岡田東洋・小菊

岡田東洋・小菊

岡田東洋・小菊(右)
(※三代目広沢駒蔵旧蔵)

 人 物

 岡田 東洋おかだ とうよう
 
・本 名 岡田 清一
 ・生没年 1907年7月15日~1988年
 ・出身地 神奈川県 横浜市

 岡田 小菊おかだ こぎく
 
 ・本 名 岡田 敏子

 ・生没年 1920年9月25日~2008年10月10日
 ・出身地 沖縄県 南風原市

 来 歴

 戦前戦後活躍した夫婦漫才師。大阪漫才の中で、三線に琉球舞踊という沖縄色の強い不思議な漫才を得意とした。その特異な芸風のせいか、大阪よりも沖縄に資料が残っている実に不思議なコンビである。

 東洋は横浜生まれ。元は奇術師という、これまた変わった経歴の持ち主であった。その辺りの事は、『国立劇場演芸場』(1984年2月号)掲載の『芸人・てんのじ村Ⅶ』に詳しい。以下はその引用。

 相方の東洋さんは明治四十一年横浜市生まれ。みようみまねで奇術の世界にとびこんだのが二十歳の時だ。

 師匠筋等は不明。見よう見まねという所から、一種のセミプロのような形からデビューしたのだろう。当時は地方巡業でも一応の活躍できる場や小屋があった――東洋もまたそういった旅芸人だったと思われる。

 一方、小菊は沖縄の出身である。「敏子」という名義と「マカ」という名義がある。どちらが正しいのだろうか。

 その経歴は『琉球新報』(2005年8月23~25日号)掲載の『沖縄漫才小菊師匠一代記』に詳しい。

 出身は、南風原の与那覇。三男二女の長女であった。実家は客馬車を使って人や物を運ぶ商売をしていたそうで、一番上の兄や従業員を使って手広くやっていたという。人徳もあったため、後年区長を歴任した。

 7歳の時に、那覇へ転居。

 幼い頃、民謡、踊りが得意だった父から芸の手ほどきを受ける。親は芸人ではなかったそうであるが、陽気な沖縄人の事、これくらいの事は一つの素養だったのだろう。

 安里尋常高等小学校卒業後、高等科へ進学。当時、女子学生で高等科まで行くのは珍しかったが、「お父さんが教育熱心」だったために行かせてもらえたという。

 卒業後、手に職をつけるために助産師専門学校へ通うが、16歳の時に父が倒れ、亡くなったために退学。働きに出る事となる。

 まずは雑貨店に奉公へ上がったが、劣悪な環境のために半年で離職。次いで、楽器店に就職。ここは割かし続き、学生などと交遊し、蓄音機で流行歌を聞くハイカラな生活を送ったというが、後年離職している。

 それから、那覇市内の洋品店『山口商店』に転職。月給は6円ほどであったが、住み込みで三食賄い、着物付きだったそうで、かわいがってもらったという。

 山口商店で、女給として働いているところ、巡業へ来た岡田東洋と出会う。当人曰く、

「向こうが山口商店に買い物に来たときあったのが最初。私のこと「かわいいね」と言って、それから何度も通ってきた。目の前で手品を見せてくれたりして。ナンパみたいなもんやね。それでもまじめだったからね。芸人には似合わないくらい、ものすごいまじめな人。カチカチ。」

 そんなこんなで、「一緒になってくれなんだら死ぬ。沖縄で死ぬ」と謎のプロポーズを受け、情にほだされる形で結婚。こんなのでいいのかと思われるが、当人同士は大まじめだったことであろう。時に1939年。

 当然小菊の親からは認められず、駆け落ち同然の結婚であったという。仕方がないので、夜、店を抜け出し、台湾行きの船に乗り込むという有様であった。

 出航直前で家族の通報を受けた警察によって事情聴取をされるが、「同意の上での逃避」と答えて、難を逃れる。警察からは逃れたものの、地元では新聞などに「本土の奇術師が少女をかどわかす」などと書きたてられたそうである。

 上岡龍太郎は自著『上岡龍太郎かく語りき 私の上方芸能史』の中で「東洋さんが岩影へ隠れて密出国みたいな形で小菊さんを連れ帰ったちゅう話も聞きました。」と語っている。

 台湾の基陸に到着し、台北に居を構える。この時、岡田東洋の後見として「岡田小菊」として初舞台を踏んだ。小菊と名付けたのは東洋で、「お前は小さくて、かわいらしいから、小菊にしようね」と言われて、そう名乗ったという。

