浮世わたる・とおる

浮世わたる・とおる

浮世わたる・とおる(右)

人 物

 人 物

 浮世うきよ わたる 
 ・本 名 八木 信夫
 ・生没年 1937年1月12日~ご健在?
 ・出身地 
大阪府 東大阪市

 浮世うきよ とおる 
 ・本 名 松岡 俊通
 ・生没年 1937年11月4日~2006年2月28日
 ・出身地 徳島県 上板町

来 歴

 浮世わたる・とおるは戦後活躍した漫才師。浮世わたるは浮世亭歌楽門下の古株漫才師で、とおるは、筑波武蔵門下の浪曲師出身。わたるは後年山崎正三門下に戻り、「山崎正伍」と改名。とおるは浪曲界へ戻り、「二代目筑波武蔵」を襲名。上方浪曲界の大御所として奮闘を続けた。

わたるの前歴

 ただ、昭和末まで活躍していたおかげで、『日本演芸家名鑑』『上方演芸人名鑑』に記録が残っている。以下は『上方演芸人名鑑』の記載の引用。

 浮世わたる うきよわたる【音楽ショウ】 
 本名八木信夫。一九三七(昭十二~)
 大阪市立東商業高卒。浮世亭歌楽に入門。昭三三年千日劇場が初舞台。はじめ浪花のぼるの名でデビュー。後に浮世わたるとウキウキシャンセ、浮世わたるショウ、それに浮世とおるとコンビのツーバブルスなどを経験。夢乃ダウンの名で中田アップとコンビを組んだが廃業した。

 大阪市立東商業高校卒業後、山崎正三に入門。新人として活動していたが、1957年に浮世亭歌楽門下に移籍。移籍した事情は不明。また『上方演芸人名鑑』では移籍した旨が書かれていない。

 1958年、「浪花のぼる」の名前で、千日劇場で初デビュー。

『笑根系図』によると、「浮世亭らく平」と名乗っていた模様。師匠同様に、千日劇場などに出るようになる。

 後年、独立して、「浮世わたる」と改名。兄弟弟子の「喜多みちを」(元・橘家円二郎)とコンビを組み、「わたる・みちを」。

 また、一時期「浮世わたるとウキウキシャンセ」というコンビ名でもやっていたそうである。

 ただ、この頃の事情はよく判らない。当時の千日劇場番組表を見ればわからなくもなさそうであるが――

 その後、松竹芸能へ移籍して、音楽ショー「浮世わたるショウ」を結成。角座、浪花座、新世界花月などの松竹系の劇場を中心に活躍。メンバーの変遷もあったようだが、「浮世わたる・いきる」「浮世わたる・とおる」という感じに一対になっているのが特徴であった。

 1970年、浪曲界から流れてきた伊丹秀若を誘い、「ツーバブルス」なる音曲漫才コンビを結成。

とおるの前歴

 とおるは浪曲師、二代目筑波武蔵として知られている。 その経歴は『東西浪曲家大名鑑』に詳しい。  

 出身は徳島県板野郡上枝町。九人兄弟の三男で、父は学校教師であったという。なお、長らく年齢のサバを読んでいたらしく「昭和十九年生れ」と資料があったりする。是が困りものである。

 父親は浪曲が好きで、親につれられ浪曲通い。そのうち、節真似や浪曲を行うようになる。

 また、『日本演芸家名鑑』を見ると、「昭和十六年、浄瑠璃の師に入門」とある。  

 徳島は阿波人形浄瑠璃のふるさと。浪曲師になるべく声鳴らしをしていたとみるべきか。

 1947年、この頃はじまったのど自慢大会に出演し、浪曲で合格。キングレコードに吹き込みをしたらしいが詳細不明。 1954年に「浪曲まくら係」なる演芸レコードを吹き込んだらしいが……?

