浅田家ニット・エミコ

浅田家ニット・エミコ

ニット・エミコ(右)

楽屋でくつろぐニット・エミコ(左端の二人)

 人 物

 浅田家  あさだや ニット
 ・本 名 武本 南斗
 ・生没年 1913年11月4日~1980年以降
 ・出身地 大阪?

 浅田家  あさだや エミコ
 ・本 名 武本 笑子
 ・生没年 1924年11月18日~1980年以降
 ・出身地 大阪?

 来 歴 

 戦前戦後活躍した夫婦漫才師。名門「浅田家」の屋号を最後まで守り通したコンビでもあった。

 二人の経歴は、『上方演芸人名鑑』に詳しく出ている。以下はその引用。

浅田エミコ あさだえみこ 【漫才】
本名武本笑子。一九二四年(大一三年)~
夫浅田ニットと共に浅田家朝日門下生。昭二〇年九州で初舞台。この時、浅田家エミコを名のる。女性のつっ込み役として高度のテクニックを持つと定評があった。とぼけた味の漫才で芸輪を感じさせたが、現在は引退。

浅田ニット あさだにっと 【漫才】
本名武本南斗。一九一三(大二)~
浅田家朝日に入門。はじめ浅田家ニットで妻エミコとコンビを組む。昭五年新宮の日の出座が舞台。趣味は野球と映画である。軽妙なおしゃべり漫才。現在は引退した。

 また、生年月日は『出演者名簿1963年度』から割り出した。

 関係者所蔵の『角座パンフレット 1966年8月のお笑い号』に、詳しい経歴が出ていたので引用する。ご協力御礼申し上げます。

◆ニット・エミコのご紹介

浅田ニット(本名武本南斗)十七才で浅田家朝日に弟子入り、日東、朝一で新宮市の日の出座が初舞台、その後全国へ巡業、昭和十年台湾へ座長として二ヶ月間、城日東、松月の名で巡業したこともあり、フォンタクトや、蝶々師と共に出演していたと いう。昭和十七年、神戸千代廼座で現在のエミコとコンビを結成、エミコ(本名笑子)は会社社長の長女で十九才、福岡丸山劇場へ朝日笑子で出たのが初舞台だという。ベテランコンビである。

 朝一、松月は兄弟弟子にあたると思うのだが、詳しい事情や経歴は判らない。以下はご提供いただいた画像の引用。

 また、噂の領域であるが浅田家ニットは韓国人だったともいう。

桂米朝『上方落語ノート』によると、

日東さんは韓国人でことばにちょっとなまりがあったが、よい声で節真似や数え歌をやっていた。世話好きな人で、私もはじめて新世界の寄席に出た時に、親切にいろんなことを教えてもらった。岡山県の田舎に夫婦ともに健在……と聞いたのはもう十年前ぐらい前のことだ。

 とある。

当初、「浅田家日東」と名乗っていたらしく、「笑根系図」などでは、その記載になっている。この芸名は「日本」の別称である「日東」からきており、戦前らしい芸名であると同時、師匠の「朝日」の名前にかけてあるのではないか、と推測する(朝日は東から昇る)。

 エミコの経歴がバラバラなのはどうしたものだろうか。詳しいことは知れないが、少なくとも戦後に本格的にコンビを組んだ、と解釈すべきか。

 戦後は松竹演芸に所属し、角座や神戸松竹座などに出演。淡々とした舞台を勤めていたそうである。中でもエミコのカンの優れたツッコミと意気は中々定評のあるものだったと聞く。

 実力のわりには、出番には恵まれず、いつも浅い出番で済まされている様子が、『松竹80年史』などで散見される。

 1960年代、なぜか「浅田ニット・エミコ」と改名したが、パッとすることなく(それでも角座の三番叟などには出ていて、全く売れていないわけではないのだが)、1970年中盤に入ると、自然消滅し、そのまま引退した。

 1980年発刊の『現代上方演芸人名鑑』には、引退と明記されているものの、健在扱いになっている事から、晩年は静かに暮らしていた模様か。米朝によると「岡山の田舎にいた」との事である。

コメント

  1. 椎木 より:

    エミコの没年が1954年となっていますが、1960年代以降も活動していたという記述と矛盾していませんか?

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