三遊亭川柳

三遊亭川柳

三遊亭川柳

三遊亭川柳(左)一輪亭花蝶

 人 物

 三遊亭さんゆうてい 川柳せんりゅう
 ・本 名 ??
 ・生没年 1900年代?~1943年頃?
 ・出身地 大阪

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。一輪亭花蝶とコンビを組み、「川柳・花蝶」で売れに売れた。独特の話術を持ち味とし、エンタツアチャコとはまた違った味わいを見せたが、惜しくも太平洋戦争で応召され、戦死したという。

 なお、一部書籍の中に「兄弟漫才」と記されることがあるが、これは桂米朝が『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、「花蝶・川柳というコンビ。兄弟漫才やってンけどね」と発言し、これを出典としているものである。

 しかし、これはどうも事実誤認のようであり、一口に言えば「フェイク」である。兄弟と明確に記した資料を管理人は目にした事がない。本名が分れば、また別かもしれないが、然し川柳生前時の記事や秋田実の書籍などには一言も「兄弟」とは出てこない。

 戦前に死んだこともあって、資料が少なく、前歴にも謎が多く残るが、元々は三笑亭柳枝の弟子だったという。この柳枝という人は、セミプロ的な芸人で主に神戸を拠点に活躍した。師匠を持たぬせいか、噺家たちからはひどく嫌われたそうであるが、懐が広い人だったらしく、多くのセミプロを抱えたという。三遊亭円子の元にも出入りしたらしいが、よくわかっていない。

 長沖一が『上方笑芸見聞録』の中で、「大阪出身で落語家を志し三遊亭柳枝の弟子になったがウダツがあがらず漫才になったという。もちろん、この柳枝は漫才の柳枝ではない。」と書いている程度か。

 後年、柳枝を継いだ漫才師「三遊亭柳枝」の門下へ移り、「三遊亭川柳」を名乗る。ただ、弟子ではなく身内という記載もある。

 1934年9月5日の『読売新聞』の放送欄に、「◇三遊亭川柳さんは大阪生れで中年から三遊亭柳枝の弟子となり京阪神を廻つてゐたが三年前から吉本専属となり最近人気が出て来た新進」とある。三遊亭川柳になったのは遅かった模様であるが、その一方で、『ヨシモト』(1935年9月号)には、

○川柳は大阪の生れ、三遊亭柳枝の身内。漫才の舞臺は既に十年を経てゐる。

 とあるのがややこしい。大正年間からやっていたのだろうか。

 『サンデー毎日』(1936年10月25日号)掲載の『笑ひの人国記H』の中に、花蝶ともども漫才転向の逸話が書いてある。

 三遊亭川柳と一輪亭花蝶のコンビももう四年になつてゐる。 川柳はその名の通りに、大阪で生れて落語家として立つつもりで、三遊亭柳枝の弟子になつて見たが、落語ではどうにも飯が食へない。そこで、覚悟をきめて吉本の万才に落ちて行つたが、底まで落ちると浮び上るもんだすなアといつてゐる通り、なるほどちやんと自分のものをつくつてしまつた。 同じように花蝶も落語家出身で、一輪亭花咲の門人、京都は西陣の生れで、六年間落語に精進したが、中入り前にもなれないので、とう/\意を決して七年前、万才に転向してしまつた。それだけにこの二人のコンビは、仲々気が合つてゐる。

 『上方落語史料集成』などを見ると、一番古いそれは1929年1月13日に『京城日報』から出された広告の中に、

◇浪花館/迎える春の大興行は大阪より男女合同若手花形揃大一座 元日より花々しく 午後四時開幕/御祝儀(宝の入船)落語(桂福丸)落語音曲(橘ノ楽天坊)落語手踊(柳家こはん)浪花落語(笑福亭松二)東京落語(橘家小田喬)滑稽萬歳(三遊亭川柳、三遊亭□仙)落語舞踊(柳亭燕路)小女浪曲(吉田小美子)十八人芸(柳家語楽)浪花節(三升屋一俵)音曲萬歳(橘家太一郎 同チャボ子)講談(邑井貞吉)大切座員総出珍芸づくし

 この時には既に一枚看板だったところを見ると、それ以前からやっていたのは明確であろう。どうも三遊亭柳枝について、神戸千代之座を拠点に京阪神の端席や小屋を巡っていたようであるが、この頃の公演記録は少なく、資料も少ないため、何とも言えない。

