山崎正路・若松雪路

山崎正路・若松雪路

山崎正路・若松雪路(右)

阿呆陀羅経を披露する二人
(関係者提供)

若松家の阿呆陀羅経は三つ木魚に拍子木が伴奏という独自の形態を取っている。
(関係者提供)

 人 物

 山崎やまざき 正路まさじ
 ・本 名 杉本 徳重
 ・生没年 1920年4月13日~1996年9月9日
 ・出身地 大阪府 堺市

 若松わかまつ 雪路ゆきじ
 ・本 名 杉本 布美子
 ・生没年 1928年7月15日~2010年ころ
 ・出身地 大阪市 浪速区(生誕の地はハワイ)

 来 歴 

 戦後活躍した夫婦漫才師。明治末に勃興した若松家正右衛門流の「阿呆陀羅経」を最後まで継承して演じていた貴重なコンビであった。その貴重な芸風が買われる形で、晩年、何本かテレビに出ている。

 二人の経歴は、『日本演芸家名鑑』、『国立劇場演芸場』(1983年12月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅴ)』に詳しい。

 正路は堺市の出身。小学校高等科卒業後、勤めに出たものの、芸事が好きで仕事に身が入らないことを案じた母親が、同郷の山崎正三(当時・若松家正三)に頼み込む形で、入門。1938年のことである。

『国立劇場演芸場』では、昭和17年となっているが、これは表記ミスであろう。

 若松家正路と名付けられ、師匠の舞台や巡業に同行して、話術を磨き、阿呆陀羅経を会得。

 間もなく戦争がはじまり、漫才どころではなくなったが、幸いにして兵役などにはとられなかったらしく、敗戦後まもなく、相方不在の中田ダイマルとコンビを組んで、地方巡業に出かけたこともあるという。

 戦後、師匠が「山崎正三」と改名したため、自身も「山崎正路」と改名。師匠から独立する形で、千土地興行に入社。千日劇場等に出演するようになる。

 1955年(『国立劇場演芸場』では1953年になっているがこれも眉唾)、師匠の山崎正三の兄弟子の娘に当たる雪路と出会い、結婚。夫婦漫才を結成。引き続き、千日劇場に出演し、淡々と舞台を務めていた。

 相方で妻の雪路は、戦前、吉本の大御所であった若松家老松(後・二代目正右衛門)・姫松の次女。先年亡くなった曲独楽の伏見紫水、現在も健在という歌手の秋ゆたかは弟にあたる。

 両親がハワイ巡業中に生れたそうである(1928年に確かに老松夫妻はハワイ巡業へ出ている)。

 両親が人気漫才師だけあって、早くから芸事を仕込まれ、4歳の時に父の一座で初舞台を踏む。以来、ちびっ子漫才として、父の一座の主戦力として活躍。

 敗戦後、劇場がなくなったことにより、郵便局へ就職。母方の叔父で奇術師の松浪天外に引き取られ、郵便局勤務の傍ら、叔父の舞台を手伝っていたという(『国立劇場演芸場』では父没後に天外の世話になったとあるが、その父は雪路が結婚した年である1955年に亡くなっており、そのころには独立していたことを考えると、話の辻褄が合わない)。

 1955年、父と同じ一門であった山崎正路と結婚。ご遺族によると、再婚だったという。

 これを機に、夫婦漫才を結成する事となった。当初は師匠筋の山崎正三・都家文路から「都家浪路」と名乗っていた――と当時の名簿にある。

 1961年頃、父の屋号をもらって「若松雪路」と改名。これを生涯の芸名とした

 以来、千土地興行に所属し、千日劇場に出演。雪路が幼い頃に覚えた三味線を抱えて出て、二人が演歌や俗曲をうたい、最後に「吉良の仁吉」「金色夜叉」などの芝居ネタを演じて見せる、いわゆる諸芸尽くしの漫才で人気を集めた。

 また、正路は興に乗ると、阿呆陀羅経を演じる事があった。若松家の阿呆陀羅経は、拍子木を合いの手に居れる独特のモノで、漫才以前の芸の片鱗を見せる貴重なコンビであったという。

 1969年、千日劇場閉鎖に伴い、千土地興行を離れる。以来、余興や地方巡業へと移行するようになる。

 1973年、当時のコミックバンド、音曲漫才ブームに乗り、仲間であった花園百合子を加えて、「浪漫トリオ」なるトリオを結成。タイヘイトリオの「ロマンショー」から着想を得たそうで、賑やかなショウ形式の漫才へと移行した。

 また、娘が一時期メンバーに入っていた事もある。この娘さんは「森きよみ」という名前で今も歌手をなさっているはずである由。

 また同年、関西演芸協会から離反した人生幸朗、山崎正三らについていく形で、「関西芸能親和会」発足に関与。理事・書記として就任し、芸人間の結束や運営業務に関与した。

 理事業の傍ら、このトリオで5,6年やっていたそうであるが、花園百合子が抜けて、再び夫婦漫才へと戻った。

 1982年、人生幸朗死去に伴い、師匠の山崎正三が関西芸能親和会の会長に就任。正路も理事長へ昇格した。それから間もなく正三が病で倒れたため、会長代理という形で、二足の草鞋を履く事となった。

 1984年、師匠の山崎正三死去に伴い、関西芸能親和会の会長に就任。漫才ブームの去った大阪の芸能界の中で奮闘をつづけた。

 晩年は、桂米朝や関係者から、阿呆陀羅経の珍しさを注目される形となり、テレビ番組に出演。「阿呆陀羅経」の一部はワッハ上方などに残されている。

 平成に改元後も精力的な活躍と舞台出演で健在をアピールしていたが、1996年ころより体調を崩し、入院。1996年9月9日、膵臓がんのため、息を引き取った。以下は『国立劇場演芸場』(1996年11月号)に掲載された訃報。

山崎正路さん死去
 関西芸能親和会会長で漫才師山崎正路さん(本名・杉本徳重)が、九月九日午前、膵臓がんのため、大阪府松原市の病院で死去した。七十六歳。喪主は妻の布美子さん。
 大正九年大阪府堺市生まれ。昭和十三年山崎正三に入門、三十年布陣で芸名若松雪路さんと結婚、漫才コンビを組んだ。阿呆陀羅経の継承者として知られていた。五十九年から関西芸能親和会会長。

 夫の死去を受けて、雪路は引退した。弟の伏見紫水氏の弟子であった二代目伏見紫水にお伺いしたところ、

「その頃はすでに独立して、師匠の家への往来が盛んではなかったので、詳しい事情は存じませんが、今から(2020年現在)10年前に亡くなられた、と記憶しております」

 との事であった。2010年前後に亡くなったのは、事実のようである。

コメント

  1. 矢野武人 より:

    初めまして。若松雪路は私の祖母です。因みに母は1953年産まれです。相方である杉本は再婚相手にあたります。叔父の伏見紫水は2019年秋に見舞いに行ったのが最後でした。私の知らなかった史実をありがとうございます。母は若松みどりから改名し現在は歌手です。

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