林田十郎

林田十郎

名相棒・芦乃家雁玉と林田十郎(右)

終戦直後の雁玉・十郎(左)

 人 物

 林田はやしだ 十郎じゅうろう
 ・本 名 吉田 留吉
 ・生没年 1900年6月11日~1967年3月24日
 ・出身地 神戸市

 来 歴

 戦前戦後第一線で活躍続けた上方漫才の大御所。第一期の『上方演芸会』の司会を勤め、「いらっしゃいませ、こんばんは」を流行語にするなど、関西弁の啓蒙にも一役を買った。頭でっかちの雁玉とは対照的に痩せ型で面長な所から「サエラ(さんまの意)」と綽名された。

 なお、二人ともモッチャリしゃべるため、よく間違えられるが、ドス声でしゃべるのが雁玉、頭のてっぺんから出るような、高い声でしゃべるのが十郎である。筆者は、十郎の声を聴くと、七代目三津五郎の声を思い出す。三津五郎の声を偲びたい人は(一応放送局やレコードには三津五郎の声は残っているんだが)、十郎を聞けばいいと思います。

 長らく雁玉と比べ、経歴に謎が多く、昭和に出された本のいくつかには没年不詳と書かれる始末であったが、上方演芸に精通しているイラストレーター・成瀬國晴が、彼の生涯を追い、朝日新聞に掲載。後年、エッセイ集『なにわ難波のかやくめし』としてまとめた。

 同著では、簡潔に生涯を振り返っているが、非常に発見が大きい、隠れた名著といえよう。

 出身は神戸。父は中西寅吉、母は吉田てつの長男として生まれる。父は相生町で八百屋をしていたという。本来ならば「中西留吉」となるはずが、母方の姓を名乗っているのは、幼くして両親と生き別れたからか。

 その辺の経緯は、『サンデー毎日』(1936年10月25日号)掲載の『笑いの人国記』に詳しい。

林田十郎は神戸駅前、相生町八百屋の倅で、雁玉よりちよつと若く丗七歳である。 六歳の時、子役で嵐三五郎の門に入り、三味線と踊りを習つて、旅廻りばかりしてゐたが、どうも旧芝居は気にそはない、そこで十八歳の時、喜劇大和屋宝楽一座に入つて、何と、女形専門にやつてゐた。お得意がお転婆娘やモダンガールだつたつていふから、ちよつとその方が見たいものみたいである。そのうち、役者につきものの鉛毒で、体の自由がきかなくなり、仕方なく舞台を引いて休んでゐること五年、がらりと変つて、万才師になつて登場したものだ。

 長沖一の『上方笑芸見聞録』の記載の大本はここからとったものであろう。

 幼い頃、親と死に別れたか、或いは養子に出されたか、その辺りははっきりとしないが、林田多平なる旅役者の養子にもらわれる。この斡旋をしたのは、成瀬の祖父であったという。

 『なにわ難波のかやくめし』では、

 十郎と五郎がむかでやで舞のけいこをしていた子供のころは旅回りの一座といっしょで、十郎の親の死によって、わたしの祖父が林田多平に預けた。前に書いた市川多三郎門下での子役時代に むかでやに泊まり、多平に預けられ六歳で嵐三五郎一座で子役(長沖一著・上方笑芸見聞録)と考えると、わたしの父や西田節子さんががいう林田多平は旅回りの役者だとの話と一致する。林田多平は嵐三五郎だとわたしは推理する

 とし、多平の籍には、十郎五郎の二人は入っていなかった――と紹介しているが、管理人は、成瀬さんの論法の順序が逆なのではないかと考えている。

 一つ目は、嵐三五郎なる役者が、大正年間まで実在したこと。旅回りの役者であったが、一応は名跡として各種俳優名鑑で紹介されるほどの存在であった。

 1918年発行の『現代俳優鑑』によると、

本  名 中村安之丞
生年月日 嘉永四年二月十二日
出生地 東京下谷区同朋町
何代目 六代目

屋 号 吾妻屋

 とある。その後の略歴を書くと、

 万延元年、中村芝翫に入門して、中村翫之助。同年8月左之松芝居の『先代萩』の八汐で初舞台。
 明治元年、大阪へ登り、中村芝歌之助に改名。
 同年12月、中村竹三郎と改名している。
 明治2年、嵐雛助の養子となり、嵐雛助を襲名。然し、故障があって雛助家から離縁し、嵐三五郎を襲名。  

