花柳貞奴・花菱〆奴

花柳貞奴・花菱〆奴

貞奴・〆吉(右)

 人 物

 花柳はなやぎ 貞奴さだやっこ

 ・本 名 野口トメ
 ・生没年 1909年~1983年以降
 ・出身地 鳥取県

 花菱はなびし 〆吉しめきち

 ・本 名 畑森ハナ
 ・生没年 19
10年1980年以降
 ・出身地 大阪

 来 歴

 花柳貞奴・花菱〆吉は戦後活躍した女流漫才。音楽ショー全盛の中で、しゃべくり漫才を貫いた貴重な漫才であった。共に芸達者で、芸尽くしの話術を見せる点に特色があった他、巨躯の〆吉、痩身の貞奴の対比が見事であったという。

 経歴は相羽秋夫『上方演芸人名鑑』に一通り出ている。

 花柳貞奴 鳥取県東伯郡成美の生まれ。成美尋常小卒。はじめ舞踊の世界にいたが漫才に転向。師匠なしでがんばってきた。花菱〆吉との大小コントラスト を見せる女性コンビで地位を築いた。軽妙なおしゃべりで お浜・小浜と競い合った時期もあったが、〆吉の交通事故で、引退のやむなきに至ったのが残念だ。

 花菱〆吉 大阪府岸和田尋常小卒。玉子家源丸の門下に入って、最初玉子屋源女を名乗った。花柳貞奴と組んで、一五三センチ、 九〇キロの巨体が、貞奴の 細い体とコントラストを見せて、数少ない女性しゃべくりコンビとして活躍した。しかしバスの急停車による車内で倒れたケガがもとで引退した。

 しかし、『出演者名簿』や『文化人名録』には名前が出ておらず、詳しい誕生日までは割り切れなかった。要考察であろう。

 〆吉の前歴は謎も残るが、玉子家円辰の高弟、玉子家源丸の門下で、玉子家源女と名乗っていた。三田純一は『昭和上方笑芸史』の中で、

〆吉は大正年間、それもそう遅くない時期に玉子家源丸の門に入った。玉子家源丸は、上方万 歳の祖といわれた玉子屋円辰の弟子で、江州音頭系の万歳師である。〆吉は高座でもよく江州音 頭や河内音頭をうたったが、これは師匠の源丸の一座が音頭を中心にしていたから、その時代に身についたものであろうと思われる。

 と、述べているが、漫才師としては古株で「萬歳」時代の生き残りであったといえようか。戦前の動向は謎に包まれているが、主に師匠源丸について全国を回っていた模様か。

 一方の貞奴は、安来節の出身。元々は「花柳流」の舞踊家だったというが、大和家八千代氏など曰く、「あの人は芸者だったんじゃないんでしょうか」との由。芸名からして、踊りが達者な芸者だった可能性は高い。

 安来節から漫才になった人は数多くいるが、東京で活躍した大津検花奴などもいい例であろう。「〇奴」という名前は芸妓上りが多かったりするので必ずしも間違いとは言えないだろう。

 大正時代の安来節ブームに乗じて上京。鳥取生まれとあって、安来節は得意だったことであろう。

 安来節公演の事は目下まとめ中であるので、詳しい事はまだ書けないが、昭和初期から浅草の顔なじみで、人気があったのは事実。

 1927年1月22日の『都新聞』、江川大盛館の広告に、

「安来節大一座 笑子 君江 繁子 花龍 つや子 一二三 靜丸 延子 貞奴 梅吉他 万歳 成三郎 金蝶 力春 値下断行30銭」

 とあるのが確認できるのが最古の部類か。因みにこの時の漫才師の成三郎とは戦後まで人気があった、広田成三郎である。

 安来節時代から「花柳貞奴」と名乗っており、浪花節の真似がうまかったのもまた事実だったようで、演歌の神様・添田唖蝉坊の随筆集『浅草底流記』の中に、

 音羽座の民謠とレビュー

 濱田梅吉。安來節では押しも押されもせぬ存在である。そこに、木村時子のダンスと好色的流締とを以て、観客をガンヂがらめにしやうとする。
 花柳貞奴の浪花節の眞似。聲量豊富で、うまいものだ。
 高砂家ちび助の一人剣劇、切る方と切られる方を、一人でやつてゐる。