 『青い海』(1971年5月号)掲載の『漫才人生 漫才30年そら泣き笑いですわ』にも、

古仁屋で「トラ・トラ・トラ」

東洋「街の手品師が沖縄の美少女をかどわかして」(笑い)
小菊「台湾の基陸では、手品でお巡りさんの目、くらまして――」(笑い)
東洋「あほらし。ま、ええわい。台湾で“皇軍慰問”などをしていたら、あれは一六年やったかな。突然、あんたの兄さんが亡くなったいう電報が入って」
小菊「そいで沖縄に帰って、そこで親に結婚認めてもろうた。ついにあきらめてくれた」(笑い)
東洋「それも、まあええわい」(笑い)
小菊「それから銃後の慰問で、奄美大島に渡って、二人で漫才もやれば奇術、手品もやるという大熱演で、島をあげての大歓迎――」(笑い)

 とある所から、相当の覚悟だったのだろう。小菊は東洋から奇術や話芸の手ほどきを受け、奇術師として舞台に上がるようになる。時には幕間の漫才や雑芸などを勤め、芸人としての道を歩みはじめる。

 当初は夫の前座として軽い奇術を演じる事になっていたが、タネがバレたり、段取りを忘れたりして、怒られることもたびたびあったという。

 1941年、小菊の兄の死を受けて、沖縄へ帰郷。なお、長男・次男は戦死を遂げたという。悲惨な話である。この時、小菊の親と面会し、改めて結婚を許してもらったという。

 しばらくの間、沖縄・奄美を巡演していたようであるが、12月、古仁屋連隊への慰問中、太平洋戦争の開戦を知る。『漫才人生 漫才30年そら泣き笑いですわ』にも、

小菊「古仁屋連隊で、兵隊さんの慰問公演の準備をしている時、急にさわがし くなった。一二月八日、太平洋戦争突入の日でしたわ」 
東洋「トラ・トラ・トラや」

 と、語っている。

 結婚を機に、3年間過ごした台湾を引き揚げ、大阪に移住。大正区に居を構えた。

 この頃、東洋にも召集令が届くが、慰問や体調不良を盾に逃げ回ったというのだから、これまた情けない話。もっとも東洋なりの意地があったのかもしれない。『漫才人生 漫才30年そら泣き笑いですわ』に、

東洋「なんや、きょうびの若いもん、フヌケてる。気骨入れてほしい。といっても、戦争はかなわんし――」 
小菊「なにしろ、あんたは徴用のがれの専門やったさかいに」(笑い)
東洋「けったいなこと云わんとき」 
小菊「四、五日もマンマ食べんと醤油ばかり飲んで、ヒゲもそらんから、みごとな病人ができあがる」(笑い)
東洋「あんた一人で置いとくのん、忍びなかったからやで。人の気いも知らんとよういうわ。しかし、二回まではうまくいきよったが、公演の旅から帰って、ると、また来とんのや。例によってプラプラして行ったら『町にはお前に効く薬は売っとらんが、軍にはある』いうて背中をポン、合格や」(笑い)
小菊「戦局はきびしいなる。オッさんみたいに使いもんにならんようなんも、 かきあつめとった」(笑い)
東洋「むちゃくちゃいいよる。けどなあ、ほんまいうと、質の良くないのんばかり集まっとった」(笑い)
小菊「そんなこというと、“戦友”にどつかれまっせ」(笑い)

 と茶化しているが、その時の当人は必死だったことであろう。

 逃げるように満州や台湾の開拓団や兵隊の慰問に出かけたが、間もなく東洋が徴兵にとられる。

 東洋は山口県徳山市の海軍燃料廠へ配備される。芸人出身であった事や小菊が美人であった事から優遇され、比較的楽な兵隊生活だったそうで、『漫才人生 漫才30年そら泣き笑いですわ』に、

東洋「けど、あんたは可愛がられたなあ。徳山の海軍燃料所に配属されたんで、しばらくして近くにアパート借り、あんたを呼んだんやけど、結構楽しい思いも した」

小菊「わてまで部隊でやしなってくれたようなもんや。ベっぴんな嫁はんがいるいう評判聞いて、他の部隊からもボタモチや酒まで持ってきてくれよった」( 笑い)

東洋「わいのおかげやで。『芸は身を助く』いうけど、雨が降ると作業は休み。しゃあないから漫才やってやると、えらい喜びよってなあ。楽な仕事をさせてく れるし、特別待遇や。そのうちネタ切れで困ってしもうて」(笑い)