 三五郎襲名後は、京都や旅巡業に徹するようになり、大名跡を継ぎながらも、遂に大成することはなかった。 『役者芸風記』では、

 時々京都の大舞台に出てゐた。そして何時か京都に根據を据えるやうになつて了つたが、それも此の頃では京都に居るよりも旅に出てることが多い。三五郎は何時の間にか旅廻りの役者になつてしまつたのだ 一口に謂へば、此の人の藝風は、厳笑に、濃厚な臭味をつけ、更に訥子式の場當りを加へて、そしてそれよりも餘程下品で且つ下手なのである。加之役者ぶりも貧弱なら、調子も悪いのに、何時も/\旅ばかり廻り歩いてゐるので、藝も荒み役者ぶりも流れきつて、何に一つ取柄のない人になつてしまつた

 とまで書かれる始末である。 しかし、腐っても大名跡とだけあってか、旅回りは旅回りでも、その辺の訳の分からない地方役者とは別物であったのは言わずもがなであろう。

 筆者は、三五郎門下に入って、4歳で初舞台を踏んだが、林田多平の養子となった――そして、市川多三郎の正体が、林田多平ではないだろうか――そう考えるのである。

 当時の歌舞伎には、偽物が横行していたので、多三郎の嵐三五郎がいたという可能性も否定できないが、しかし実際の嵐三五郎が旅で暮らしていたと考えると――そして、市川多三郎という名前が、林田多平という名前に似ているのを考えると、やはりこちらの方がつじつまが合うのではなかろうか。

 さて、18歳の時に歌舞伎に見切りをつけて、ニワカの大和家小宝楽に入門。大和家楽三郎と名乗る。

 この時、一緒ににわかに転向したのが、林田五郎であったという。ただ、五郎は芸人生活に嫌気がさして、牧師へ転向してしまったので、ニワカ時代はほぼ一人あったとみるのが正しいのだろうか。

 このニワカ時代は、美貌を生かして二枚目や女形をやっていたというのだからおかしい。しかし、モテたのも事実のようである。

 その後、ニワカの衰退や鉛毒の影響もあって、役者を廃業。しばらく舞台を休業した後、1925年頃に漫才へ転向。

 この時、牧師業を辞めた林田五郎とコンビを組んで、「五郎・十郎」を結成した模様か。芸名の由来は、養父の「林田多平」の「林田」に、曾我物語の主人公で、歌舞伎の英雄的存在である「曾我五郎・十郎」を分けたものであるそうな。年上の十郎が、兄の名前を継ぎ、五郎が弟の名前を引き継いだ。

 ただし、『大衆芸能資料集成』などでは地元神戸にあった「五郎池・十郎池」(現在は消滅)から名付けたという説を挙げている。

 コンビ結成前後で吉本興業に入社をした。

 しばらく「五郎・十郎」コンビで端席や巡業をしていたようであるが、五郎が柳家雪江とコンビを組むにあたって解散。

 公称によると、1928年、雁玉とコンビを結成。徳川夢声『問答有用1』の鼎談の中で、

夢声 ええと、あなた方がコンビになつてから、途中で切れたのは入れないで、何年になるわけですか。
雁玉 昭和三年からですわ。
十郎 足かけ二十四年だんな。

 と語っているように、十郎とのコンビ結成年は、「1928年」説が一番有力であるが、1927年12月弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」の中で、すでに「雁玉・十郎」として出ている事から、それ以前から暫定的にコンビを組んでいた模様である。

 1928年9月、注目の若手として、松島花月に出演。『上方落語史料集成』によると、

十一日より(御大典記念興行)

