タイヘイトリオ

タイヘイトリオ

全盛時代のタイヘイトリオ
(右から糸路・洋児・夢路)

吉本時代のタイヘイトリオ

新生タイヘイトリオ
(夢路・原児・糸路)

人 物

 人 物

 タイヘイ 夢路ゆめじ
 ・本 名 辻本 節子(一時期、西村)
 ・生没年 1930年4月2日~2018年7月31日
 ・出身地 奈良県
天理市

 タイヘイ 洋児ようじ
 ・本 名 西村 洋治
 ・生没年 1923年2月27日~??
 ・出身地 鳥取県

 タイヘイ 糸路いとじ
 ・本 名 土田 久子(旧姓・辻本)
 ・生没年 1927年11月29日~2018年8月31日
 ・出身地 三重県 久井市

 タイヘイ 原児げんじ
 ・本 名 寺下 道治
 ・生没年 1945年9月11日~2002年9月14日
 ・出身地 三重県 久井市

 来 歴

 戦後、「ロマンショー」と称して、爆発的な人気を集めた浪曲トリオの一組。その人気と派手な舞台は「草木も生えぬ」と綽名された。タイヘイ夢路は、親分肌の持主で多くの若手や新人を囲い、「タイヘイ一門」を形成。ここから「レツゴ―三匹」「ザ・ぼんち」などが誕生し、戦後の上方漫才界に大きな影響を与える事となる。

夢路の経歴

 夢路と糸路は実の姉妹。全盛期は、男勝りでハスキーな夢路が姉、おしとやかで童顔の糸路が妹――と間違えられる事案が随分あったようであるが、糸路が姉、夢路が妹である。

 二人の父親は、京山愛朝(満洲日出丸)という浪曲師。本名・辻本義勝。明治31年11月2日生まれ。生年月日と本名は、「国立公文書館アジア歴史資料センター」の資料から割り出した。

 この満洲日出丸、元々はケレン浪曲で人気があった京山愛昇の弟子で「京山愛朝」。師匠譲りのケレンと関西節で人気があったというが、1931年の満州事変前後で満洲巡業を行い、これを機に「満洲日出丸」と改名。軍事浪曲の新鋭として、大いに気を吐く事になる。

 改名後、「満蒙事變」なる軍事浪曲速記を発売。国際日本文化研究センターがこの本を所蔵している。

 1932年には、ポリドールから『皇軍チチハル入城』『倉本大尉』を吹き込むなど、軍事浪曲の名手として独自の路線で活躍した。吉本の劇場にも出入りし、漫才師たちとも仲が良かったという。

 1936年には、番付に「西4枚目 軍事浪曲」として記載されている(ワッハ上方所蔵)。

 1938年には、芦の家雁玉林田十郎鹿島洋々・深田繁子、漫談の花月亭九里丸と共に「わらわし隊」の一員として中国を巡業している。

 日本の軍国主義に従って、売れに売れたそうであるが、敗戦後にはほとんど活動しなくなった。戦争の反省や娘たちが売れたせいもあるのだろう。

 母親の辻本とみえ(明治38年生れ)も、夫の曲師として長らく付き添っていたという。

 二人の出身地は『日本演芸人名鑑』の公式プロフィールに依った。二人とも出身地が違うのは、親の稼業故だろう。夢路いとし・喜味こいしにもいえるが、親が旅芸人で暮らしていると、出身地がいい加減であったりする。

 生前の舞台で夢路がネタにしていた所では「両親が芸人で、何処で生まれたかよくわからへん」。育ちは奈良だったそうで、長らくこの奈良を出身地と定めていた。

 1935年、夢路は父・日出丸に入門し、浪曲師としてデビュー。天才少女浪曲師として売り出すことになる。

 父親は非常に厳しかったそうで、娘といえども浪曲の修行の前では鬼となったという。以下は『漫才』(第3巻第8号)に掲載された夢路の回顧談。柴田は漫才作家の柴田信子の事。

夢路 奈良の俊徳席へ満州日出丸一座が掛かっていたとき、好きで勝手に一席、浪曲を演ったんよ。
柴田 お父さんも浪曲家でしたのやろ。
夢路 その後は父についてみっちり仕込まれました。家におっても、父の部屋へ入れてもらわれへん、みな廊下で話をしたね、一般の弟子とおんなじようにナ。
柴田 きびしかったんやね。
夢路 冬でもタビをはかせてもらえんし、昔の芸人の修行はつらかったんよ

 入門後、父親と、巡業などに出かけ、少女浪曲師として活躍していた模様。前名は「朝日博子」といったそうである。

 戦時中は、父の芸風もあってか、受けに受けていたが、戦後は浪曲不振に晒され、苦労をしたという。戦後まもなく出会ったのが、タイヘイ洋児で彼と結婚し、歌謡浪曲に転向。

 タイヘイレコードと契約を結び、「タイヘイ洋子」――後に、「タイヘイ夢路」と改名する。

糸路の経歴

 姉の糸路は元々曲師(浪曲の三味線)を勤めており、表に出るような人ではなかったという。そのせいか、舞台でも控えめな人であった。

 初舞台は遅く19歳の時。理由は芸人が嫌いだったからだという。

 ただ、浪曲は仕込まれたそうで、関係者筋から「浪曲を習うのが嫌で、父のいる二階へ行くだけでも怖かった。踊り場で泣き出して、そこで稽古をやらされたこともある」とか何とか伺った。