 と、笑い話が出ている。芸は身を助くというべきだろうか。徳山に呼ばれた小菊は結果として、沖縄戦にまき込まれずに済んだ。運がいいのか悪いのかわからない。

 ただ、関係者に電話取材したところ、小菊の親族は相当な被害を受けたという。

 小菊の兄は戦死を遂げたものの、他はなんとか生き残った。戦後、身内の無事を知り、沖縄へ渡って母と再会を果たした時は涙涙の連続であったという。

 1945年8月、終戦に伴い、武装解除となり、芸人に復帰。

 一時は闇屋などをしたそうであるが、一人前の芸人になるべく一念発起をして、大阪へ上った。時に1946年。

 そこで世話する人があって、松葉家奴に入門。しかし、よくこんな奇人の門下に入れたものである。戦後、奴さんの門下になったのはこのコンビぐらいであろう。『国立劇場演芸場』(1984年2月号)掲載の『芸人・てんのじ村Ⅶ』に、

 漫才に転向したのは、戦後間もない昭和二十一年、大阪に出て、夫婦で松葉家奴さんの門を叩いてからだ。(中 略)小菊・東洋さんは、奴さんの指導で、しゃべくりを中心に学び、それに流行歌、東洋さんの奇術をとり入れ、寸劇風の「カチューシャ」「カルメン」などをトリネタにした。

 師匠から漫才の基礎を教わって、本格的に漫才師へと転向するが、当時は劇場も壊滅し、戎橋松竹も建てられていなかったため、地方巡業をして芸を磨くこととなった。

 しかし、苦労の連続だったそうで、『漫才人生 漫才30年そら泣き笑いですわ』の中で、

「二度とくるまい。○○劇場」

ともかくも無事に終戦を迎え、例に よってヤミ屋をやり、地方まわりの劇団で苦労し、キャラがカボチャ一個――の時代を生きながらえてきた。今でこそ漫才もマスコミで引っぱりだこ。テレビの番組など、笑いのない日はないという、まことに結構なご時世だが、戦後の一時期はずい分しいたげられていたという。楽団は旅館、漫才師は自分で荷物をリヤカーに乗せ、泊るところは劇場の楽屋裏――
東洋「そうだんね。はじめて劇団に入ったんで、あんたはびっくりして泣きよった。楽屋裏には『二度とくるまい○○劇場」なんてラク書きが必ずありました もんや」
小菊「ほんまに地獄や。団員も一人づつドロンしよるし、最後までのこるのんは、いつもわてらだけ」
東洋「義理を欠くようなことはでけん。 しかし、あんまりひどいんで、抗議して退団しようとしたら、なんとヤーさん(暴力団)に脅迫されてな。それでも、ぐ っと胸を張って、主張を堂々とまくしたてた」(笑い)
小菊「えらい力みよって。けど、ほんまはさすが男はん、さすがはわての選んだ人と思うとりましたんや」
東洋「よろしい」(笑い)
小菊「あの時だけやで」(笑い)
東洋「そら、よろしくない」(笑い)
小菊「まあ、なんというか、楽屋裏ちゅうのは、小便臭うてうすぎたなくて、人間の住むところやおまへんわ」
東洋「ついに勘忍袋の緒が切れて、夜中に窓から荷物を降してドロン」

 と、凄まじい苦労を語っている。こんな生活を数年続けたようであるが、間もなく大阪へと戻った。

 この時、秋田実に認められる形で、氏が若手漫才師を囲って立ちあげた『MZ研進会』に招聘された。秋田実の斡旋で戎橋松竹の舞台を踏んだ。漫才師としてはこの辺りが第一歩であろう。

 ここで夢路いとし・喜味こいし、ミスワカサ・島ひろし、秋田Aスケ・Bスケ、千歳家今若・今次などと交遊を結んだが、年長者で特殊な芸歴だけあってか、深入りする気はなかったようである。

『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、

いとし で、あとは台本を書く方へ行った。それから奇術から漫才になった人がおりました。
こいし 岡田東洋・小菊。
上 岡 あの人らもMZ研進会にいてはったンですか。横浜かどっか、江戸っ子でしたね。
いとし そうです、そうです。
米 朝 嫁はんが沖縄の人やったね。
上 岡 口の中へ笛みたいなのを、
こいし 何や小さいフィルムみたいなのをな。
いとし 鳥の鳴き声みたいなのをやる。
こいし それで、しゃべる時には口の端へそれをピッとくっつけるンや。
上 岡 バイオリンのマネなんか口マネでね、それでしゃべりはる時も時々、音がする(笑)。音がしたらイカンのに。
いとし そういうちゃんとした芸があるのに別に漫才なんかやらいでもええと思う。
上 岡 で、時々、ハンカチを出して来て、手品みたいなことを
こいし 最後にね。
いとし あっちの方が本職やから。 

