浮世亭夢路

浮世亭夢路

在りし日の夢若・夢路(右)

 人 物

 浮世亭うきよてい 夢路ゆめじ

 ・本 名 ??
 ・生没年 1906年頃~1935年9月13日
 ・出身地 北国?

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。浮世亭夢丸の秘蔵弟子であり、戦後の上方漫才を率いた浮世亭夢若の最初の相方でもある。大柄で飄逸な味を持っていたというが、丹毒に罹患し、29歳という若さで夭折した。

 当時の漫才事情(下に見られていて、記録が作られなかったこと)と夭折の為に多くの資料は残っていないが、幸い『ヨシモト』(1935年10月号)に掲載された『浮世亭夢路を偲ぶ座談会』で、ある程度の略歴や人柄を知ることができる。

 詳しい前歴は謎に包まれているが、生まれは北国で入門当初は訛りが強かったそうである。夢丸が、「夢丸 北國生れだつたので、その方言を取り去るためには、並み/\ならぬ苦心をしてゐましたよ。側ら見て 可愛いそさななほど。」と語っている。

 これが長い間のハンディキャップとなり、猛烈な修行と訓練を経て、漫才の言葉を覚えたというのだから大したもの。

 幼い頃に両親を失ったらしく、上記座談会の中で、師匠の夢丸が、

「夢丸 それも兩親に早く別れて親味の愛にうへてゐたからだらうな。 」

 と語っているのが気になる。

 それから間もなく、「小天長」なる奇術師に入門したそうであるが、早くも見切りをつけることになった。この師匠は不明。名前的には「松旭斎」があり得そうであるが、当時の奇術界には「天長斎天長」のような人物もいた。ただ、そこまで大看板の奇術師の弟子ではなかった事だけははっきりしている。

 18、9歳の頃、広島は呉に巡業へ来た浮世亭夢丸に弟子入りを申し込み、漫才師に転向。この事を浮世亭夢丸は、

夢丸 いえ、大体は、小天長といふ手品師の弟子だったのですが、其の道を嫌って、私が吳へ巡業に行った時に弟子入りして來たのですよ。十年餘り以前にね。

 と回顧している。それから「浮世亭夢路」の名を貰い、漫才師の修業を始める。前述の通り、訛りの矯正や漫才のテンポなど、がむしゃらになって覚えたという。

 1926年頃、召集令が届き、麻布三聯隊に入隊。入営の際、浮世亭夢丸が親代理としてわざわざ上京し、見送ったというのだから、美しい師弟愛である。

記者 夢丸さんの許へは、幾歳位の時に弟子入りされたのです。
歌樂 師匠の所から、入営したのですから十八九の頃でしたね。
夢丸 そんなものだったでせうね。北の花月と三友へ出てみた出番を十日休んで、親代りとなって、東京の麻布三聯隊へ入営するのを、わざ/\見送りに行ってやりましたよ。

 と、座談会にある。麻布三聯隊は古くからの名門部隊であり、軍事教官には昭和天皇の弟、秩父宮も在籍していた。また、夢路の入営前後に麻布三聯隊に赴任、指揮を執っていたのが、二二六事件の首謀者の一人、安藤輝三であった。

 良くも悪くも数年後に起こる昭和の大激動の人物たちにもまれて、兵役生活を送った模様である。

 この兵隊生活時代に、秩父宮や高官の前で漫才を披露するという僥倖に恵まれたという。座談会によると、

歌樂 兵隊と言へば、入営中、何にかの餘興の時に秩父宮様の御前で、漫才をやつたのを身に餘る光榮だとしてゐましたね。
夢丸 そうだったな。高貴の御方様の御前で漫才を演じたのは、自分が日本で一番最初だと非道く興奮した手紙を寄して來ましたよ。

 との事である。当時、秩父宮は麻布三聯隊に所属していたので可能性としては高い。

 士官学校上がりではない夢路は任期満了に伴い、除隊。大阪へと戻り、漫才を続投する。

 1930年頃、浮世亭夢若とコンビを結成し、「夢若・夢路」となる。小柄でせかせかしゃべる夢若と、大柄でヌーボーとした夢路のコントラストで注目を浴びるようになった。

 1933年頃、結成された漫才研究会のメンバーに選ばれ、若手の注目株として頭角を現すようになる。この頃から、吉本の寄席や劇場に積極的に進出。

 1934年には、長年の夢であった花月に出演し、ラジオ放送や東京遠征などにも参加をしたが、間もなく体調の異変が出始めるようになる。

 当初は、何気ない顔の吹き出物が病の前兆であったという。座談会によると、

記者 病氣は、長くはなかったのにねえ。
歌樂 東京から戻つて来て、顔に小さい吹出物の様なものが出來て、余り痛みが激しいので附近の醫者に見てもらってビック膏を張ってましたよ 最初は、
夢丸 伴し、顔の出来物だから面疔ぢやないかと××診療所へ行った所、冷し薬で散せと言はれてその通りし てみましたがね益々痛みが激しくなるばかりですよ。
菊丸 出来物は頬に出来てゐるのに、しきりに腰が痛いといふので、好え加減な事を云ふなと怒鳴りましたがそのときはもう丹毒が、身体中に廻つていたのを、本人も私らも氣付かなかったのだな。