 という記載を見つけることができる。同著が出たのは1930年、当然この記録はそれ以前の事である。

 安来節晩期のスターだったのは間違いなく、『都新聞』(1930年5月1日号)音羽演芸館の広告に、

 安来節 花柳貞奴 渡邊豊子 浜田梅吉

 という名前を見つけられるほか、『都新聞』(1931年1月6日号)掲載の「江戸館」の広告に、

 「民謡王 浜田梅吉大一座 安来節レビュー・曲芸・ジャズ・万才 貞奴梅吉 定子 菊野」

 とあり、『都新聞』(1931年4月30日)に、

▲皐月演藝會 一日夜報知講堂に、出演者は
濱田梅吉、茂住菊野、花柳貞奴、富士蓉子、李有来、東喜代駒、徳川夢聲

 とお歴々と並んで堂々と演芸会に出演している。

 それからしばらくして安来節の衰退、漫才の勃興を受けて帰阪、漫才に転向した模様か。

 漫才に転向後、一時期、二代目江戸家猫八こと木下華声とコンビを組んでいた事があるらしい。1937年頃の話であろう。そのコンビも1938年夏に分かれたそうで、『都新聞』(1938年7月5日号)に、

★結婚とは何?
木下華聲は花柳貞奴のコンビと別れて今度SSK出身の椿美智と組み出演してゐるが、ご夫婦ですか/\と何處でも訊かれるので華聲が、ネー美智ちゃん、いつ其こと結婚しやうか、と云ふと美智困つた顔をして、エゝ結婚してもいゝわ、でもさうすると世間から夫婦だと思はれるんですものう……

 華声と別れた後、山村豊香とコンビを組んで、新興演芸部に所属していたことは、当時の資料より把握できる。以来、同部の中堅として大劇場に出演。女道楽風の漫才を得意としたという。

 1939年8月1日より、松竹劇場に出演。『近代歌舞伎年表 京都編』によると(以下の引用はすべてここから)、

 あきれたぼういず新興ショウ 愛染かつら 
 正調博多節 博多芸妓連

 新作漫才競演 ワカナ・一郎 平良乃ノボル・光テル子 ワカ子・春雨 桂三笑・都家小歌 松葉家奴・喜蝶 小ワカナ・和田ジュン 〆迺家政月・津村敬一 河内家芳若・藤豊子 鶴春・お龍 花柳貞奴・山村豊香 染丸・とり三 ラッキーセブン 

 10月26〜30日、南座の漫才大会に出演。

 あきれた玉手箱 あきれたぼういず操三番叟 
 かみなりもん舞踊座
 ワカナの女笑売往来 ワカナ一郎
 ニュース劇場 ハットボンボンズ
 オペレッタ漫才 僕等の残菊物語 ラッキーセブン 水島早苗 
 あひる艦隊ミュージカルコメディ 散髪屋騒動記

漫 才 剣戟漫才 時事勧進帳(政月・敬一)空飛漫才(芳若・豊子) 爆笑漫才 和歌問答(染丸・とり三) 明朗漫才 純情二重奏(ワカバ・ヒノデ)歌謡漫才 嫁入りさかり(貞奴・豊香) 洒脱漫才 銃は執らねど(奴・喜蝶) 漫才陣の雄将 槍はさびても(浅田家日佐丸・平和ラッパ)

 11月21日より、松竹劇場に出演。

女剣劇 桜田門余聞 勤王女役者 玉水昌子
ミュージカルコメディ どれみは人生 ハットボンボンズ
冬来りなば タップタップアクロバット大合同出演

新作漫才大会
女笑売往来(ワカナ・一郎)くさり縄にも(オール・トーキ)思いつき料理(ゲーム・セット)北満吹雪(政月・敬一)内気ですワ(一声・勝世)六問答(染丸・とり三)良妻賢母(貞奴・豊香)雀百まで(奴・喜蝶)