 と、面識のあったいとし・こいしの二人が、鋭い批評をしている。確かに彼らから見れば、奇術が一人前にできるのに何しに漫才へ、という思いも強かったことであろう。

 秋田実の指導で漫才を勉強するようになったが、なぜか秋田実が関与した『宝塚新藝座』に所属する事はなかった。当人たちの芸風や謙遜で腰の低い性格が災いしたのだろうか。

 結局、この所属の見送りは『漫才学校』など人気作品への出演を落とし、スター路線から外れる運命になってしまった。ただ、そちらに行っていたからとて、成功したかどうか、となるとまた困る。

 もっとも、漫才の低調さは当人たちも自覚する所で、『琉球新報』(2005年8月25日号)掲載の『沖縄漫才小菊師匠一代記』にも、

 私はボケもツッコミもできるけど、おっさん(註・東洋)はボケばかり。口が重くてユーモアはない。ずんべらぼうだった。私の方がおっちょこちょいで、しゃべくりに味があると言われた。それがまあまあ良かった。

 と正直なところを語っている。

 1957年、吉本興業に誘われて入社。同社が再建した「花月劇場」へ積極的に出演するようになる。『国立劇場演芸場』(1984年2月号)掲載の『芸人・てんのじ村Ⅶ』では「昭和38年」となっているがこれは間違いだろう。1957年説は、『日本演芸家名鑑』を採用した。

 吉本所属となってからは、淡々と花月劇場に出演。出番的に恵まれなくとも不平不満を言わず、淡々と勤めていた事から芸人や関係者からは信頼されていたという。

 言い方を悪くすれば「永遠の三番叟」であったが、他の若手にはない「程」と実力を兼ね備えた品格の持ち主であったという。

 当初はしゃべくり漫才と奇術を中心にやっていたそうで、ハンカチやコインの小奇術や口の中に笛を仕込んで、バイオリンや声帯模写をする、雑芸要素を重ねたような漫才を得意としていたという。

 上岡龍太郎は自著『上岡龍太郎かく語りき 私の上方芸能史』の中で、

(岡田)小菊・東洋さんは、松葉家奴さんの弟子でした。この小菊さんっていうのが沖縄で琉球舞踊の名手です。まだ戦後すぐですから、東洋さんが岩影へ隠れて密出国みたいな形で小菊さんを連れ帰ったちゅう話も聞きました。口で楽器のバイオリンの音を出すんですよ。夜店なんかで よう売ってた丸いセロハンを舌の下へ入れてフーッと吹くと「ピー」っていう音がする。あれを入れてはる。で、「口の中にはなんにもありません」っていわはるんやけども、「ありません」っていう時に舌にはさんではるから、「あるやないかい」と思わず言うてしまうようなネタでした。恰幅のいい東洋さんと、ちっちゃーい小菊さん。で、東洋さんが横浜訛の大阪弁で、小菊さんが沖縄訛りの大阪弁でしたね。

 この笛は、吉本芸人の間では有名だったらしく、明石家さんまやオール阪神・巨人などの古老が「岡田東洋・小菊という漫才が居た」「笛が変な所で鳴るからおかしかった。『今日は(ピー)に行くねん』」と語っているのを聞いた事がある。 

 長らく漫才のスタイルで迷走する中、1968年頃、会社から「沖縄風の漫才をやったら」と提案され、心機一転。

 沖縄風の衣装に蛇皮線、東洋もマラカスや三板(中国及び沖縄音楽で使われる打楽器。三つの板を紐でつなぎ、カスタネットのように打ったり、指で挟んでリズムをとる)を持って舞台に出るようになった。

 なお小菊の三線は、名人と謳われた普久原京子直伝のもので、踊りともどもキチンとしたものであったというのだから見上げた料簡である。

 沖縄漫才のために、安里屋ユンタの手を替えて「さあこれから始まる東洋・小菊の二人連れ、サアヨイヨイ」というテーマソングまで作ったという。

 ただ、当初は相方の東洋も沖縄言葉をろくろく理解しておらず、「グスーヨー、メンソーレー」を「ゲスゲス、メンソレータム」といって小菊をあきれさせた逸話が残っている。

 素直に沖縄漫才に心機一転を遂げた、その背景には沖縄返還の話題が徐々に盛り上がってきたのもあるんじゃないだろうか。『国立劇場演芸場』(1984年2月号)掲載の『芸人・てんのじ村Ⅶ』に、

 沖縄の踊りや唄をトリネタにとりこんだのは四十三年からだ。
「吉本興業さんから、あんた沖縄生まれだから沖縄の芸能をやってみてはといわれてはじめたのです。蛇皮線や唄は、父が得意にしていたのを小さい頃から覚えていたので苦にはなりませんでしたが、踊りの方は沖縄出身の方に手はどきをうけました」と小菊さん。