 そういう経験もまた、芸人嫌いにさせたの一因になったのではなかろうか。

『漫才』(第3巻第8号)に掲載された座談会にその理由が記してある。

柴田 糸路さんは芸界入りがおそかったようですが――
糸路 嫌いやった。
柴田 どうして?
糸路 芸人の子として、いろんな苦労をしてきたもん。
夢路 わたしより二つ上やから、そら苦労も多かったやろね。
糸路 今の父はよろしいよ、今は神さまみたいなええ人やけど、若い時分は飲む、打つ、買うで、わたしや母は苦労しましたで。なんせ水道や電気まで止められるほどの貧乏しました。そやから芸人はイヤやった。
柴田 それがまたどうして芸界入りしましたの?
糸路 もとは菓子問屋の松屋町ではたらいていたけど、自転車に乗ってワラビ餅をとりに行った時、トラックと衝突して骨つぎ屋へかつぎこまれたりしてね――。
柴田 危ないナ。
糸路 そんなこともあって、漫才は二人やけど、三人で演って新機軸を出そうと誘われました。お金がほしいから死物狂いやった。

 上にもある通り、学校卒業後は、家庭の事情で菓子問屋などで働いていたが、敗戦前後の情勢悪化や家庭の困窮などで、浪曲界入り。

 三味線の手ほどきを受けて、曲師となった。当時の名前は「藤原良子」といったそうな。

 一時期、女流浪曲師・吉田奈良千代(後に華ぼたんと改名し、フラワーショーを創設した)の曲師をやっていた事もある。

 曲師としての腕は高かったようであるが、浪曲不振や妹夫妻の頼みで、トリオを結成し「タイヘイ糸路」と名乗る。

 

洋児の経歴

 一方、洋児は後述する理由もあって、長らく経歴が謎であったが、自伝『漫才タイヘイ戦記』の入手と、その他の資料の確保に成功したので、なんとかそれらしい経歴が判ってきた。生年は『芸能画報』(1959年3月号)に出ていた。

洋児 ①西村庄司 ②1923年2月27日 ③鳥取県

 洋児は12歳の折に芸人を志し、親類から猛反対をされた。しかし、日中戦争で出征した兄が、

「これからの日本がどうなるかわからない。どうせ戦争はこれから五年・十年と続くであろう。男子ならば当然兵隊として戦場へ行き、生きて帰れることやら、死んで帰るものやらわからないことだ。それまでの人生であるから、短かい人生なら好きなことをさせてやるのが親心ではないか。どうか親戚の人たちにも協力してやってほしい」

 なる、手紙を家族、親類に送り、説得させた。

 1938年、14歳で漫才作家の郡山桜葉の書生となり、旧制中学に通いながら、芸能界のいろはを教わった。

 この郡山は面白い、下手したら奇人の気のある人だったそうで自分の現行に平然と「ここで笑いが来る」と赤鉛筆で書いたり、戦時中、軍国浪曲の文句で「頃は昭和の中の頃」と書いて、憲兵にどやされた、と吉田留三郎『漫才太平記』の中にある。

 旧制中学を卒業した秋に本格的に芸能界入り。

 それからあひる艦隊の付き人となり、ここで木下華声(元江戸家猫八)に師事した模様。ただし、本人はあひる艦隊の弟子で、これという明確な師匠名はあげていない。愛称は「すずめ」。即ち、あひるの弟子でちびっこいから雀である。

 さらに、あきれたぼういずの付き人もやっていたという。当時は南洋児と名乗っていた。

 間もなく、神戸岡田演芸団の実習生となり、芸人として初舞台。1941年、18歳であった。

 神戸時代の仲間に、暁伸・ミスハワイ、東京の杉ひろし・まりなどがいた。その中で、中山たかしという芸人と意気投合し、漫才師となる。東京進出を夢見て、一座を脱退。

 たかしの故郷である金沢へと移動し、当地の立花座という小屋に出ていたが、間もなく演芸団に見つかり、中山たかしの借金を理由にコンビ解散。独り取り残された洋児は仕出しや臨時コンビなどを組んで、その場をしのいだ。

 しばらくすると、中山たかしが戻ってきたので神戸の千代の座へ進出。ここでは成功を収め、吉本入りも目の前とされたが、イスカの嘴の食い違い。結局、話が噛み合わず、千代の座の隣にあった栄座に来ていた東京の一座に話をつけて、上京。

 因みに、相方の中山たかしは爆発的な人気を得ることなく、芸人として一生を終えたが、洋児よりも長い息を保った。

 1985年発行の『日本演芸家名鑑』には、「花くれない・中山たかし」として、まだ名前が載っている。詳しくは同ページを参照。

 上京後、一座を転々としたが、1942年に兵隊検査を受け、合格する。その頃、両親の面倒を見てもらうという名目で一座にいた踊り子と結婚している。

 入隊後、対替学校で、訓練を受けて下関の軍港に配属される。その頃、Aという住職の娘と懇意となったが、幻の恋に終わっている。

 潜水艦の追尾の勉強こそしたものの、戦争末期の事もあってか、出動せずに防空壕掘りばかりしていたという。この頃、上官の許可を得て、演芸団を結成し、各部隊を慰問するなど活躍した。

 戦火を逃れながらも、最終的に下関から動くことなく、敗戦で復員。

 敗戦下の混乱や家庭の事情で離婚や放浪など、辛酸をなめた。その間、ドサ回りの一座を転々として、コメディアン、楽士、司会者と何でもこなして、その日その日の暮らしを続けた。

 1950年、大阪へと帰ってくる。

夫婦のなりそめと渡米

 1951年、夢路と結婚し、夢路・洋児のコンビを組む。洋児は「当時、住んでいた家の一階に夢路一家が、自分が二階にいたので仲良くなった」と言っているが、夢路本人は場末の小屋にいたコメディアンとできて漫才になった、ということを仰っていた。