 12月21日〜 松竹劇場に出演。

 女剣劇 あざみ振り袖 玉水昌子
 トンチンカン狂騒曲 五人笑撃兵
 釣女 かみなりもん舞踊座

 漫才忘年大会
【出 演】奴・喜蝶 貞奴・豊香 染丸・とり三 ノボル・テル子 小町・和呂 鶴春・お龍 春多楼・綾子 虎の子・音丸・鶯渓

 と、以来新興演芸部での活躍が続いた。この頃が戦前の隆盛期であろう。

 新興演芸部時代は、正司歌江と仲が良く、彼女を娘のように可愛がっていたという。この縁が後年、絶望の中にいた歌江を救う事となる。

 それからしばらくして豊香と別れ、花柳愛子なる人物とコンビを結成。豊香は東京へ行って、荒川清丸とコンビを組む事となる。

 1943年10月21日より、京都座の定期公演に出演。

 川崎弘子のすみだ川
 歌と軽音楽 笠置シズ子
 驀走甲州街道 梅沢茂登子一座
 浪曲 京山華千代

 尺八独奏 福田蘭童

 漫才 諷刺爆笑王 奴・喜久奴 貞奴・愛子 爆笑漫才 日佐松・あけみ

 1944年頃、島陽之助(島田洋介の兄)と別れた堀江洋子とコンビを結成。空襲の激化する中で、京都の劇場を根城に出演をつづけた。『近代歌舞伎年表 京都編』の1944年の項目に、

 〇十二月(二十一)日~(二十八)日  京都座
 
新興演芸 新作漫才大会

【出 演】女性月花(松竹ワカナ・玉松一郎) 明日待たるる(浅田家日佐丸・平和ラッパ) 忠臣蔵討入(桂木東声・春風小柳) 漫談魂の味(帰還第一声 香島楽貴)歌合戦二人道中(花柳貞奴・堀江洋子)ヨイコの魂(正司歌江・正司照江) 決戦高島田(島ひろし・松竹ワカサ)人形迷々伝(梅津富美子・山崎富士子)