△南地花月 春団治、小春団治、三亀松、枝鶴、蔵之助、歌蝶・芝鶴、勝太郎、九里丸、千橘、円枝、馬生、おもちや、福団治、升三。

△北陽花月倶楽部 三木助、円若、千橘、春団治、今男・アチヤコ、馬生、三亀松、染丸、小春団治、歌蝶・芝鶴、ざこば、福団治、扇枝、小円太。

△松島花月 染丸、雁玉・十郎、勝太郎、九里丸、三木助、小円太、小春団治、霊心坊、五郎・雪江、扇枝、三亀松、春団治、おもちや、染三、千橘。

 スマートで、飄逸な話術は、いち早く認められたのか、1929年1月には、

△新町瓢亭 小春団治、塩鯛、光鶴、升三、文次郎、馬生、十郎雁玉、染丸、清子喬之助、福団治、次郎、団之助、三木助、千橘、正光、枝鶴。

△松屋町松竹座 うさぎ、枝鶴、染三、塩鯛、幸治、小春団治、円馬、源朝、三木助、九里丸、文次郎、おもちや、扇枝、十郎、雁玉、染丸。

 と掛け持ちをしている。ただ、依然として落語の影響力が強かった当時、南地花月・北新地花月にあがるまでには、相応の時間がかかった。

 1931年6月中席、念願の南地花月に出演。くしくも嘗ての弟分・林田五郎と同席であった。

十日より

△南地花月 鶴二、小雀、升三、延若、小柳三、九里丸、蔵之助、十郎・雁玉、文治郎、五郎・雪江、伯龍、エンタツ・アチャコ、千橘、三亀松、春団治。

 以来、吉本の漫才の主力として活躍。エンタツ・アチャコに迫る人気を示した。この頃、吉本が漫才中心の興行体制に移行したこともあり、大々的に売り出されるところとなった。

 ずんぐりとしてドス声の雁玉とは対照的な姿形の対比で人気を集めたほか、ニワカや軽口の味を生かした「元役者」「スキ問答」「競キリン」などの新作に、いい味を示した。 

 秋田実・吉田留三郎といった作家や評論家とも仲が良く、彼らの作品を多く演じた。エンタツアチャコに並ぶ台本作家の隆盛を支えた陰の功労者といえよう。中でも吉田留三郎とは「吉田留」までが同姓同名だったため、よく間違えられる案件があったという。

 1936年6月12日、ラジオ『寄席中継』に出演。放送内容は、

1、僕のメイアン 河内家一春 浅田家キリン
2、夫婦の注文帳 花柳つばめ 横山円童
3、初夏行進曲 林家染団治 小川雅子
4、蚊學戦 林田十郎 芦の家雁玉

 1938年11月、第二回わらわし隊のメンバーに選出され、北支に派遣される。他のメンバーは、花月亭九里丸、鹿島洋々・深田繁子、満州日出丸。この顛末は早坂隆『わらわし隊の記録』に詳しいが、概要のみ記す。

 11月14日、大阪朝日新聞本社を訪ね、レストラン「アラスカ」で壮行会。翌日、大阪駅を出発。

 11月21日、塘沽に到着。ここまで偶然乗り合わせた水の江滝子一行と慰問会を行っている。以降、中国各地を巡演。

 12月19日、中支班などよりも早く到着。一足早く凱旋公演を行っている。

 帰国後も、吉本の大看板として君臨。エンタツアチャコ解散後の事実上のリーダーであった。新興演芸部の引き抜きには答えず、吉本に残留した。

 戦時中も相変わらず、大御所として花月劇場に出演。空襲の激化の中でも舞台を務めていたというのだからすごい。

 その傍らで戦地慰問や軍事慰問に出かけていた模様であるが、空襲の激化と物資の悪化に伴い、職場を失い、漫才もままならなくなる。結局、コンビ解消同然の姿となった。

 その後、事情は不明であるが、地方劇団に籍を置き、俳優をやっていたという。露の五郎兵衛『上方落語のはなし』によると、「大津の大黒座という劇場で旅回りの劇団に入ってる十郎を発見したときには、春団治、九里丸の二人は、ほんまにほっとしたと申します。」とある。零落していたのだろうか。