 どちらにせよ、両家があまり裕福ではなかったのは事実であろう。

 敗戦に伴う浪曲不況や夢路一家の困窮を目の当たりにして「歌謡浪曲」の開拓を夢路に提案。夢路はこれに賛同し、これまでの三味線一本、テーブル掛けの浪曲を排し、独自の歌謡浪曲を模索するようになる。

 夫婦でコンビを組み、歌謡浪曲コンビとして活動を始めるものの、滑り出しはあまり良くなく、ドサ回りの日々が続いた。

 生活がどん底の時には、一歳二か月の次女が倒れ、ペニシリンをやっとの思いで買ってきたものの、手遅れで死んでしまったり、父親が死んだ際も、葬儀へ行く出す金もない――自分のギターを質に入れて、葬儀に列席するなど――悲惨な状況にあった。

 但し、洋児の書き方はひどく曖昧で、時期的なズレがある。

 1950年初頭には既にタイヘイの専属的な形になっていて、タイヘイレコードから、タイヘイ洋児・洋子『歌謡浪曲 上州鴉』というレコードを吹き込んでいる事例もあるので、実情はどんな感じだったかはわからない。

 1952年には、タイヘイ夢路は「藤原良子」名義で、1952年5月から数カ月、アメリカ巡業に出ている。

 座組は、吉田駒千代を座長に、藤原良子(夢路)、二代目春野百合子、吉田奈良丸嬢、日吉川節子。

 この時の座長は、後年、同じく浪曲漫才で人気を競う事となった華ぼたん――吉田駒千代であったのは何かの因縁だろうか。また、春野百合子は、後年大看板として君臨し、女流浪曲の名人として売れに売れる事となる。

 5人のうち、3人が形こそ違えど、大看板になったのは興味深いものがある。

 その時の記事が『シカゴ新報』にあるので参照にしてください。

 詳しくは書かれていないが、糸路も妹と駒千代の曲師であった関係から渡米しているのではないだろうか。

 帰国後、夢路の姉・久子を入れて、夢路・糸路・洋児のロマンショー『タイヘイトリオ』を結成。

飛躍時代

 トリオ結成後もしばらくはドサ回りを続けており、「シケモク拾いをしていた」と『タイヘイ戦記』にもあるが、明るい芸風と華やかな浪曲がウケて大阪に招かれるようになる。

 演出も考え、そろいの服装に、華々しい所作、更に糸路の旦那(音楽家であったという)に頼み込んで、舞台袖でクラリネットを演奏してもらう陰の努力が功を奏し、1955年に戎橋松竹に初出演。以来、看板漫才として売り出していく。

 その明快な芸風は、大阪だけでなく、東京でも早く受け入れられ(タイヘイの専属的存在だったのもあるのだろうか)、1955年には再開したばかりの「東宝名人会」に出演している。逆に言えば、大阪よりも先に東京で成功した感がある。

 1955年7月26日、ラジオ東京の演芸番組に出演。浪曲コメディ「失恋時代」。関東区での大々的なデビューはこれが先であろう。

 10月、東宝名人会に出演。以下はその当時の番組の写し。

 第7回東宝名人会 1955年10月1日〜10日

落語 三遊亭歌太郎
俗曲 滝の家鯉香
落語 橘家圓蔵
ロマンショー タイヘイ洋児・夢路・糸路
落語 三遊亭円歌
落語 桂右女助
落語 春風亭柳橋
舞踊 花柳壽成 寿々紀
圓生

 更に、第11回(11月中席)と出演し、翌年には第17回(1月中席)から、第19回(2月上席)と立て続けに出ている。以来、東宝名人会の顔的な存在として、長く君臨した。1960年代前半まで、相当の数出ている。

 10月18日、日本文化放送の演芸番組に出演し、漫才を披露。

 12月27日、ラジオ東京に出演。「お笑い森の石松」を披露。

 1956年2月6日、ニッポン放送より「歌謡浪曲伊太郎笠」を披露。

 更に、1957年には堂々たる一枚看板として、浅草や各寄席に出演して居る。

 目下調査中であるのですべては書けないが、東京公演を終える際には、浅草松竹演芸場のパンフレットに、「いよいよお別れ公演 関西歌謡浪曲のトップ」とまで記されるほどであった。以下はパンフレットの顔触れの写し。大谷図書館と国立劇場で調べた。

12月上席

いよいよお別れ公演 関西歌謡浪曲のトップ
ロマン・ショウ タイヘイトリオ

五一郎劇団 我まゝ罷り通らぬ

中野弘子劇団 木曾川しぶき中乗新三

腹話術 チャー坊と後藤宗吾
漫 才 美田朝刊・夕刊
音楽列車 サックス 井上耕 ドラ厶 今井眞理子
漫 才 河内家芳江 桂三五郎
東京ワン・ツー・スリーボーイズ あづま京一 京二 京三
三味線コント 富士一郎 浅草春千代

 後年、千土地興行に招かれ、同社の専属となる。千日劇場などに出演し、堂々とトリを取り続けた。その人気と活躍から「草木も生えぬタイヘイトリオ」と畏怖されるほどであった。

 売り物は何と言っても明るく賑やかな音曲と夢路の浪花節であった。テーマ曲を覚えている人も多いのではないだろうか。

「オープニングテーマ」

洋児「ロマンショーです~」
またも出ました、ロマンショー
いつもニコニコ朗らかに~
糸路『夢路さん』、夢路『オイヤ―!!!!!!!』
洋児『糸路君』、糸路『アイよー!』
糸路・夢路『洋児さん』、洋児『どないした』
時間来るまで、お楽しみ
タイヘイ・トリオの、お笑いだ~