 しかし、師匠の柳枝ともども人気漫才師になったことから、吉本よりスカウトを受け、1931年、吉本の専属となる。

◇三遊亭川柳さんは大阪生れで中年から三遊亭柳枝の弟子となり京阪神を廻つてゐたが三年前から吉本専属となり最近人気が出て来た新進

◇一輪亭花蝶さんは京都生れ掛合噺の一輪亭花咲の門に入り落語を修業したが五年前万歳に転向川柳と組んで賣り出してゐる

 と、紹介されている。

 1932年に三遊亭川柳とコンビを結成。早くから吉本に注目されて、重宝されたと見えて、1933年1月には早くも、

△玉造三光舘 中野レヴユー団、ラツパ・日左丸、延若、鶴江・房春、吉花菱女連の舞踊、八千代・千代八、正光、小円馬、夢路・夢若、亀鶴、円若他万歳幹部にて昼夜開演。

△福島花月 玉枝・成三郎、蔵之助、〆の家ジヤズ連、日廼出家連、小円馬、ラツパ・日左丸、柳好、千枝里・染丸、馬生、花蝶・川柳、小文治、扇遊、文治郎、一春・団之助、若枝等花月幹部連の出演。

 の2館を掛け持ちしている。秋田実が「新進気鋭」と回顧している記事があるが、早くから実力派の若手として目されたのは事実であろう。

 その後は主に京都富貴や福島花月を中心に出演。見る見るうちに頭角を現し、1934年1月には、吉本自慢の檜舞台であった「南地花月」への出演を許されている。

二十一日より

△南地花月 花蝶・川柳、久菊・奴、八千代・千代八、エンタツ・アチヤコ、静代・文男、エロ子・キング、十郎・雁玉、雪江・五郎、菊春・太郎、次郎・志乃武、結城孫三郎一座、石田一松、一郎等

 コンビ結成2年足らずでコレだけの事を成し遂げたのは、吉本の漫才路線経営や漫才ブームだけでなし、当人たちの実力もあった事であろう。

 とにかく川柳の仏頂面で怒るように放たれるボケと、花蝶のヌーボーとした受け答えが実に見事だったそうで、秋田実は『秋田實名作漫才選集2』の解説の中で、

 花蝶・川柳は、昭和十年前後しゃべくり漫才が隆盛に向いつつあった時、たちまちのうちに評判になっていった新進コンビである。その主たる原因は、しゃべり合う言葉のテンポの早さと、もう一つはネタの内容であった。
 言葉の遊びともいうべき色々の種類の滑稽問答やインチキ問答を、どんどんまとめて舞台のネタにし、それをコンビの特徴としたのである。そのネタを、今でも東西の若いコンビや漫才以外の人達も、知ってか知らずか、たくさん使っている。
 そうした色々の問答のネタを、このコンビは互いに速射的に連発した。その畳み込んで行くテンポの早さが独特のものであった。
 殊に、川柳という人は、いつも怒ったような仏頂面で、言葉をぶっつけるような しゃべり方で、それが何とも言えない味を醸し出していた。
 が、そんな問答風のネタが多かっただけに、いつも放送の時には、その題名の附け方には弱った。
 このコンビのそうした色々のインチキ問答だけは、ネタが分っていても、何度聞いても面白かった。川柳のいつも不機嫌なようなぶっきら棒のしゃべり方が、とても面白かったのである。

 と、回顧しており、また長沖一も『上方笑芸見聞録』の中で、

 相手の川柳は、同じ文章によると、大阪出身で落語家を志し三遊亭柳枝の弟子になったがウダツがあがらず漫才になったという。もちろん、この柳枝は漫才の柳枝ではない。川柳のボケには、じつにいい味があったことは、彼を知る人が、すべて、惜しんでいる。が、戦死してしまった。 昔の大工か左官といった職人ふうの、ぶっきらぼうで朴訥な味は他の漫才には類を見ない独特な味があり風格があった。まったく惜しい人だった。