 1947年、松竹芸能に移籍(『アサヒグラフ』(1948年8月11日号)「漫才家告知板」)。松竹に参じ、雁玉とコンビを復活するものの、「吉本の借金を松竹が肩代わりする、その代わりに漫才は当分やらせない」という条件が付いたため、漫才ではなく喜劇で掛合をするという逃げ道を作った。

 浮世亭歌楽と共に「喜楽座」を結成し、地方巡業に出かけるようになった。この劇団は漫才と喜劇を兼ね合わせた団体で、人気はあったという。

 1948年4月、関西演芸協会設立に関与し、幹事に就任。会長は講談の旭堂南陵、副会長は五代目笑福亭松鶴。間もなく、南陵が辞任し、後を受け継いだ松鶴が死去。相方の雁玉が会長に就任。それに伴い、自身も副会長へと昇格した。

 1949年9月14日放送開始の、NHK『上方演芸会』の司会に抜擢され、雁玉と共に人気番組の名司会者として君臨。「いらっしゃいませ」「こんばんは」の、フレーズは当時の流行語となった。

 また、モッチャリとした掛け合いは、東京人にも好まれ、関西弁ブームの先駆けを作る所となった。

 長らく上方漫才界のドンとして、睨みを利かせ、大トリとして舞台を飾っていた。

 1958年5月下席、角座のこけら落としに出演。大トリを飾る。

 しかし、それからしばらくして、仕事先の和歌山県白浜で脳出血を起こし昏倒。一命をとりとめたものの、半身不随と言語障害が残ってしまい、漫才の道が閉ざされることとなる。

 相方に倒れられた雁玉は、1959年4月、都家文雄とコンビを組みなおし、同年9月、角座でお披露目をしている。

 1959年11月中席、角座で引退披露興行。元相方の雁玉、都家文雄が中心となって、弟子筋や人気漫才師(この時、浪花家市松と五条家松枝の新コンビが発表された)が登場して、華を添えたが、主役の十郎は遂に出演することはなかった。

 引退後は市井の人として暮らした。しかし、ウィキペディアなどを見ると、

 晩年身寄りもなく生活は困窮し中風になり2本の杖をついて角座などの楽屋に出入りしては後輩に奢って貰ったり、楽屋の差し入れを食べては生活を凌いでいた。

 と、恰も零落して乞食のような生活を送る事となった、と言わんばかりの記載になっているが、これは余りにも悪意のある書き方ではないだろうか。

 引退後、闘病生活を送っていたのは事実であるが、妻・子共に健在で、晩年は二人の孫に恵まれた。一体この零落は何処から出たのであろうか。不思議でたまらない。

 病気で苦しんだ、という点で考えれば不遇かもしれないが、『なにわ難波のかやくめし』の中で、

 その細い容姿からさいらとも呼ばれた林田十郎の晩年は不遇だったとも聞く。
 二人の孫を夫婦でかわいがる幸せな日々もあったようだが、足が弱り、床について二年ほどして、妻コシナさんと嫁悦子さんにみとられ、松原市の自宅で昭和四十二年三月二十四日午前十時三十分永眠、享年六十八歳。
 釋 良信  
 四年後、妻コシナさんも悦子さんに世話をかけながら八十歳で老衰のため逝去。
「ふたりとも静かな人生を最後に送られました。わたしは林田十郎という漫才師ではないふつうのおじいちゃんとつき合ったとおもいます」と、位はいの前で焼子さんは静かに語った。

 と、遺族が語っているのを見ると、本当に不遇だったのだろうか。

 身体が不自由だったのは、不遇だったのかもしれないが、嫁と孫に恵まれ、最期は妻に看取られる――人間・吉田留吉としては満足な死ではなかっただろうか。

 少なくともWikipediaの書き方は、林田十郎の晩年や遺族の苦労を無碍にするものであり、決していい書き方ではない、と批判する次第である。

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