「エンディングテーマ」

それじゃここらで、それじゃここらでェ
ええ、あんあんあ~あああああ~
サヨウナラ~

 秋田実編纂の『漫才』によると、作詞は洋児で月田という人が作曲したそうな。なお、台本の殆どは洋児が執筆し、演出や担当なども洋児が担っていたという。ある意味では、プロデューサー的な素質に恵まれていたのかもしれない。

 兎に角派手で、賑やかで、卑屈な所がない芸風は関西人に拍手喝采で迎え入れられ、多くの演芸番組に出演した。

 その頃の音源がワッハ上方などに一部残っているが、『浪曲でダンスを』では、ジャズやロカビリーに合わせて、夢路が滅茶苦茶に浪花節を唸ってみたり、『女は強い』では、散々に洋児をこき下ろしたり、で当時の世相をよく反映したネタをやっていた。

 今聞いても面白いものは面白いのである。

 後年、千土地興行を離れ、吉本興業に籍を置いたものの、千土地興行の撤退と共に、松竹芸能におさまり、長く大幹部として君臨する事となる。

一門のこと

 千土地興行時代、タイヘイ歌夫・洋子が入門。「笑根系図」には名前が出ているので、1950年代後半の入門か。また「笑根系図」執筆時には(1963年)、タイヘイ博嬢、タイヘイ龍児という弟子もいたそうである。

 1960年代前半、レツゴ―長作が入門。2年間、住み込みで修業したというが、その経歴が錯綜しているため、何処なのか判らない。個人的にはピンアップトリオ時代のそれだと思う。

 1968年頃、長作の紹介で、じゅんと正児が入門。その経緯は、レツゴー正児『人がいて、ぬくもりがあって人がいて』の中で詳しく語られている。

 じゅん、長作正児のコンビは誕生したけど、長作が入ったレツゴー三匹はまだオーケーとってません。そんなころころころころメンバー変わるの使えんて言われるに決まってます。信用問題です。さあ、どうする、また一からや。したら長作が「正児さん、 どこ行ってもあんたレツゴー三匹使ってもらえないのは何でやの何でそんな嫌な思いせんにゃいかんの」「ルーキー新一の弟やいうことがひっかかるんよな」「じゃあ、ひっかからんようにしようよ。」 「何ぞいい方法ないか、そら前向きの姿勢、ひっかからんようにするような何かええ方法があるか」「大阪で一番大きなプロダクションが松竹芸能や。その松竹芸能で一番売れてるのが太平トリオ。一番実力者、太平トリオ。人気のあるのが太平トリオ。その太平トリオのリーダーの洋児先生、実は僕の師匠や。僕は洋児先生の弟子や。家へ二年間住み込んで家で生活をした。 だから三人ともあの太平トリオの洋児先生の弟子になろうよ。 レッゴー三匹太平トリオの弟子やと、あの洋児先生が松竹芸能に言いに行ってくれたら松竹芸能も使ってくれるんと違うかい「おまえ太平トリオの洋児先生知ってるのか」 「知ってるがな、二年家へ住み込んだ。 「それはええ考えや、あの先生は実力者や。 あの先生が言うてくれたら絶対使ってもらえるけどあかんわ。 「何であかんの「兄貴のルーキー新一がな、金もうけしてるときの金もうけも大きかったけど借金も多かったわ。いろんなところに借金してる。 洋児先生にいっぱいしてるそうや。 あの先生に一番借金してる。ところがあの先生人がええやろ、な、何も言えへんから一番不義理してるはずや。ルーキー新つぶれたぞ、 借金減ってへん、ふえてるはずや、その一番迷惑かけてるルーキー新一の弟が弟子にしてください、これは言えんじゃないかい」「お兄さん、そんなことしてたん」「してたんよ」「あかんわなあ、洋児先生はそういうことは非常に嫌う人やから」 「そうやろ、あかんがな、どうしよう。」

 正児は実兄・ルーキー新一の不祥事や借金問題で、吉本からも松竹からも相手にされず、その辺のプロダクションからも出入りを禁じられ、師匠連からも不義理をした兄・新一への意趣返しの如く虐められていたという。

 その中で、タイヘイ洋児はちゃんと口を聞いてくれ、弟子にしてくれた。このおかげで、レツゴ―三匹は、大劇場へ出演できるようになり、たちまちトリオ漫才の頂点に立った。以下は同上の続き。

 「先生、お願いがあります。 道頓堀の角座の楽屋で頭を下げました。「何やおまえら三人、 「何の用や」「はい、レツゴー三匹という名前で三人トリオで漫才やっております。実はこの長作は洋児先生の弟子やったとか聞きました。 三人とも先生弟子にしていただけませんか。 太平トリオの弟子になって松竹芸能の舞台で漫才の勉強がしたいんです。」「うーん、おまえルーキー新一の弟と違うんか。」「はい、そうです、ご存じですか。 先生、ルーキーの弟だったらやっぱりだめですか」「ルーキー新一はのう、ええ芸人やったのう。 関西一、日本一になるとわしゃ惚れとった。 芸能界もええ人材つぶしたのう、ばかなことしたよ。 ルーキーも私生活でちょっと失敗したからのう。あのやる気のあるバイタリティーに富んだ明るい三枚目、貴重なもんやぞ。 おまえ兄貴に負けんと汗を流してやれるかい。」「え?」 「三人仲ようやれるか。舞台の上、芸の上のけんかはええ。でも舞台おりてきて相 方に何かあったら手を差し伸べてやれるか。 昔やすしと漫才やっとったの知ってる、威勢のいい漫才。 芝居もやっとったの知ってる。それが自分のキャリアやと思って偉そうな顔するのやったら弟子にせえへんぞ。おまえが一番下。人と人とのおつき合いは、まず頭を下げることから始まる。 ええか、もう一つ言うとく。芸人やからてちゃらんぽらんなことするな。 世間様から後ろ指さされて、「そんなもんやで、この芸人というのは』と後ろ指さされるような人間失格の行動とるんやったら許さん。守れるか」「全部守ります。」「よし来い、太平トリオ、太平トリオの弟子や、レツゴー三匹、きょうから 太平トリオ弟子や、来い。」先生が手を広げてくれました。

