華井秀子・八千代
八千代・秀子(右)
人 物
華井 秀子
・本 名 藤野 秀子(旧姓・金田)
・生没年 1905年7月1日~1980年以降
・出身地 大阪 玉造
華井 八千代
・本 名 吉竹 芳子
・生没年 1910年12月6日~1980年以降
・出身地 京都
来 歴
戦後活躍した女流漫才師。但し、芸歴自体は古く、二人とも戦前からの漫才師である。秀子は松鶴家団之助の妻で、良きパートナーであった。生年月日は、『出演者名簿 1963年度』から割り出した。
その経歴は、大谷晃一『おんなの近代史』の中に詳しい。
秀子は、建築請負の父と髪結いの母の間に生れる。家は相応に豊かだったが勉強きらいなため、二年しか学校に行かなかった。幼い頃から芸事が好きで、14歳の時に無断で伊賀上野の花街に飛び込んで、芸者となり、親から勘当される。
しかし、花街の厳しさや芸を教えてくれない反発から、半年で飛び出し、親に詫びを入れて復縁。親も折れたのか、三味線と踊りを習う事を許してくれた。間もなく両親を立て続けに失い、叔父の元に身を寄せる事となった。
1926年春、22歳の折、就職口を求めて上京。下宿先で三味線を弾いていると、隣の家に住んでいた杵屋の師匠にスカウトされ、安来節の山崎政子の一座に入団。月給65円という高給取りであった。
本人は下座や伴奏で穏便に済ませたかったようであるが、達者な腕を見込まれ、高座に座らされた挙句、座長から「踊りを踊ってくれ」と頼まれ、「二人奴」を踊らされる羽目になる。
この頃、団之助と出会い、相思相愛の関係となる。叔父に婚約の話をすると、「河原乞食」と大変な剣幕で罵られ、駆け落ちを決意。当然、勘当される羽目となった。時に1926年の秋。
団之助は妻帯の身にもかかわらず、駆け落ちして、所帯を作ったというのだから、すごい話である。
『女性セブン』(1969年4月16日号)掲載の『お笑い天王寺村村長松鶴屋団之助(70歳)一代記』に
「震災でまた大阪へ逆戻り。 そこで見合結婚したもんの、 3年後には、当時の一座にいた華井秀子(山崎政子一座で三味線を弾いていた)にホレ込んでかけおちや。……へえ、いまの女房だす。」
と、ある。
以来、団之助と所帯を持ち、大阪へ帰阪。良き夫婦生活を築くことになるが、旦那とコンビを組むことはなく、他の漫才師とコンビと組んでは別れる、という変則的な行動を送っていた。
但し、レコード吹込みはしており、藤の家秀子の名前で、オリエントから「歌かるた」を出している。1928年6月吹込み。『おんなの近代史』によると、
漫才をやった最初だっか。何と蓄音機の吹き込みダ。あ、いまはレコードと言いまっか。あのころ、漫才も蓄音機もはやって来よったんダ。相方はお父さんだした。夫の松鶴家団之助のこと。男同士で組んでいたが、吹き込みは女の相方やないとと言われて、わてがやりましてン。欲にからんでナ。夫婦やさかい、お金がまるまる入る。これが大失敗やった。わて、漫才は初めてやが度胸はよかった。お父さんがわてのことを気イにして絶句ばっかり。夫婦でやったんこれ一遍きりダ。
帰阪後は、当時吉本が力を入れていた安来節の地方や女道楽の一座に出入りをして稼いでいたが、夫の浮気への悲憤慷慨や周りの勧めもあり、漫才に転向。
1931年9月、西川ヒノデとコンビを組み、京都花月で初舞台を踏む。ヒノデのバイオリンにあわせて三味線や踊りを興ずる音曲漫才であったという。
当時としてはハイカラな芸風が受けて掛け持ちをするようになるものの、三番叟から抜ける事が出来ず、間もなく肺を患ったためにコンビを解消。肺を患った直後、京都富貴からオファーが来たため、運が悪いと思ったそうな。
その後は家庭におさまり、養生がてら家事育児(姉の子を養子としてもらった)にいそしんで、時折舞台に出る、不規則な日々を送っていた。
戦時中は夫について、慰問団へ入団。全国を回った。
1945年8月6日、広島の原爆に遭遇。偶然、海田市へ買い物へ出ていたため、直撃は免れ、命拾いをしたという。朝倉俊博『流民烈伝風のなかの旅人たち』 の中に、
昭和二十年八月、松鶴家団之助一座は広島を巡業していた。
歌謡曲、漫才、踊りの一座二十二人のうち、原爆でたすかったのは、団之助さんと使いに出ていたオカミさんの金田秀子さんだけだったのである。宿屋の下敷きになって苦しんでいた三人を助けるのがせいいっぱいだったという団之助さんの首すじには、まだケロイドが少し残っている。その三人も間もなくなくなり、一座はほぼ全滅してしまったのである。
とあるが、生々しい。
戦後、命からがら大阪へ戻り、天王寺村で夫と共に芸人斡旋会社をはじめた。
1949年、松鶴家小八千代とコンビを組み、「華井秀子・八千代」と改名。
一方の八千代は、初代松鶴家千代八の門下で、松鶴家小八千代と名乗っていた。若い頃の活躍はよくわかっていないが、戦後、桜川末子とコンビを組み、一時期やっていた事がある。
末子と別れた後、同門で古くからのよしみであった秀子とコンビを結成。所謂女道楽風の漫才で、やせぎすの秀子と大柄の八千代の対比、二人とも三味線を器用に弾き鳴らし、踊りなどを踊る――「萬歳」の匂いを残したものだったらしい。
コンビ結成後、千土地興行に入社。千土地系の劇場に出演。後年、松竹芸能へと移籍し、やはり、松竹芸能系の劇場に出演していた。
1967年、仕事の数が多く辛く感じるようになったため、松竹芸能を退社。退社後も、団之助興行の看板として、1970年代後半まで、地方巡業や小さな寄席などで、古風な漫才を見せていた。
1979年、団之助の死に伴い、秀子が一線を退いたため、八千代もこれに従ったようである。
引退後、秀子は団之助興行社の後を継ぎ、八千代は隠居生活を送っていたようであるが、古い漫才の再現や三曲万歳などがあると、これに出ていたという。
1979年2月28日、サンケイホールで開催された『上方漫才今昔大絵巻』の幕開きで演じられた「三曲万歳」に出演している様子が、足立克己『いいたい放題上方漫才史』に出ている。
1980年発行の『上方演芸人名鑑』を読むと、その健在が明らかになっている。この後、間もなくして二人とも亡くなった模様か。
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