらかくてよう動くんですよね。三平さんはまったく体の動かん人でしたからね。この二人の対比がよかった。
「彼女に結婚申し込みたいんやけど、どうしたらええやろ」
「それぐらい簡単やないか。ほな今から教えたろ。家へ行くわな。相手の家のまず戸を開けて」
「ガラガラガラ」 「きょうびそんなドアがどこにあるねん」
「ほな、どういう風に開けるねん」
「ドアはこうやないか。ギリギッチョンギッチョンチョン」
てな調子で、なんやわけのわからん擬音ばっかり使うてね。新しかったんではクイズのネタをやってましたね。
「では今からクイズを出しましょ。バスが走っています。ある停留所から五人乗りました。次三人乗って四人降りました……」
てな調子でダーッと言うていってね。
「さて、運転手の名前はなんでしょう」
「ええ加減にせえ」
というようなネタを当時からやってましたですね。そういう意味で言うと、うめだ花月出てたなかで、三平四郎さんが、ぼくらにとってはライバル、ということはないけど、ああいうテンポとか、あれに負けんようにしよう……みたいな意識はありましたね。
1958年4月19日より、1シーズン、朝日放送で「パッチリ天国」というレギュラー番組を担当。これのプロデューサーが澤田隆治――とは以前も記した。その後も
1959年12月1日より1960年1月26日まで、関西テレビの「ミタか聞いたか」に出演。
1962年、浅草四郎とコンビを解消。不仲だったというが詳細不明――Wikipediaには「解散後廃業」みたいに書いてあるがこれは嘘。
三平は入院を経て「姿一平」(本名・早野勇作)とコンビ結成。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』では「三平はパンチドラッガーみたいになってしまい、倒れた」というような旨があるが、詳細は不明。
その後はなぜか東京の漫才研究会に移籍し、数年ばかりここに所属していた。理由は不明。
1960年代後半まで一応活躍が確認できるが、引退した模様。ただ、その後も健在で、浅草四郎よりも後に亡くなったという。
Wikipediaには「浅草四郎よりも先に死んだ」みたいに記されているがこれは嘘である。『週刊現代』(1972年3月23日号)掲載の藤本義一「仲人は石鹸」の中に――
浅草四郎、姿三平という名コンビが、かつて大阪に存在しました。三平さんは京都でお元気でっけども、四郎は、自殺しはりましたわ。
とあるのが確認できる。夭折のラインは否定できないが、浅草四郎よりも後に死んだのは確定であろう。漫才とのつながりが深かった藤本義一が書くだけ信憑性も相応にある。
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