決戦歌謡と音楽抄
【出 演】染千代 谷垣嬢 若草かほる 栗山なほ子 太洋楽団 築地千代 新興太洋管弦団 司会 楽貴

 戦後、物資不足の中でも漫才を辞める事なく続投。

 『近代歌舞伎年表 京都編』の1946年のページを引くと、

〇二月(十九)日〜 松竹劇場 新興演芸直営

 和田順作 岸本清演出
 歌ふ丹下左膳百万両の壷 九景
【出 演】藤原釜足一座特別出演 朝雲照代・京町みち代・柳谷寛・泉和助

 新興新作万才大会
【出 演】桂木東声・春風小柳 花柳貞奴・静奴島ひろし・松竹ワカサ 桂小豆・宮シゲオ 正司歌江・照江

 その後、花柳素女なるコンビを変えて、

 〇三月(二十一)日~ 松竹劇場
〈松劇の恋愛週間〉 藤原鎌足みせもの座 七の替り

 大村順一作並演出
 恋の手ほどき致します 八景
【出 演】朝雲照代 柳谷寛 松本マスミ 京町みち代 泉和助 城木浩

 みせもの座 岸本清作並演出
 爆笑喜劇 カマさんの初恋 一幕
【出 演】藤原釜足 松本マスミ 泉和助 飯田保憲 片岡半蔵 京町みち代

 漫 才 
【出演】島ひろし・松竹ワカサ 宮シゲオ・桂小豆 花柳貞奴・花柳素女 浅田家朝日嬢・花柳三鈴

 〇三月(三十一)日~ 松竹劇場

 和田順作並演出
 カマサン得意の狂言 おしゃべり右門捕物帖 藤原釜足見世物座
 【出 演】特別出演 朝雲照代・京町みち代・柳谷寬・泉和助

 五十三次唄道中 あひる艦隊

 爆笑漫才陣
【出 演】桂木東声・春風小柳 花柳貞奴・素女 淺田家朝日嬢・花柳三鈴

 と引き続き出演している。

 その後、花菱〆吉と出会いコンビを結成。松竹芸能に所属した模様か。結成年は不明であるが、1953年には既にコンビを組んでいる様子が、当時の大福帳よりうかがえる。

 コンビ結成後は、主に松竹系の劇場に出演――していたようであるが、劇場も手薄で、再建も少なかったせいか、ストリップ劇場の幕間漫才に甘んじる事もあったという。

 この頃、相方の横暴と借金に苦しんでいた正司歌江と再会。自らも苦しい生活にも関わらず、彼女の身を案じ、お金とアドバイスを与えて、歌江を立ち直らせた。

 その経緯は、歌江の自伝『女やもん』に詳しいので引用。

 子供のころ、よく出演した松劇も、今では映画館になっています。でも、富貴亭とストリップ演芸館は相変わらずやっていました。
 ふと看板をみあげると、「花柳貞奴」姐さんの名があるんです。
「新興演芸当時、よう可愛いがってくれはった貞奴姐さんや。ひと目会いたいな。この劇場はストリップが中心やから、姐さんはきっと幕間漫才やろ。思いきって楽屋にたずねていこう。そして、なにかいい道をつかもう。姐さんは、きっと相談にのってくれはる」  
 そう決心して、楽屋に入りました。貞奴のお姐さん。ウチです。歌江です……。お元気でしたか」  
 ここまでいうのがせいいっぱいで、あとは二人がだきあって泣くばかりです。
「歌江ちゃんはどうしているんだろう。うまくやっていればいいけど、いったいどこで、 なにをしているんだろうと、年ちゅう気にはしていたけど……」  
 お姐さんも泣きっぱなしでした。
「お姐さん。ウチはどうしたらええのか、もうさっぱりわからへん。いい方法があったら教えてはしいワ。事情をお話したように、いまの正男がたまらなくイヤなの」  
 お姐さんは楽屋の衣裳箱から、着物を七、八枚とりだすと風呂敷につつまはりました。 「歌江ちゃん。なにもいわずにわたしについておいで……。それにしても、その恰好はなんですよオ。ずいぶん苦労したんだねえ」  
 そのまま、姐さんのあとについて、近くの質屋ののれんをくぐったんです。
「衣裳八枚で、三千円貸してくれたよ。このお金、みんな歌江ちゃんにあげたいけど、いま亭主が病気で寝ているの。だからお医者に薬代をはらわなきやァならないの。千円はわたし、二千円を歌江ちゃんにあげる。ただひとついっとくはけど、歌江ちゃん、死んだらダメよ。どんなことをしても生きぬいていくのよ。生きているうちが花……。ゼッタイに死ぬなんて気をおこさないでね。生きていさえすれば、かならず花の咲く時もあるんだから」 
 ウチは、お姐さんのところへお金を借りにいったわけではないのに、貞奴姐さんは黙ってウチにニ千円もくれはりました。 
 ウチの姿が、よほど哀れにみえたのに違いありません。ヨレヨレの着物、チビた下駄。手入れもロクにしない頭に、やつれきった顔。骨と皮ばかりにやせて、みるからにみすぼらしく、 哀れをさそったのでしょう。お姐さんは思いもかけぬ情けをかけてくれはったんです。
「おおきに。お姐さん、このご思は決して忘れません」  
 と、ウチは心のなかで泣きました。
「お姐さん。ありがとう。ウチはこれからすぐ大阪に帰ってきます。こんなにお金をもろて、ウチ一人でつかうのはもったいない。子供の顔をみに大阪へいきますおおきに。おおきに、 お姐さん」

 この援助がきっかけで、歌江は大阪から富山へと移る事が出来、結果として憎き相方と縁を切る事が出来た。その後、「かしまし娘」として大スターの階段を上っていくのは、言わずもがなであろう。

 その後、民間放送が勃興し、漫才も復興した後は千土地興行に移籍。千日劇場に出演するようになる。

 海原お浜・小浜と並んで、達者な女流漫才、音曲を使わないしゃべくり漫才のコンビとして売り出したが、お浜小浜には秋田実というパトロン・理解者がいたこともあって、後年出し抜かれることとなる。

 それでも、腐る事なく千土地の大看板として君臨。節真似や踊りを鮮やかに見せる芸風は、漫才のお彩りとして最適であった。

 このコンビの芸風を三田純一は、『昭和上方笑芸史』の中で、

 新旧ということでいえば、ふたりの漫才はもちろん旧の部類に入るわけだが、どんな舞台でも気を抜くということがなく、つぎからつぎへと唄や踊りを披露する。いうなれば、”芸尽し”を見せるのである。 またしてもわたしは、そこにかつての漫才、いや万歳の”遊び”という余裕を見たのである。

