立美三好

立美三好

 三好・末子時代

28才の三好

 人 物

 立美たつみ 三好さんこう
 ・本 名 森川 三次
 ・生没年 1898年頃~1956年頃?
 ・出身地 大阪?

 来 歴 

 戦前戦後活躍した漫才師。東京漫才の幹部として活躍した立見二郎は実の弟、らしい。『内外タイムス』(1952年10月25日号)掲載の室町京之介『漫才千夜一夜』の中に「荒川鶴春、ボテ二と辰見三好(辰見二郎の兄)」とある。信憑性は不明。

 澤田隆治氏所蔵の『関西演芸協会』の名簿の写しでは、本名「森川三次」。

 前歴等も謎が多いが、元は中村種春の弟子だったらしく、『読売新聞』(1935年12月15日号)に、

立美三好は中村種春の弟子の古顔だが最近賣出して来て、十八から漫才界に入つた女房の末子と懸命に勤め大頭株に肉薄しつゝある

 震災以前にはもう看板だったらしく、中村種春と共に安来節一座に混じって上京している様子が確認できる。

 1922年には落語睦会に所属し、「滑稽掛合」という看板で寄席に出演するようになっている。やっている事は上方味の強い上方漫才だったようだが、漫才啓蒙の一員として大いに気を吐いた模様。

 1923年の関東大震災で一度帰阪するものの、中村種春に誘われる形で再び上京した。『都新聞』(1924年8月30日号)の広告に、

▲帝京座 今回より安来節の花形大津検番の花奴が出演する他関西万歳、玉子や、源丸、立美、三好も加入

とある所から、相当の売れっ子だった模様である。因みにここでトリをとっていた大津検番の花奴も後年漫才師となり、東京漫才の幹部格として売れに売れた

1926年1月より、上海、満洲、台湾を巡業したらしく、『日刊ラヂオ新聞』(1926年6月8日号)に「先達つて、約五ヶ月ばかり、上海、満州、台湾を巡業して参りました當時上海は戦争で大変な時に行きましたが、非常に喜ばれました。」とある。

 1926年6月8日、JOAKに出演、相方の中村種春と共に『俚謡雑曲 諸国音頭づくし』を披露。中村種春、立美三好、中村なたねが唄方、中村種二がお囃子である。

『日刊ラヂオ新聞』(1926年6月8日号)の中に「種春さんの相棒をつとめる立美三好さんは廿八歳の男盛り、種春さんの一座になくてはならぬ人で」とあり、「尚此の十五日から暫く北海道を巡業する予定です」とある。生年はここから逆算した。

 上記の通り、放送後に北海道巡業へと出かけたが、例年より早い寒波や御難でなかなかひどい目にあった模様である。

 その後、中村種春としばらく続けていたようであるが、コンビ別れをし、亀次(亭号不明)なる人物とコンビを結成した模様。『都新聞』(1931年6月16日号)の中に、

▲神田喜楽 十六日より四日間萬歳諸演藝大會 出演
小源太、百々龍、喜楽、幸三郎、菊丸、久好、仁博友、静子、九津夫、正二郎、三好、亀次、小唄レビュウ東家美人連

 とある。東西を行き来していた模様か。その割には謎が多い。

 その後、大阪へと戻り、吉本興業へと入社。立美末子(妻であったという)とコンビを組んで、吉本系の劇場に進出。この頃には、完全なしゃべくり漫才になっていた模様。

 1933年1月頃より、吉本の主要劇場に出演するようになる。

 当時の人気はなかなか良かったらしく、吉本が戦前出していた会報雑誌『ヨシモト』に『散歩のお供』(1935年10月号)、『空襲綺譚』(11月号)、『三好の艶聞』(1936年1月号)、『月給は安い』(9月号)、『夜遊精勤』(1937年4月号)、『産児制限』(7月号)などの速記がでている他、ヌーボーとして頭が大きい所から、それを揶揄するようなイラストや漫画も度々掲載されている。一種の名物人間のような形で愛されたのであろう。

