中山たかし・花くれない
モダントリオ時代
左から、大和さくら、花くれない、中山たかし
人 物
中山 たかし
・本 名 中山 隆三
・生没年 1910年7月27日~1994年3月13日
・出身地 石川県 金沢市
花 くれない
・本 名 中山 悦子
・生没年 1929年6月21日~没?
・出身地 大阪市 西区
来 歴
戦後活躍した夫婦漫才師。オーソドックスな音曲漫才を展開としたというが、謎が多く残るコンビである。この二人の娘は、中田ダイマルの娘と組み、「麻里美々・奈々」(美々が娘)として活躍していた。特筆すべき点はそれくらいか。
二人の生年月日と出身地は、1985年発行の『日本演芸家名鑑』によった。然し、この名鑑には生年と出身地は出ているものの、経歴が出ていないので謎が多い。
『上方演芸人名鑑』によると、たかしは戦前の歌謡漫談グループ「のらくろショー」の出身で長らくアコーディオンを担当していたが、後年に妻のくれない、娘のさくらと共に「モダントリオ」なる音楽グループを結成したという。
然し、経歴の前後は謎が多いうえ、同著に記載された本名は「中山隆史」となっている。詳しい事情は知らん。
経歴はこれだけかと思ったが、戦前はタイヘイトリオのリーダー、タイヘイ洋児とコンビを組んでいた事が、洋児の著書『漫才タイヘイ戦記』から明らかになった。
戦前は神戸の神戸岡田演芸団にいたそうで、そこで洋児と出会いコンビ結成。同社の劇場に出ていたが、反旗を翻して脱退。冒険の旅に出る――が、すぐさま失敗して、コンビを解消した旨が出ている。以下はその引用。
それから初代あひる艦隊の付人。あきれたボーイズの付人。神戸岡田演芸団の見習生。ここで初めて舞台を踏んだ。昭和十六年であった。一ボードビリヤンとして舞台に立った私の得意満とした姿を想像してほしい。その時一緒に舞台に出ている先輩で現在も尚元気で活躍している暁伸、ミス・ハワイ。モダントリオの中山たかし。東京の杉・ひろし、まり等。 その当時七人か八人のショウであったと思う。他の座員の中には現役組では蝶々、お浜、小浜。四郎、芳政。未だ沢山の座員はいたがその後の消息はわからない。
一座に反旗をひるがえしたのが私と中山たかしの二人であった。漫才に転向し中央への進出をねらい、二人はその座をドロン。二人は中山たかしの故郷金沢へと消えた。当時金沢には常打の小屋立花座があったので、そこを最初の二人コ ンビの稽古場として舞台へ上った。しかし長くは続かなかった。岡田演芸団の人がやって来て中山氏を連れて帰ってしまった(中山氏はその座にまだ借金が残っていたのである)一人取残された私は、病気で相方を失った人とか、コメディーの穴うめ役をつとめてなんとか喰いつないでいた。これが私にとって大きなプラスになっていたことは、今思えば有難たいことである。知らぬ人と漫才をやったり、即芝居に出演したり、いい経験をしたことになる。
そのうち中山氏が帰って来たので、再び神戸の新開地の常打ち小屋、千代ノ座へ入り、漫才師として初めて中央進出の願いがかなったのである。
私達の念願は吉本興業への夢であった。何度か吉本へのチャンスはあったが千代ノ座との折合いがつかず、とうとう吉本入りを断念した私は東京へ夢を走らせた。千代ノ座の隣りに栄座という地方巡業隊の小屋があった。そこへ来ていた東京の一座へ話をつけて、中山氏と別れて私はその座と共に東京へ旅立った。そして東京から兵隊、そして終戦と戦後の芸界での苦業が続くのである。
タイヘイ洋児とのコンビ解消後、歌謡漫才グループ、のらくろショウに参加した模様か。同ショウは、のらくろ(これが芸名。すごいものである)を中心とした歌謡ショウで、戦前戦後の一時期はあひる艦隊などと並ぶ、大阪の人気グループだったという。そのくせ資料がないので、どんな活動をしていたまではわからない。
戦後も同グループに居たようであるが、花くれないと出会い結婚。19歳差の歳の差夫婦であった。
1947年、娘の中山映子が誕生。この子は、早くから芸能界に出入りし、「大和さくら」の名前でギターを担当。府立住吉商業高校卒業後、本格的に芸能界入りを果たした。
結婚後、のらくろショウが自然解消したため、妻とコンビを組んだ模様か。さらに娘に芸を身につけさせ、「モダンショウ」なる音楽ショーを結成。
華やかな舞台は、余興などで喜ばれたそうで、地方巡業を主に活躍した。
然し、そういう立ち位置が、自然と中央舞台から、彼らを遠ざけた模様か。
1971年、映子が中田ダイマルの娘、民恵とコンビを結成するにあたり、「モダンショウ」を解散。「中山たかし・花くれない」の夫婦漫才に戻った。
娘の映子は「麻里奈々・美々」(美々が映子)と名乗り、面識のあるフラワーショウへと入門。
以来、フラワーショウ、中田ダイマル・ラケットの弟子分という大きな庇護を得、中央舞台に進出。松竹系の角座や松竹座に出演し、若手漫才として期待されたが、1978年にコンビ解消を果たした。
一方、たかし・くれないの二人は地方巡業や余興を主に淡々とした舞台を展開。アコーディオンと三味線という古風な取り合わせで、歌謡曲などを演奏する漫才を演じていた模様である。
早々に廃業した娘とは違い、昭和末まで精力的に活躍。西成区のてんのじ村に居を構え、最後までてんのじ村の芸人としての生涯を全うした。『演芸連合 56号』(1994年9月10日号)に、
中山たかし師、三月十七日死去。親和会の長老格の漫才中山たかし師、最近体調を崩し療養中でしたが残念ながら死去されました。
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