 と記している。短いながらも名評といったところか。

 千土地興行が迷走し始めたころ、松竹芸能に移籍。浪花座、角座といった大劇場に出演し、やはり貴重な女流漫才として貫録を示した。

 1973年頃まで活躍をしたが、〆吉が事故に遭い、引退。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』によると、

 米朝 ……花菱〆吉・花柳貞奴。この貞奴はんという人は安来節の全盛期にむこうからスカウトされて来た人で、晩年までちょいちょい訛が出た。そら大変な美人で、私らの知ってる時分はかなりの年やったけども、それでもきれいな人やと思いました。東京へ行って、浅草あたりでえらい人気やったそうです。節がよかった。浪花節はうまかった。
 上岡 〆吉さんの方は花菱という屋号ですね。
 米朝 これはやっぱり女道楽におったンかな。貞奴はんの方は花柳になっているけども、それはなんでか知りません。〆吉さんという人は大きな人やった。あの人は市バスでケガをして、それで保障が市から出た。本当は半年か十カ月かぐらいで不通に歩けるようになってンだけど、保障の方がええというてやめてしまいよった。
 上岡 晩年は太っているのを利用して舞台でひっくり返り、それでなかなか起き上れないという、痛々しい芸をしてたとか(笑)

 本当に引退してしまったというのだから、いい加減だと思う反面、女芸人の厳しさ、虚しさをうかがわせるエピソードであると思ったりもする。

 詳しい事情は相羽秋夫『演芸おち穂拾い』にも書いてある。

対照の妙強調して 花菱〆吉・花柳貞奴

漫才は対照の妙を楽しむ芸である。
 性格や考え方、賢愚などいろいろあるが、体の対比もまたその一つだ。
 ノッポとチビ、デブとヤセなど代表的なものだ。 花菱〆吉・花柳貞奴の女性コンビは、そのデブとヤセの典型的なコンビだった。
 ドラム管のような〆吉が、のっしのっしと力士が歩くようなしぐさで登場すると、骨と皮ばっかりの貞奴が、いっそう体をちぢめて浮くようにして後に続く。 これだけで場内はもう大爆笑だ。
 漫才でも落語でも頭の数分は自分たちのペースに乗せるための、”客つかみ”に腐心する。 だが彼女たちは、この大小のコントラストをことさら強調した登場だけで、ぴたりと、”客つかみ”をしてしまった。
 さて漫才が始まると、〆吉はいっそうおおらかに陽気でしかも男性的な発想のおしゃべりをする。
 一方、貞奴はあくまで貞淑につつましく上品に、あたかも大和なでしこのごとく振る舞うのである。
 彼女たちは千日劇場が閉館されるまでつき合った後に角座に移籍した。
 だがまたたくまに角座で重要な地位を占めたのは二人に実力があったからだ。
 しかし、〆吉が楽屋入りの途中でバスが急停車したために転倒し、それが原因で入院生活を送るようになり、この稀代の名コンビ解消してしまうのである。

 結局、〆吉は舞台に戻ることなく廃業。それに伴い、貞奴も引退した。

 1986年時点(『相羽秋夫の演芸おち穂拾い』より)では、両人行方不明となっているようであるが、『女やもん』が出た1983年時点では貞奴は健在。

 晩年は病気がちで入院していたというが、かつて助けた正司歌江が人気スターとなって、お小遣いを送ってくれるようになったという。そのお金で入院したり、晩年を過ごした模様である。『女やもん』の一節を引用して、この項目を終わりにしよう。

 この貞奴姐さんは、その後もずっと、貞奴・〆吉という名コンビで活躍してはりましたが、〆吉姐さんのほうが交通事故にあわはって、九、十年前からずっと舞台を休んではります。 相方が倒れてしまっては、やむを得ず休演せなあきません。 お年も八十歳近いので……。
 現在は、御身体の具合が思わしくなく、入院生活を送ってはります。一日も早くお元気になってほしいと祈りながら、お仕事がんばってるウチです。
 そして、忘れもしない三十二年前、黙ってウチに二千円もくれはったお姐さんに、いまウチができるご恩返しといったら、月に一度、わずかなお小づかいをお送りすることくらいです。 貞奴組さんいつまでもお元気で、長生きしてちょうだいと、ウチは心から祈っています。
 近くの公園にすてられている犬や猫を、みんなひろっては家で育ててはりました。ほんま心やさしいお姐さんです。

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