 この中の一部(『月給は安い』『非常時細君』『あべこべ挨拶』)はレコード化され、今日でも聞くことが出来る。去る人から、音源を聞かせてもらったことがあるが、三好がとにかくボォっとしていて、末子がきびきびと突っ込む漫才であった――と記憶する。

 1934年9月16日、JOAK・BK合同の「笑ひの午後」に出演。漫才「大きな話」を披露している。出演は曾我廼家五郎一座、アダチ龍光の物真似など。

 1935年12月15日、JOBKの南地花月の生中継に出演。「ご挨拶ですネ」を披露している。出演は秋山左楽・右楽、三遊亭柳枝・花柳一駒、林田五郎・柳家雪江。

 また、古くから漫才をやっていた事もあり、古い漫才や芸もよく知っていたらしく、『近代歌舞伎年表京都篇 九巻』に以下のような面白い公演に出ている様子が確認できたので引用する。

十一月(二十一)日〜 昼夜二回開演 京都花月劇場 

〈まんざい祭〉 キングシヨウ 新喜劇陽気な一座 裴亀子楽劇団 吉本特輯演芸

【1】新喜劇 貴方とお月様 三転
【2】新作朝鮮舞踊曲 八曲 裴亀子楽劇団
【3】まんざい系図 まんざい祭り 五景

【番組】司会者(九里丸) 
一、御殿万歳「東京万蔵」太夫(千代八)右大臣(雁玉) 左大臣(三好) 官女(末子・花子・八千代・末子)
一、今日の漫才(ワカナ・一郎)
一、昔ながらの万歳(千代八・市松) 
一、三曲万歳 おかる(アチャコ)勘平(雁玉・十郎昼夜交代出演)伴内(九里丸)  三味線(芳子・八千代・ワカナ・ 末子)胡弓(八千代・市松)鼓(末子・花子・三好)ほか

キングショウ マドロス動員令 全三部

(映 画)

【典拠】「京都日出新聞」11・21広告、22、「京都日日新聞」11・28。 
【備考】●「花月劇場の二十一日からの新出番に中川三郎ハタアス公演に替 るアトラクシヨンとして吉本幹部の「まんざい祭」を出す。その内容は、“万歳”から“漫才”への発展過程を時代的に特集した今昔笑ひのヴアラエティで絢爛豪華な御殿調から、珍配役笑演の三曲、舞台等古典的、現代的、色とり/\の漫才の沿革史で、時代と共に進んだ即興芸術の足跡を振り返ると同時に、今日以後の漫才演出の方向をも見せる極彩版である。」

 戦時中、燕という人物とコンビを組んでいた。

 さらに、相方と別れた桜川末子とコンビを結成。これで戦後までやっていた。また一時期は、相方に戦死された一輪亭花蝶ともやっていたらしく、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中にも、

 米朝 (註・桜川)末子はんは江州音頭です。だいたい明治の中ごろに江州音頭から河内音頭が出てきたというのはこれは定説です。末子はんのお父ッつあんというのはね、江州音頭の幾つかある家元のひとりなんや。末子はんは段ものを長々と知っていた。盆踊りにもよく頼まれて行っていた。末子・花子というコンビは、もう大人気で、戦前の吉本を儲けさしたンは末子じゃというぐらいでな。戦争中には立美三好さんという人とやってたけどな。三好さんというのはボーッとして面白かったンやけど、便利屋でね、一輪亭花蝶・三遊亭川柳、これは兄弟やってンけど、川柳さんが戦死して、 花蝶さんとも組んでたことがあった。

 という記載を確認できる。末子とのコンビ以降は、パッとせず、自然と芸能界から退いた模様か。

 1956年発行の『大阪府年鑑』の住所録に名前と住所(東住吉区)が出ているのが最後の消息で、1957年10月23日に四天王寺で行われた『物故関西演芸家追善回向の精霊』の中に、立美三好と出ている所から、その間に物故したものと思われる。

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