 12歳の時、八千代座へ来た初代筑波武蔵に弟子入りを志願するも「学校を出てから」と言われ断られている。ただ、当人は『日本演芸家名鑑』で弟子入りしたことにしている。  

 八千代座へ来演する浪曲師に弟子入りを志願するも、断られ続け、最終的に伊丹秀子を拝み倒し、入門。「伊丹秀若」(秀一とも)と名乗り、「五郎正宗孝子伝」を読んで、初舞台を踏む。東家燕楽(燕大丞)の一座に入り、前読みとして芸を磨いた。

 1953年、音楽家の寺内ひさしに入門( 『日本演芸家名鑑』 )。この辺、芝清之の書き取りと齟齬があり、キツい。 20歳の時、駒形次郎なる作曲家について、音楽を取得。しかし、上とズレがある。山内ひさしが師匠なのではないだろうか。

 さらに人形町の東京綜合芸能学校にも通って洋楽を取得した。 卒業後、駒形次郎の紹介でわかの浦孤舟の一座に入り、やはり前読みとして全国を回った。

 孤舟の看板もあって、全国を巡ることができたが浪曲不信もあって漫才ヘの転向を志す。

 1970年、浮世わたるとコンビを組んで「ツーバブルス」。音曲を生かした浪曲漫才で人気を集めたが、1971年、二人の行き違いのためにコンビを解消。

わたるのその後

 1971年、とおると別れたわたるは「夢乃ダウン」と改名し、中田ダイマル・ラケット門下の「中田アップ」とコンビを結成。「アップ・ダウン」コンビとなったが、翌年解消。『上方演芸人名鑑』では「廃業」とあるが、実際は、山崎正三門下に戻った模様。足を洗ったわけではない。

 山崎正三門下へ復帰後、山崎正伍と改名。三味線や楽器を抱えた「放談」と称した漫談や「ノンキ節」を演じるピン芸人となった。

 後年、関西芸能親和協会に入会。

 師匠の山崎正三に従ってか、刑務所慰問や病院慰問など奉仕活動に力を入れ、多くの表彰や感謝状が贈られたという。

 浮世わたる時代の派手さこそないものの、こうした地道な活躍でコツコツとキャリアを重ねていたという。

 平成初頭まで活躍が確認できるが、後年廃業した模様か。年齢的にはまだ健在の可能性も高い。何とも言えない。

とおる(筑波武蔵)のその後

 1971年、二代目日吉川秋斎の口利きで、初代筑波武蔵の門下に移る。「筑波武志」を名乗り、浪曲界へ復帰。

 師匠の武蔵が、洋楽や琴を入れた前衛的な浪曲をやっていた事に刺激され、曲師もテーブルも廃し、エレキギターを抱えて物語を紡ぐ、ミュージシャン調の浪曲を展開。独自の路線で観客の度肝を抜く事となる。

 1973年2月16日、二代目筑波武蔵を襲名。大阪朝日座、京都南座、東京三越劇場で襲名披露を行った。

 1975年、ビクターレコードより『祐天吉松 品川の夜嵐・筑紫明石町』を吹き込み。

 1976年、 ビクターレコードより 『現代浪曲 道頓堀夜話・上州狸報恩譚』を吹き込み。

 1977年7月30日、南座の浪曲大会で師匠・初代筑波武蔵が引退。以来、正式な二代目として、東西を股にかける活躍を続ける事となる。

 元来、器用な人だけにギターに留まらず、ドラムやピアノもアコーディオンも行けた才人。こうした楽器を生かした浪曲の模索もした。

 一方で、折角新しい楽曲や舞台を展開しながら、読む演題が「安中草三」や「祐天吉松」など古典で、ちぐはぐな印象を与えている――と『東西浪曲家大名鑑』の中で叱咤激励を受けている。

 こうした浪曲の伝統と表現の限界に、筑波武蔵の哀しみや限界があったようである。それでも「つくば・むさし」名義で新作台本を書いたり、シェイクスピアを浪曲にしたり、とアグレッシブなチャレンジ精神は死ぬまで失われる事はなかった。

 1984年の国立文楽劇場開場後は、同劇場に出演。ホームグラウンドのように活躍していた。同劇場への記録は、国立文楽劇場の公演記録で見る事が出来る

 また、面倒見のいい性格から、長らく評議委員に任命され、芸団協担当の幹事として事務や便宜を取っていた。

 1991年、人事改正に伴い理事に就任。

 平成以降は、三味線一本の古風な浪曲に戻り、大林静子や師匠譲りの『左甚五郎』などをユーモアたっぷりに演じて居た。

 2005年5月10日、長年の功績と活動が評価され「大阪文化功労賞」を受賞。国立文楽劇場の出番を抜けて、表彰式に列席。太田知事より表彰状と記念品が手渡された。

 この受賞の辺りから既に病気を患っており、闘病をしながら出演を続ける事となる。

 受賞から1年足らずの2006年2月28日、リンパ腫のために東大阪市内の病院で死去。68歳というのだから若い。翌1日、妻が喪主となって告別式と葬儀が催された。

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