 さらに、兄の借金や負債があるにもかかわらず、正児の息子が急病で倒れ、手術代20万円が必要になった際、タイヘイ洋児・夢路夫妻は、「出世払いで返せばいい」と、兄の不義理をチャラにして、キチンと金を貸してくれた、というエピソードも紹介している。

 レツゴ―正児は、師匠の恩情を前に、一人むせび泣いたという。

 この前後に、名古屋からやって来たタイヘイ洋太が入門している。時期はハッキリとしない。

 1971年、里道和が入門。少し遅れて長瀬修一も入門。この同級生でコンビを組み、「ザ・ぼんち」。漫才ブームでハチャメチャな人気を博したのは言わずもがな。

 1974年、タイヘイ歌夫・洋子が一身上の都合により引退。アコーディオンを下げた漫才で味の出た矢先の事であった。因みに歌夫は、令和元年まで健在で長生きをした。

一世風靡時代

 1960年代の人気はすさまじく、上に挙げたように「草木も生えぬタイヘイトリオ」と多くの芸人から恐れられるほどの熱狂的人気を誇った。

 1962年11月24日、「土曜寄席」に出演し、「ソーラン渡り鳥」を放送。これはワッハ上方に残っている。

 興行師からも当然注目されていて、『桂米朝集成 第4巻』『座談会千土地興行をめぐって』の中に、

ーー千日劇場は、もちろん一ヶ月を十日間に割って、上中下席の興行だと思うんですが、お客さんを呼べる芯になる演芸人というと?
田中 ミスハワイ・暁伸、タイヘイトリオ……。
水木 やっぱりね。光晴はん――松鶴家光晴・浮世亭夢若という、その三組がそれぞれ十日間の芯なったな。時々、東五九童・松葉蝶子もちょこちょこ出てたんを覚えているわ。
米朝 それに松葉家奴はんね。
田中 タイヘイトリオ、ハワイ・伸の師匠方のときはけっこうお客さんが多かったなァ。光晴・夢若師匠の時はお客さんの入りがちょっと……。
水木 しゃべくりばっかりやったからね。
米朝 そこに松葉家奴はんが出番に入ったりね。
水木 そうそうそう、奴さんはわりかた人気があったでっせ。「魚釣り」の踊りとかをやるわけです。

 とあるが、凄い。なお、暁伸・ミスハワイとはライバルの関係であったそうな。両方とも経歴が似ていて、「ロマンショー」「浪漫リズム」と看板も似ているので、ライバルになるのも無理はない。

 後輩の上岡龍太郎は『上岡龍太郎かく語りき』の中で、

 タイヘイトリオの舞台
 タイヘイトリオといっしょの舞台に出てびっくりしたんは、三人とは別に袖でクラリネット吹いとじいてるおっちゃんがおったことです。これが糸路さんの旦那さんです。
 ぼくらね、舞台だけ見ててどうも不思議でしたよ。つまり「♪またも出ましたロマンショウ」いうて始まりますわね。で、洋児さんがいきなり「潮来笠でーす」ってギター弾きだしはるんですが、そのギターがメロディをあんまり弾いてない。 ジャンジャカジャンジャカ、上手いギターやないんですよ。でも、聞いてるとちゃんと「潮来笠」が聞こえてくる。おかしいなと思てたら、袖でクラリネットがパパッパパッパって吹いてるんですよ。それが自然に聞こえるから、ギターが補助するだけでよかったんやね。だから、タイヘイトリオは三人やなく四人やったんですね。
あの人は絶対舞台には出ずに袖でクラリネットを吹いてはった。これはね、ノックさんもマネージャーの鳥居さんも言うてたけど「あれがすごいんだ」と。つまり客には絶対に見せずに、バックで補助してる、その力がすごいって言うて。だからトリオっていうのは、舞台に出る三人だけやなくて、どんな形で補助するかということが必要やちゅうのをタイヘイトリオに教えられました。

 と、その芸の凄さとトリックを冷静に分析している。一部音源では、クラリネットを演奏しているのが存在する。

 同じく『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中でも

上 岡 それからタイヘイトリオ(タイへイ糸路・タイヘイ洋児・タイヘイ夢路、のち 洋児の抜けたあとにタイヘイ原児が入る)、〽またも出ましたロマンショウいつもニコニコ朗らかに····、 余興やなんかで、タイヘイトリオのあとはやりづらかったですね。 草木も生えンというね(笑)。横山ホットブラザーズなんかのあとも嫌でした。客が何をいうても聞きませンもん。大阪の太閤園のようなフリーの野外みたいなところでは、我々、漫画トリオのようなしゃべりの芸は声の調子をかえられませんから、音もの人はいい。ぼくら大声でパンパカパー ン! といっても知れている。

米 朝 また、あの夢路さんという人はもう無闇やたらにボリュームを上げさす。そない上げンでもええというのに、「まだちょっと高くしてほしい」という。

上 岡 演歌歌手の都はるみさんに聞いた話ですが、「私のところの母親がタイヘイトリオが好きでして、私がデビューする時に夢路さんのうなりをやれ」と。

米 朝  (笑)。

上 岡 「ですから私の「アンコ椿は恋の花」の「アンコォーオオオー、というのは夢路さんで す」「それ夢路さんにいうたことがあるの?」「いいえ、いうてません」「そら一ぺん夢路さんにいうた方がいいよ」(笑)。