 と、賞賛している。

 以来、常連のように南地花月に出演。同年4月には、同じく檜舞台であった北新地花月にも出演を許され、漫才界の大型新人として注目された。

 1934年9月5日、午後8時20分より、NHKでオンエアされた「大阪寄席中継」に出演。出演者と演題は、

浮世亭出羽助・八条竹幸『珍和洋合奏』
花蝶・川柳『歌は上手』
林田五郎・柳家雪江『伊那節変奏曲』
エンタツ・アチャコ『君は軍人か』

 以来、人気漫才師として何度も放送に出演。また同時期に、レコード吹込みも行っており、『金の世の中』『馬が西向きゃ』『元は浪曲師』などは人気盤となった。今日でも時折見かけるほか、国会図書館で聞くことができる。

 長らく吉本の大看板として君臨していたが、1938年5月、召集令が届き、コンビを解消。南支戦線へと

 今は、勝美・花蝶のコンビで活躍している花蝶さんは、そのころは花蝶・川柳のコンビで吉本興業で一番売り出しの新進漫才であったが、ある夜の法善寺の花月の舞台で、そうした事変と応召のネタでお客を笑わした末に、
「では、あす、行って参ります」
 そういって、敬礼と一緒に川柳さんがあいさつしたので、お客の方が面食らったのである。どこまでが本当でどこまでが漫才か、そのケジメがつかなかったのである。が、本当で、川柳さんはお客の拍手に送られて舞台から応召して行ったのである。

 しかし、応召の時に手違いがあったらしく、補充兵応召がなぜか砲兵隊に回されるトラブルが発生。当然、使い物になる筈もなく、3か月で他の戦地に回されたというのだからいい加減な噺である。

 然し、当の川柳からすれば、凄まじくキツイ事件だったらしく、これまでの舞台では見られることのなかった愛想笑いや言い回しが出てくるようになったという。相当、しごかれたのであろう。

 その辺りの事情を、秋田実が『大阪笑話史』の中に記している。

 が、川柳さんは、補充兵の輪重輸卒であったが、どういう間違いか砲兵隊に編入されてしまい、川柳さんも川柳さんだが、そのまま黙ってのんきに上海までのこのこ行ったのであるが、さて戦線に参加してみると、事ごとに川柳さんのようすがおかしい。そのあげく、間違いであることが判明し、今さらどうにもできないので、砲兵隊の方では理由をかまえて川柳さんを三月あまりで内地に帰したのである。川柳さんは応召するまでの舞台は、いつも仏頂面の怒ったようなしゃべり方が特徴で、それが花蝶・川柳の漫才の大きな魅力であったが、帰ってからの川柳さんは、間違い入隊の間に苦労したのであろう、舞台であいそ笑いの愛嬌のあるしゃべり方をするようになって、その当座の漫才は見ていて妙なぐあいであった。

 1940年6月、川柳が兵役満期に伴い、帰国。同月21日より、南地花月に出演している。以下はその顔触れである。

△南地花月 巴家おもちゃ、光晴・枝雀、桂文治郎、幸児・静児、川柳・花蝶、林芳男、正二郎・洋々、出羽助・竹幸、花月亭九里丸、桂三木助、雁玉・十郎、アダチ龍光、市松・芳子、桂春団治、五郎・雪江、今男・アチャコ。

 すぐさま人気コンビの復活と川柳の凱旋を兼ねて、再び檜舞台へ上がるようになる。

 コンビ再結成後間もない8月、久方ぶりにラジオ出演。『読売新聞』(1940年8月7日号)のラジオ欄に、

吉本興業の中堅漫才として将来を嘱望されてゐた三遊亭川柳は一昨年應召して南支戦線に活躍し先頃無事帰還、再び先の名コムビ一輪亭花蝶と組んで人気を博してゐるが今夜はコンビ復活後初の放送である

 と紹介されている。

 その後も相変わらず第一線で活躍し、吉本の主砲として新興演芸部系の漫才師と鎬を削り合ったが、1941年12月、太平洋戦争が勃発。多くの劇場や芸人が閉鎖、出征を命じられる中で、川柳にもまた召集令が届く。

 1941年冬~1942年1月ごろに、出征し、花蝶とコンビを解散。戦線へと赴いていった。花蝶は千歳家歳男とコンビを組みなおし、相方の帰りを待ったが、それは夢と終った。

 再び檜舞台の上に立つことを夢見たようである、戦争という無惨な歴史の中で、一人の兵隊として命を散らす事となった。没年は不明。戦死者名簿を見ればわからなくもなさそうだが、目下それをやる時間はない。

 生きていれば、戦後も上方漫才を率いたであろう傑物の一人であった。 

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