玉子家志乃武

玉子家志乃武

 人 物

 玉子家  たまごや 志乃武しのたけ
 ・本 名 山崎 ?
 ・生没年 ??~1936年1月前後
 ・出身地 ??

 来 歴

 玉子家円辰の門下だったらしいが、詳らかではない。「笑根系図」等の系図などにも出ていない。芸名は篠竹の洒落であろう。但し、何を持って篠竹としたのかは不明。

 河内家一春などとほぼ同年代だったことを考えると、明治末~大正前半に円辰の門下に入った模様か。

 大正末に、山崎次郎とコンビを結成した模様。『上方落語史料集成』の昭和2年7月下席の広告に

△京町堀京三倶楽部 花橘、文治郎、光鶴、扇遊、次郎・志乃武、小円太、嘉市・捨市、小文枝、升三、円太郎。

 とあるのが確認できる。しかし、その後わけあってコンビを解消。砂川捨次とコンビを組みなおす。

 △千本長久亭 竹馬、助六、小円太、扇遊、文治郎、志乃武・捨次、勝太郎、次郎・団之助、春団治、ざこば、清子・喬之助、ニチ〳〵・へうたん、三木助。

 ただ、このコンビも一年は続かなかったと見えて、再び山崎次郎と復縁。『大阪時事新報』(12月12日号)に、

◇忘年バラエテイー 南地花月では吉例の忘年演芸会を十一日から開演、連日大車輪の稽古を続けて居るが、就中封切演芸で期待されているは「世相レビユウ」数景で、枝鶴、蔵之助、福団治、円枝、三八、千橘、小春団治、染丸等の熱演と三曲伴奏「義民宗吾」で円馬、千橘、五郎、小春団治、花次、歌江、慶司、次郎、志乃武、金之助等共演。尚北新地花月倶楽部は忘年幹部競演大会を開く。

 次郎とのコンビは、人気もあったようで、漫才が勃興する以前から、南地花月や北新地花月といった吉本の名門劇場に出演した。

 レコード吹込みもしている。『レコードコレクターズ』(1994年5月号)掲載の岡田則夫『蒐集奇談』に、

▼玉子家志乃武・山崎次郎

 玉子家志乃武の盤は、大正末の金鳥印7インチ盤が古く、ほかにオリエントの電気盤初期に「結婚ローマンス・明烏」(60319)、タイヘイに「古跡調べ」(4908)、「でたらめ問答」(14958)、「二つ分け」(14995)がある。タイヘイ盤はニットー大衆盤のレーベルで再プレスされ、息長く売られた。

 とある。以下はレコード吹込みで確認できるもの。

 1925年12月、特許レコードから『数へ唄』。

 1930年11月、オリエント『結婚ローマンス・明烏』。

 1930年12月、ヒコーキ『変った世の中・新婚旅行』。

 1935年1月、タイヘイ『古跡調べ』。

 1935年2月、タイヘイ『でたらめ問答』

 1935年3月、『二つ分け』。

 山崎志乃武名義のものもあり、砂川捨次とのコンビでレコード吹込みをしているのが確認できる。なぜ改名したのかはわからない。

 1927年12月、弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」に、山崎次郎とのコンビで出演。

 1928年頃には、吉本興業に参加しており、『落語系図』の中の「昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名」に、「玉子家政夫・玉子家志乃武」とあるのが確認できる。但し、この頃、山崎次郎と組んでいたはずであるが――

 1935年頃、次郎とのコンビを解消し、河内家一春とコンビを変えて再出発を計ったものの、間もなく病に倒れ、1936年1月前後に亡くなったらしい。

『ヨシモト』(2月号)に河内家一春が『亡き友志乃武を懐ふ』と称して追悼文を出している。以下はその引用。

 志之武、次郎のコンビで、一種他に真似手のない舞台を勤めて、好評を拍してゐたが、偶々病のために、舞台を退き静養して再び舞台上の活躍を約して立つた時に、その相手に選ばれたのが私でした
 日頃から、舞台熱心な志之武は、楽屋に於手、種々、演技のために、頭を痛めて、「あの所は、あゝして、此の所はこうして」と、暇のある度に、私と相談を重ねて、やつと、舞台上の気持が一つに溶け合つた此の頃に、志乃武君を失ふ事は、文字に表はせない侘びしさであります。
 色々と、相談し、色々と思ひ附いた新材料を、発表し得ず、冥土へ往つた志乃武君よ、思はず乍ら、その何分の一かを私が舞台で演じる事が、何よりも、君のための手向草であらうと信じてゐる。友よ、地下よりの声援を望む。

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