米 朝 一緒になることはないわな(笑)。

上 岡 だから都はるみのうなりは、それこそ作曲家の市川昭介に習ったわけではなく、母親がタイヘイトリオが好きで、それを教えた。これは芸能史にとっては貴重な証言(笑)。 一べん、 夢路さんにいうたげなイカン。

米 朝 おかんもあんまりええとこへは行ってない(笑)

上 岡 ええ、行ってない(笑)。 好きでしていて、 夢路さんの、「どう、このコンデェーション……」というのがね。 面白かったのはタイヘイトリオの場合、舞台袖でクラリネットを吹いてたやないですか。あれは糸路さんのご主人やったという。

米 朝 そうそうそう・・。

上 岡 ということは、あれはトリオではなくて四人で舞台へ出ていって、「(ソッと) ロマンショ ウで~す」といってギターを弾き出すと舞台袖からクラリネットも吹き出す。 客としてはものすごいボリューム感を感じる。それで 「「潮来笠」です」というても洋児さんのギターは頼りないけれど、舞台袖からクラリネットが聞こえて来るから、客は、「いいなあ」。あれはいい演出やったなあと思った。

米 朝 あの人はもともとバンドマンやったンですがね、舞台へ出るのが嫌やといった。

上 岡 舞台袖で、スリッパを履いたままクラリネットを吹いていた(笑)。ですから、ぼくはチャンバラトリオも四人なのは、まァいいかと。 タイヘイトリオも四人やねんから。あれはバックバンドと思えばいいかとね。

米 朝 あのタイヘイトリオのテーマソングはあの人が作曲したらしいです。 よく暁伸が、「洋児は楽譜が読めねや」とボロクソにいうとったなあ。

タイヘイトリオの分裂

 1970年代に入っても、人気を保ち続け、1970年8月にはタイヘイ洋児は自伝『漫才タイヘイ戦記』を出版している。

 1970年9月25日、朝日放送に出演し「浪曲でダンス」を披露。これは何度かラジオで流れたはずである。

 1972年、夢路は「河内音頭・畷のお龍」を発表。歌手としても活躍するようになる。

 しかし、この頃から、洋児は浮気や事業展開によって生じた負債、借金などに苦しめられるようになる。

 遺族がいる手前、余りこの項目は書きたくないが、事実である以上、執筆せざるを得ない。色々な風聞が存在するが、新聞記事等の上澄みのみ記載する。

 結論から言うと、1975年失踪説は嘘である。その後も2年ばかりは経営者として活動している。どこからこの風聞が出てきたのであろう。

 『週刊読売』(1977年5月28日号)の『お粗末でしたキャバレー経営浪曲漫才タイヘイ洋児が負債1億円を残してドロン!』によると――

 1974年3月に「紅馬車」を開業。芸人経営のキャバレーとして当初は盛り上がったが、オイルショックの余波などにより、1976年秋に一度倒産。ここで清算すればまだ傷は浅かったようであるが、金持ちの未亡人と称する愛人が消費者金融等から1億近く借りて再建するように持ち掛け、実行。芸人や消費者金融から多額の金を借りた。

 また、融資を通すために、夢路の実家まで抵当に入れてしまったという。この借金が多くの遺恨を残す羽目になった。

 1976年秋、愛人から「自分が面倒を見るから舞台からひくように」と言われ、愛人を選択。それを知った夢路は洋児と、離婚。

 夢路姉妹は、離婚と不満の事情を伏せた上で「洋児は経営者になるため」という建前で、1976年12月「引退披露興行」を実施した。

 1977年1月、タイヘイ原児を入れて新タイヘイトリオを結成。もっとも、それ以前から出入りして、タイヘイトリオの代役的な形をやっていたらしい。

 原児は、兵庫県西宮市の出身で、幼い頃から歌好き。学生時代にのど自慢大会常連だった関係から、腹話術の川上のぼると仲良くなり、1962年、17歳で川上のぼる門下に入る。

 1963年、師匠が「川上のぼると大阪ヤローズ」を発足するに伴い、入団。師匠の相方、バックバンドとして、芸人の修業を積んだ。この駆け出し時代に、タイヘイトリオと面識を得る。

 一方、洋児はキャバレーを再建したものの、当然上手く行くはずもなく、1977年に失踪。この顛末と騒動は新聞沙汰になってしまった。以下は、『読売新聞 夕刊』(1977年5月9日号)の記事。

“芸界の事業家”雲隠れ 給料500万未払い キャバレー倒産 元歌謡漫才タイヘイ洋児さん

【大阪】歌謡漫才「タイヘイトリオ」の元リーダー、タイヘイ洋児さん(五四)(本名・西村庄司さん)が経営していた大阪・堺市内のキャバレーを先月中旬に閉鎖、約五十人の従業員の給料一か月分、推定五百万円を未払いのまま姿を消している。女子従業員三十数名が堺労働基準監督署に訴えたが、社長の洋児さん自身が出てこないことには手続きもとれず「このままでは、私らは生活できない。社長の口から納得行く説明を聞きたい」と途方に暮れている。
 
洋児さんは三年前に店を購入した際、先妻夢路さんの家を担保に入れたり、友人、知人から数億円の資金を集めたりしたといわれており、従業員の給料のほかにも多額の借金を抱え、債権者の追及から逃げているらしい。
 
