玉子家志乃武

玉子家志乃武

 人 物

 玉子家  たまごや 志乃武しのたけ

 ・本 名 山崎 ?
 ・生没年 ??~1936年1月前後
 ・出身地 ??

 来 歴

 玉子家円辰の門下だったらしいが、詳らかではない。「笑根系図」等の系図などにも出ていない。芸名は篠竹の洒落であろう。但し、何を持って篠竹としたのかは不明。

 河内家一春などとほぼ同年代だったことを考えると、明治末~大正前半に円辰の門下に入った模様か。

 昔は山崎志乃武といったらしく、砂川捨次とのコンビでレコード吹込みをしているのが確認できる。

 大正末に、山崎次郎とコンビを結成。このコンビは比較的長く、人気もあったようで、レコード吹込みもしている。『レコードコレクターズ』(1994年5月号)掲載の岡田則夫『蒐集奇談』に、

▼玉子家志乃武・山崎次郎

 玉子家志乃武の盤は、大正末の金鳥印7インチ盤が古く、ほかにオリエントの電気盤初期に「結婚ローマンス・明烏」(60319)、タイヘイに「古跡調べ」(4908)、「でたらめ問答」(14958)、「二つ分け」(14995)がある。タイヘイ盤はニットー大衆盤のレーベルで再プレスされ、息長く売られた。

 とある。

 1927年12月、弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」に、山崎二郎とのコンビで出演。

 1928年頃には、吉本興業に参加しており、『落語系図』の中の「昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名」に、「玉子家政夫・玉子家志乃武」とあるのが確認できる。但し、この頃、山崎次郎と組んでいたはずであるが――

 1935年頃、次郎とのコンビを解消し、河内家一春とコンビを変えて再出発を計ったものの、間もなく病に倒れ、1936年1月前後に亡くなったらしい。

『ヨシモト』(2月号)に河内家一春が『亡き友志乃武を懐ふ』と称して追悼文を出している。以下はその引用。

 志之武、次郎のコンビで、一種他に真似手のない舞台を勤めて、好評を拍してゐたが、偶々病のために、舞台を退き静養して再び舞台上の活躍を約して立つた時に、その相手に選ばれたのが私でした

 日頃から、舞台熱心な志之武は、楽屋に於手、種々、演技のために、頭を痛めて、「あの所は、あゝして、此の所はこうして」と、暇のある度に、私と相談を重ねて、やつと、舞台上の気持が一つに溶け合つた此の頃に、志乃武君を失ふ事は、文字に表はせない侘びしさであります。

 色々と、相談し、色々と思ひ附いた新材料を、発表し得ず、冥土へ往つた志乃武君よ、思はず乍ら、その何分の一かを私が舞台で演じる事が、何よりも、君のための手向草であらうと信じてゐる。友よ、地下よりの声援を望む。

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