中村種春

中村種春

 人 物

 中村  なかむら 種春たねはる
 ・本 名 ??
 ・生没年 1893年~1963年以降
 ・出身地 京都

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。砂川捨丸の相方の一人として知られている。

 出身は京都。中村種代は実の妹にあたる。

 幼い頃から邦楽を中心に諸芸全般を仕込まれた。生年は『笑根系図』を参照にした。

 人気者になるまでの経緯が『日刊ラヂオ新聞』(1926年6月8日号)に掲載されている。以下はその引用。

 けふ俚謡雑曲を放送する中村種春さんは樋口興行部の専属で
 安来節を初めて、浅草に紹介して、今日の如き隆盛の基を作つた功労者である。又新鴨緑江節を作歌したり、その振り付けをしたりして、大正十年頃、浅草の人気を一人で背負つてゐたのは其の頃の人は皆御承知の筈である、
 種春さんは京都の生れで、浄瑠璃、琴、其の他ヴァイオリニストの洋楽器に至るまで、鳴物の総てに手をつけないものがない程で、藝熱心の事は驚くばかりである。
 十年三月御園劇場で安来節の本場出雲から玄人を連れて来て、萬歳其の他色々のものを取り交ぜて好評を博した。萬歳は鼓をもつたり頭をふつたりする下卑た所があるのを高級に直したのが、今の唄道楽で、快活な、男性化した所が人気の焦点になつてゐるのである。

 これが経歴の紹介としては優れているだろう。但し、上京以前の、所謂漫才師としての経歴が抜けているため、補足すると――

 京都で生まれ、幼い頃から芸を仕込まれた彼女は寄席や巡業などに出演。その内、剣舞師の辰巳小次郎と結婚し、夫婦となる。

 1912年、辰巳小次郎の友人で漫才師の砂川捨丸が、神戸新開地・日の出座で漫才興行を演じる為に、相方としてスカウトに来る。

 当時、神戸では漫才の興行が禁止されており、捨丸の進出は漫才の命運をかけた挑戦だったようである。吉田留三郎『まんざい風雲録』では、この挑戦にまるまる一章を割いており、種春のことも出てくる。以下はその引用。

まず第一に相方を決めなければならない。当時のコンビの結びつきは今ほど、緊密なものではなかった。太夫と才蔵、今のボケとツッコミの職分が明瞭に分かれていたので割合気楽に付いたり離れたりしていたものであった。捨丸の芸仲間に辰巳小次郎という剣舞師があり、その妻君は中村種春といって当時、女流としては一流であった。特に乞うて種春を相方とし、これを頭に二十人あまりの一座を組んだ。種春は、捨丸の後半生の相棒となった中村春代の師匠である。

 以降、捨丸とコンビを組んで巡業などをやっていたが、事情あってコンビを解消し、立美三好とコンビを組む。

 上記の通り、1921年3月、浅草御園劇場に出演するようになる。但し、彼女一人が安来節を持ってきたと評するのは聊か誇張であり、彼女の前にはすでに大和家八千代、大津検花奴などがいた。

 1922年からは落語睦会に入会。「滑稽掛合 立美三好・中村種春」として定席に出演するようになる。やっていた事は関西色の強い、上方漫才のようであったそうだが、日本チャップリン・梅廼家ウグイスと共に漫才啓蒙の先駆けの一人として評価してもいいかもしれない。

 1922年6月、ヒコーキレコードから「掛合噺」を吹き込み。この他、4枚安来節などを入れている。

 それからしばらくして一度、立美三好と別れ、東京にやってきた若手漫才師の横山太郎とコンビを結成。安来節一行を中心に、東京や横浜の劇場に出ていたが、1923年9月1日、横浜で関東大震災に遭遇。相方の横山は重傷を負い、自らも職場や仕事道具を失ってしまった。

 相方の負傷を機にコンビ解消。この時、治療の為に一足先に帰った横山は、復活後に横山エンタツと名を改め、上方漫才を代表するスターとして一世を風靡する。

 震災を機に一度大阪へ帰るものの、1924年の1月には再び上京を果たし、復興の最中にある寄席に出ている様子が『都新聞』などから伺える。

 以降は巡業と東京を行き来する日々を過ごした模様。

 1926年6月8日、『俚謡雑曲 諸国音頭づくし』と称してJOAKに出演。共演は、唄・立美三好、中村なたね、囃子・中村種二。実際は歌づくしの名を借りた漫才であったようだが、放送局が漫才という概念そのものを嫌がったため、このような形になった模様。なお、紹介欄に「巡業の合ひ間に放送」とあるのが、当時の種春の状況を示していて、面白い。

 当時の番組表を見ると、『河内音頭』『山城音頭』『福知山音頭』『伊勢音頭』『江州音頭〜葛の葉〜』『鹿児島音頭』『上州音頭〜鈴木主水〜』『支那歌』とメドレーで演じている。

 この放送後、まもなく北海道の巡業に出発。『都新聞』(1935年8月7日号)の記事がこの巡業とするならば、同行者は、中村種春一行と弟子の種太郎、種次郎。漫才の加藤瀧子、荒川末丸・艶子であったという。

 この巡業は北海道の寒さと厳しさが見事に露見した御難の旅だったそうで、弟子の中村種太郎、種次郎が寒さから発病したり、一座の看板・加藤瀧子と対立をするなど、決して成功したものではなかったようである。

 一冬を北海道で過ごし、1927年に帰京。同年8月3日の『都新聞』に、

▲凌雲座 變更せる一座は
力春、染團蔵、月子、芳子、仲子、菜種、種二、小鶴、鶴子、時奴、お萬、種春、天洋一座外

 とある。この頃、弟子であった中村種太郎、種次郎と相反し、彼らを破門にした。

 破門された二人は後に、朝日日出丸・日出夫と改名して、中村種春が去った後の東京で再出発を果たし、東京漫才を代表する名コンビとして売れに売れた。入門から破門までの顛末は『東京漫才のすべて』を見てください。

 その後は、東喜代駒や大和家かほるといった東京の漫才師たちに人気を押されがちになり、東京での出番も少なくなる。

 それでも中村種春一行として活躍し、リーガルレコードから「三曲萬歳」を数枚吹き込んでいる。

 1929年ころは、玉子家春夫とコンビを組んだらしく、『都新聞』(2月11日号)に、

▲新富演藝場 十一日より五日間、花の家連、立花家銀猫、同猫丸、岡田小鶴、中村力松、玉春、捨六、玉子家春夫、中村種春等

 とある。間もなく大阪に帰った模様であるが、1930年代より勃興する吉本の漫才ブームには一切関与せず、いつの間にか芸能界の第一線から姿を消してしまう。引退した模様か。

 但し、1961年にまとめられた『笑根系図』には健在と記されているので戦後まで市井の人として生きていた模様か。

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