洋児さんが経営していたキャバレーは堺市の「紅馬車」。洋児さんは芸能界仲間では”事業家”として知られ、これまで南区内で鉄板焼き屋やアベックホテルを経営。「紅馬車」は四十九年三月に買い取って営業を始めたが、従業員の話では、昨年秋ごろから目立って客の入りが少なくなり手形で給料を払うなど経営が悪化した。
 
給料日は毎日七日と二十二日の二回払いだが、三月二十二日、四月七日の二回分が支払われず、店は四月十八日に閉鎖、洋児さんは翌十九日、従業員の前で「二十日には間違いなく払う」と涙を流しながら約束したが、所在不明になった。 
 洋児さんは、夢路さんとの夫婦漫才で三十年前にデビュー、その後、夢路さんの姉の糸路さんが加わってタイヘイトリオを名乗り、浪曲漫才で売り出した。最近は歌謡漫才にかわり、ギターと三味線の伴奏で浪曲、歌謡曲をまじえた一風変わったコントを演じていた。しかし、昨年秋、夢路さんと離婚。トリオを解消した。

 続報が『読売新聞』(1977年5月10日号)に掲載された。

借金は一億円を超す 倒産、雲隠れの洋児さん

【大阪】歌謡漫才「タイヘイトリオ」の元リーダーらタイヘイ洋児さん(五四)(本名・西村庄司さん)が経営していた大阪府堺市中之町東三、太平観光会社のキャバレー「紅馬車」は、同社関係者のその後の調べで女子三十四人、男子六人の従業員とバンドマンら計約五十人分の給料(約五百万円)未払い他、弘容信金からの三千万円をはじめ、大阪、堺市内の金融業者から二百万ー四千万円ずつの資金を借り、合計一億円を超す借金があることがわかった。

 間もなく洋児は失踪してしまい、後の消息は不明。生きていたとしても決して表舞台には出て来られないだろう。

 面倒見がよく、芸熱心だっただけに関係者は、借金問題や顛末を踏まえながら、愛憎半ばの複雑な感情を持ったという。

 新生タイヘイトリオ結成後も松竹芸能に所属。晩期の角座に出演。

 洋児を失った事により、リーダーは夢路となった。夢路がしゃべり倒し、糸路がツッコミ。ヌーボーとして頼りない風に見せる原児を徹底的に丸め込むスタイルに転じた。

 ある意味では、レツゴ―三匹の長作、横山ホットブラザーズのセツオと同じポジションであるが、これはこれで面白かったという。また原児は音楽にそこそこ明るかったため、二人の歌謡浪曲をよく支えた。

 1977年5月14日、ラジオ大阪の番組「上方漫才の道」に出演。

 1979年10月、大須演芸場の15周年興行に出演。以下はその顔ぶれ。

 10/1~10日の10日間は日替わり特別ゲストが出演!  
出演予定:雷門助六(4・5日)、桂朝丸(7日)、タイヘイトリオ、上方柳次、小島宏之とダイナブラザーズ、若井けんじ(何れも日未定) この他にも思わぬゲストが来るかも?

 この頃の大須は人気があり、名古屋演芸の殿堂と言っても過言ではない存在であった。

 その後は、角座の閉鎖、松竹芸能などの迷走により、人気も低迷。しかし、これは彼らだけの問題ではなく、大御所漫才師の殆どが抱えていた問題であったといえよう。

新生トリオ結成以降

 しかし、その中で夢路と原児は、役者路線に進み始める。更に夢路はコメンテーターやバラエティー番組のゲストとしても進出をする。

 特にバラエティの人気はすさまじく、関西ローカルで長い人気を保った。滅茶苦茶ギンギラギンな服装に毒舌を振りまき、如何にも「大阪のおばちゃん」という風情で第一線に立ち続けた。

 こうしたテレビや演劇進出に伴ってか、長らく契約していた松竹をやめ、小野沢オフィスに移籍している。

 1982年、夢路、NHK朝ドラマ『よーいドン』に出演。 

 1983年、夢路は時代劇『新・なにわの源蔵事件帳』の「第9話 輸入薬のゆくえ」に出演。

 1984年、夢路はコロムビアより「浪花春秋」を発売。長らく持ち歌にしていた。

 1996年9月、ドラマ「結婚はいかが?」のレギュラーとして出演。

 1997年、『もう一つの上方演芸』に取り上げられる。以下はその引用。

 ♪またも出ましたロマンショー♪ ではじまるテーマソングを聞くとゾクゾクしてくるから不思議だ。 これは、ハワイ・伸等、浪曲出身の芸人に共通していて、やはり出てきて「テーマソングを歌う」ということ自体が、ナンセンス加減がおもしろいのも然る事ながら、料理どきの食前酒に似て「笑いたい欲求 たのしみたい欲求」を促進させる働きがあるからだろう。
 そういう意味ではテーマソングで始まる漫才は、本題前に心構えやらキャラクター把握が容易にできるから、やるほうも見るほうも楽といえる。しゃべくり漫才ではいきなりメインディッシュからきて戸惑うこともあるし。 ところでタイヘイトリオであるが、このトリオ、「テーマソング」 プラスアルファー、出からしてプロのにおいがする。これはおいしい。
 芸人然としていてプロ意識がかいま見えるから、見る側も「プロの客になってやろう」という意識が芽生えてくる。そして、そうして見ると「演芸を見ました」とも思わせてもらえたりする。これはうれしい。残念ながらこの頃寄席に出演していないが、かつての角座ではそういうイイ思いをけっこうさせてもらった。
 最近は時として楽屋の時と同じような格好で舞台に出る新人がいて、ひどいのになると千円二千円のTシャツ1枚で出てくる。 タイヘイトリオはそういった新人がぼこぼこ出てくる中で、プロの孤塁を守っているかのようにも見える。決して古いわけではない。
 プロなのだ。かつて夢路はトーク番組によくゲスト出演していたが、若いメーンを相手に、そのレベルに合わせて話をし、プロ然とした部分がテレビ番組の中では浮いてしまいがちなのは否めないが、ひとり孤軍奮闘していた。夢路はかわいいのである。
 そういえば以前、朝日放送の「ホリデーワイド」で、漫才の一門特集があって、「タイヘイ一門」が勢揃いしたことがあった。レツゴー三匹からザ・ぼんち、ジミー大西、幸助・福助ほか弟子が集結した。客分としてチャンバラトリオも出演。そしてその日の司会がタイヘイの孫弟子にあたるサブロー・シロー。
 その時の夢路はもう子供であった。弟子たちに機嫌をとられ、相好は崩れっぱなし。 そして機嫌をとられることをさも楽しんでいるかのようであった。糸路までもが喜色満面であったのがおかしい。原児は居心地悪そうに座っていたが。
 タイヘイのドンに幸あれ!

