立花幸福・林美津江

立花幸福・林美津江

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 人 物

 立花たちばな 幸福こうふく
 ・本 名 林 新三郎
 ・生没年 1903年~1980年以降
 ・出身地 ??

 はやし 美津江みつえ
 ・本 名 林 みつ
 ・生没年 1908年~1980年頃?
 ・出身地 ??

 来 歴

 立花幸福・林美津江は戦前戦後活躍した漫才師。大柄な美津江が小柄な幸福を振り回すオーソドックスな夫婦漫才を得意とした。漫才師としては古株で、1930年代にはすでに活躍が確認されている。若い頃は古風な芸尽くし萬歳、戦後は音痴な美津江を全面に出したしゃべくりで長い息を保った。

 経歴はなんと、なんとWikipediaが一番詳しい。当時の事情が赤裸々に記されている。Jiritsu123という編者がいるのだが、この人が親類縁者らしい。何とかして連絡取れないものか。

 幸福・一生は立花家幸丸門下で兄弟子に立花家小幸丸、二代目立花家音丸らがいる。母親(商家の後家)が明治から大正期の軽口のコンビ笑門亭福徳・福来の谷町(今の追っかけ)をへて、再婚して男子(清水姓)をも受けるが芸事には興味なく(関西大学卒業後「旅行会社」に就職する。)先夫の子ども兄弟が芸人(旅巡業を好む)となる。 一生は戦後、国鉄に就職し。奇術出身(水芸の太夫)で妻であった美津江とコンビを組む。

 幸福の養父は笑門亭福来らしい。『上方落語史料集成』によると、岡田徳太郎(見田徳太郎とも)といい、初代桂文我の息子であったという。1887年頃の生まれか。幼い頃に二代目笑福亭木鶴の養子となり、落語家となった。まず、大阪の立川三光一門で「小三木」、父の門下で笑福亭木三松。四代目笑福亭松鶴の門下へ移り、三福、里鶴、小松鶴、二代目笑福亭文里を経て、軽口コンビ「笑門亭福徳・福来」の福楽となった――という。

 相方の福徳は中国人だったというが、本当だろうか。

 幼年期の経歴は不明であるが、母が笑門亭福来の妻となったこともあり、芸能界とは早くから距離を持っていた。

 幼い頃、養父はまだ落語家をやっていたそうで、落語の傍らで軽口をやっていた。1916年頃、徳太郎は「笑門亭福来・福徳」を結成し、軽口の芸人となった。

 そうした父の影響を受けたのか、10代で当時売り出しの漫才師・立花家幸丸の弟子となり、「立花家幸福」となった。幸丸とは1つ違いであり、師弟関係というよりかは兄弟のようなものであった。

 兄弟で「幸福・一生」と名乗り、青年漫才師として活躍。Wikipediaの記載では「旅を好む」とあるが、地方で稼いでいたようである。

 しかし、30近くなって一生は漫才師をやめてしまった(上の話を信じるならば国鉄に入社した模様か)。

 1932年にはすでに美津江とコンビを組み、「立花家幸福・美津江」となっている。

 相方の美津江の経歴は不明であるが、松旭斎天遊一座の出身で「天美」と名乗っていた――と、『上方演芸家名鑑』にある。旅巡業か何かで幸福と出会い結婚した模様。

 1932年2月5日、JOBKに出演し、『萬歳いろいろ』を放送。この時は既に一枚看板となっている。

 新世界世界館に長らく出ていた。

 1930年代に入り、漫才ブームが訪れるようになると、吉本興業へ入社。しかし、一枚看板として厚遇されることは少なかったという。

 それでも太平洋戦争中は漫才師の看板が欠け始めたこともあり、北の新地花月倶楽部や南地花月に出られるようになった。

 長らく堺市に住んでいたそうで、そこから大阪の劇場などに出勤していた。

 1949年春、東京から来た今村信雄などと共に戎橋松竹で小噺の会を開催。ここに出席している。『新演芸』(1949年5月号)に――

小噺題「かね」
一等 笑福亭松鶴
お彼岸で天王寺へ詣ったら大釣鐘がないやうになって堂が残ってあるが、あれは何ぞにならんやろうか、かねがなかったらどう(堂)も仕様がない。
二等 丹波家九里丸
「金の計算に赤字黒字があるがナゼ自字がないやろうか」「淡白な人は金に目がくれない。」
三等 林田十郎
「オイ帝銀事件の平澤は僕の犯人か、」「金のセイサンカリが、まだからん。」
四等 桂米團治
銭がほしうて仕様がないよう梅ケ枝の真似でもやったろと思うて内の手水鉢をガシガシどついたが根から出ないコリヤようやらにゃあかん思て半日どつき通した」「それで百圓札でも出たんかいな」「隣から苦情が出ようた」
五等 立花家幸福
ある欲の深い金貸しが金を借に来た客に「直ぐにお貸しいたしますが三の手数料と七割の利子は先に頂いてきます」

地口題「石の上に三年」
岸の船に番人 一等丹波家九里丸
質の上に借金 二等林田五郎
獅子の笛に三味線 三等立花家幸福
意気な家に三枝 四等笑福亭松鶴
質の夢に丹前 五等笑福亭光鶴

選外佳作
椅子の古手千川 桂米團治
意気な妻の丹前 立花家花橘
椅子の上に三人 桂文我

 戦後は主に戎橋松竹や温泉演芸場などで活躍した。幸福な滑稽な風貌、小柄な幸福を美津江が振り回す女性優位漫才、そして美津江の音痴が売り物であったという。

 戦後は山崎正三・都家文路志摩八郎などと手を組んで、「MZ研進会」を結成。若手漫才の育成に力を注いだ。

『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』に二人の芸風が出ている。

上岡 立花幸福・林美津江。このコンビは、お百姓さんが畑仕事を終えて帰ろうとした時にカラスが、「クワーッ、クワーッ」と鳴いたので鍬を忘れかけたことに気づく。家へ帰って鶏に、「普段、エサをやったこともないカラスでもああして教えてくれる」とボヤくと「トッテコウ―ア―」 というネタね、あれを覚えてます。
米朝 「鍬ガラス」ね。この美津江はんという人は天然の音痴なんや。「長崎物語」でも何でも歌 をうたうと何ともいえンぐらいうまいこと外れてゆく。そしたら幸福さんが腹を押さえてね、「どうや」と聞かれたら、「いや、今のを聞いたらちょっと便所へ」(笑)。それが受けるようになった。そしたら今度は意識して、歌を外そうとしたら、これはやっぱりアカンね。
上岡 そうですよね。真面目にやって外れるのは笑えるンやけど、わざと外して笑わそうと思ったら不思議に受けない。
米朝 明治から大正にかけての寄席の出番に笑門亭福徳・福来という名前の軽口の芸人が出ている。 どっちか片一方が中国人で、もう片一方が日本人やねンけど、幸福さんという人はね、その、日本人の方の息子さんや。

 1962年頃に大阪市西成区へ転居。てんのじ村の芸人となった。古風な漫才は地方では大ウケだったそうで、團之助事務所や京都の初音芸能社とは親しかったという。

 長らく関西演芸協会に所属していたが、1973年に山崎正三らと結託して関西芸能親和協会を設立。同会の理事におさまったという。

 その後も関西芸能親和協会の名簿で名前が確認できるが、1979年頃を最後に美津江の名前が消え、1980年の名簿を最後に幸福の名前も消える。

 没したか、完全に廃業したか――その消息は分からない。

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