 と紹介されている。

 また、Wikipediaに『「うちのばあさんが舞い舞って死んだんや!!」「どんな舞やねん」「心臓舞(舞)や!!」と言うつかみネタがあった』という月亭八方がネタにしていた発言が掲載されているが、実はこのネタも記録されている。

『漫才』(1969年6月号)に掲載された浜一夫『楽しめる環境をー見たまま聞いたままー』の舞台評に、

 東洋・小菊

 小菊の沖縄の服装、髪型、さすが板についているといった感じ。舞台の盛りあがりは今一つさびしい。
 東洋の独特の口笛、いまだ衰えずといったところ。 沖縄のおどりぶりを披露するにあたってのセリフに、
 東洋 うちのおばあちゃんは踊りが好きでなあ、踊りながら死んだんや
 小菊 ほんとうですか?
 東洋 シンゾウマヒ
 どうも素直には笑えなかった。

「マヒ」を「舞」と読むのがミソである。ただ、あまりいいギャグではない。

 1971年、沖縄返還間近で刊行された地方雑誌『青い海』に取材され、同年4月創刊号に『夫婦漫才ずっこけ青春”真似せんときや』、5月『漫才人生 漫才30年そら泣き笑いですわ』として掲載された。

 なお、沖縄は翌年4月に返還され、小菊も何の気兼ねもなく故郷へ帰れるようになった。

 1970年代に入り、漫才ブームの兆しが出るようになった後も淡々と舞台を勤め、多くの若手の活躍や人気漫才師の暴走を横目に、独自の芸域を築き上げた。

 1977年頃、廃業したとWikipediaなんかで紹介されているが大嘘。平成初頭まで活躍した。

 ただ、1977年に吉本興業を退職し、フリーになったのは事実である。芸人たちと接点が少なくなったため、そんな風に解釈されたのかもしれない。

 しかし、1977年廃業は大嘘である。以降は地味ながらも堅実な活躍を続ける事となった。関西や九州一帯を拠点に活躍。沖縄返還後、那覇市民会館にも出演。漫才師として故郷に錦を飾った。

 1984年2月、パンフレット『国立劇場演芸場』の特集『芸人・てんのじ村Ⅶ』に二人の芸歴と近況が掲載される。曰く、

 現在、ホテルのパーティの余興とか、近在の公民館の催しへの出演が主である。漫才の手順は、 沖縄のテーマソングを奏でながらしゃべくりがはじまり、ついで小菊さんの沖縄踊り、東洋さんのコミック仕立ての奇術をくりひろげ、トリネタが 小菊さんの蛇皮線、東洋さんの口笛の合奏で、沖縄民謡のあれこれを披露している。

 タレント路線にも、興行中心体制にもよらない独自の活躍を見せていたようである。これを零落したと捉えるのは簡単であるが、芸を思う存分披露できて、芸好きな人々と交流できた、と考えれば、またこういう生き方もありではないのだろうか。

 晩年は大阪市福島区に居を構え、そこを拠点に活躍をしていた他、関西芸能親和協会に長らく属していた。平成初頭までこの協会に所属している様子が確認できる。

 1985年、日本演芸家連合発足15年を記念して、『日本演芸家名鑑』が発行される。その中に二人の名前が出てくる。吉本興業を退社した旨はあるが、現役引退したとは書いていない。

 しかし、この頃になると「おっさんが病気になって息が続かなくなった」そうで、舞台から遠ざかるようになる。

 1988年、岡田東洋が80歳で死去。3年ほど、闘病生活を送っていたという。夫の死を受けて小菊は漫才師を廃業した。

 1989年、身の回りの整理をして那覇へ帰郷。デイサービスに出入りをして、老後の日々を過ごすことになった。もっとも、頭はしっかりしており、矍鑠としていたため、老人ホームや公民館に出入りして、沖縄民謡と三線を披露する事があったという。

 2005年、唯一の生き残った兄弟であった弟を失っている。

 2005年8月23~25日、『琉球新報』に『沖縄漫才小菊師匠一代記』が掲載される。この時、85歳であったが矍鑠と語って見せた。

 2008年10月10日、米寿の祝いを迎えて間もなく、小菊は夫の元へと旅立った。訃報は、生前交友のあった新城栄徳氏の研究サイト『琉文21』に掲載されている。このサイトは非常に信憑性、学術的な価値が高い。他の記事もオススメである。

 確認のために関係者に電話をしたところ、この没年で間違いないという由であった。間違いない事であろう。

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