 この頃より、漫才トリオとしての活動は縮小していき、糸路は事実上一線を退く形となった。

 2001年、『料理少年Kタロー』の第9話「ばあちゃんの恋」に出演。

 2002年7月、ドラマ『ビタミンF』の4話に出演。

同年9月14日、タイヘイ原児が心筋梗塞に倒れ、急逝。これにより事実上タイヘイトリオは解散という形となった。糸路は完全に引退。夢路のみ芸能界に残った。

 2003年1月より放送の連続ドラマ「かるたクイーン」の喜和役で出演。

 2003年9月より放送の連続テレビ小説「てるてる家族」に出演。シャトー梅田リンク店の従業員、太田トミ子を勤めた。

 これらのドラマは今なお、再放送などで見る事が出来る。

夢路の晩年

 21世紀に入った後も、バラエティやドラマなどで出演。講演も行っていたそうで、兎に角笑わせる講演で評判だった由。

 その傍ら、長らく所属していた「関西演芸協会」の会合や演芸界にも出席。

 毎年1月10日前後で行われる「堀川戎のえべっさんの日」――通称「十日えびす」では長らく笹売りを担当しており、愛想よく売りまくるのが評判であった。

 最晩年は「有限会社アンクル」に所属していた。

  2009年5月10日、ワッハホールで行われた「関西演芸協会まつり ミナミから元気にしまっせ日本を!!」に「おしゃべり歌謡」として、出演。

 2011年7月16日、木馬亭で開催された澤田隆治プロデュース「てなもんや浪漫バラエティ第二回 さては一座の皆様方へ」に出演。浪曲漫談と演歌を披露した。不肖、この舞台には間に合った。

 その時紹介をしてくれた澤田隆治氏も、夢路氏も、友岡氏も皆死んでしまった事を考えると、時の流れの残酷さを感じる。

 2014年、第18回「上方演芸の殿堂」に選出される。同時受賞は、二代目平和ラッパ。

 2016年に、「堀川戎のえべっさんの日」の関西演芸協会の連名で出たのが最後に公となった姿か。以降は入退院を繰り返していたという。

 亡くなる直前までの動向は、御遺族が記されたnote『タイヘイ夢路のしゃくれた人生』に詳しい。このご遺族に、夢路・糸路姉妹のあれこれご教示をたまわった。御礼申し上げます。

 2018年4月2日、夢路は米寿を迎えた。

 2018年7月31日、肝硬変のために死去。亡くなる前日まで矍鑠としていたというが、容態が急変し、息を引き取った。

 葬儀には、姉の糸路が駆け付けたという。

 各紙が訃報を受けた弟子のザ・ぼんちも追悼コメントを出した。以下は、『日刊スポーツ』(2018年8月7日号)の記事。

 7月31日に肝硬変のため、大阪市内の病院で亡くなった浪曲漫才「タイヘイトリオ」のタイヘイ夢路(たいへい・ゆめじ、本名辻本節子=つじもと・せつこ)さんの弟子、漫才コンビ「ザ・ぼんち」が、訃報が流れてから一夜明けた7日、所属事務所を通じてコメントを寄せた。
 里見まさと(66)は「この世界に生まれさせていただいた恩師との別れに、言葉がございません。ほめられたことより、若い頃にしかられた事が、なぜか浮かんできます」とコメント。高校を卒業してすぐ、71年にトリオへ入門した当時へ思いをはせ、師匠をしのんだ。
 一方、もともとは役者志望だったが、高校の同級生まさととともにトリオに師事したぼんちおさむ(65)は「夢路師匠、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。弟子でついてる頃、いろいろ失敗もしましたが、いつも優しく見守っていただきました。ほんとにありがとうございました」と感謝。漫才ブームを経て、いったん役者業へ軸足を置いたころも、温かく見守ってくれた夢路さんへの思いを寄せた。
 夢路さんは、タイヘイ洋児さん、タイヘイ糸路さんとともに、「タイヘイトリオ」を結成。60~70年代に、独特の浪曲漫才として、一世を風靡(ふうび)。「またも出ましたロマンショー」で始まる歌と、漫才で人気を集め、上方演芸史の一時代を彩った。
 派手な衣装と、歯切れよいトークで、テレビのバラエティー番組でも活躍した夢路さん。晩年は、NHK連続テレビ小説などにも出演し、女優としても活躍した。一方で、ぼんちの2人や、「レツゴー三匹」を育て、孫弟子も含めて一門には、80年代の上方漫才ブームをけん引した太平サブロー・シローらもいる。

 妹の葬儀に列席した糸路は、1月後の8月31日に死去。享年91歳であった由。

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