 ある意味では誤診されたともいえよう。その後も激痛や体の異変と戦いながら、相変わらず寄席に出演をつづけていた。皮肉なことに、死ぬ年になる1935年は彼らの当たり年で、名門劇場への参加を認められた年でもあった。

 満身創痍の中で評価ばかり高まる現象を、夢路はどう受け止めたのであろうか。

 8月21日から10日間打たれた名門劇場「北新地花月」の公演をお名残に入院。もうその時には丹毒が全身に回っていたという。『上方落語史料集成』を見ると、

 △北新地花月倶楽部 おもちや、光月・藤男、扇遊、庫吉・芳奴、馬生、夢若・夢路、円枝、とり三・なり駒、円若、九里丸、雁玉・十郎、三木助、一光、神田ろ山。

 なお、その人気からか、9月21日から始まる「天満花月」の興行に名前が入っていた。以下はその番組。

 △天満花月 新昇、おもちや、源若・次郎、一光、菊丸・照子、円枝、扇遊、市松・芳子、松鶴、夢若・夢路、正光、文治郎、昭六・英一、呉成錬・松子、千橘、水月・朝江。

 しかし、これは幻の出演表になった模様。まさか死ぬとはだれも思っていなかったであろう。

 8月興行から間もなくして倒れ、夢丸たちの援助で大阪赤十字病院に担ぎ込まれる。最善の治療を施されたものの、当時の医療では全身に回った丹毒を治すだけの技量はなかった。

 死ぬまでの10日間は、悶絶の日々だったらしく、 

夢丸 九月三日に大阪の赤十字病院へ入院した時は、もう手遅れでした。それから苦しみ通して十三日の午後四時過ぎに往生したのです。
記者 一時は、小康を得たといふので喜んでみたんだがー。
出羽助 そうですよ、死ぬ前日なんかは、粥が食られたと神戸の多聞座の樂屋で開かされた時は、嬉しさが込み上げて来て、嬉し涙が多く出て来ました。
歌樂 便所へも、歩いて行ったそうですよ。
菊丸 でも豫感があつたと云ふのか、 細君に、今後の身の振り方を言ひふくめてゐたよ。ひどく悪くならぬ間からな。

 と生々しく語られている。

 1935年9月13日、容態が急変。臨終を宣告される。その臨終には、師匠の夢丸や砂川菊丸が駆け付け、これを看取ったという。出羽助・竹幸は仕事で間に合わず、大きな後悔を残す事となった。臨終の床で、苦しい息を吐きながら、菊丸の手を握り、

「吉本の御主人に一言御礼述べられないのが心残りだ」

 と、いったという。菊丸は、涙ながらに「こんな感心な心がけのものは藝人としては、珍らしいよ。」と思ったそうである。

 それを遺言に29歳の若さで夭折。この死は大きな損失であったと同時に、浮世亭夢若が松鶴家光晴と出会うきっかけを作る、一種のターニングポイントとなった。

 その死を聞いた夢若は、『ヨシモト』(1935年10月号)のなかで「亡き夢路を憶ふ」なる追悼文を発表している。

 亡き夢路を憶ふ 浮世亭夢若

 秋は寂しいです。
 “天高く馬肥ゆ”と皆様には颯爽たる秋かは存ぜませぬが、共に舞臺に上つてゐた浮世亭夢路を失った私にとっては、朝夕肌身に感ずる初秋の冷氣にさへ、そゞろ、人生の寂寞を感じ、只一人仰ぐ名月に、耐らなく、感傷的な心になつてしまふのです。
 共に舞臺を踏んで丁度五ケ年、後輩である私を生かすために、如何に犠牲を拂つてくれた夢路だつたでせう。それを思へば、恐らく今後に、彼夢路の如き良き相棒を見出す事は不可能かとさえ思はれます。
 皆様の御援助の賜物で、吉本漫才研究會に撰抜され、今後、その御期待に酬ゆるべく緊褌一番と固く手を握り合つたのも今は果敢なき思ひ出となつてしまいました。
 亡き夢路君よ。今後は、僕は君と二人分の勉強をして、皆様に酬やうとしてゐる、草葉の陰から、微力の僕のために、生きてゐた時と同様に力を籍しておくれよ。

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