平和日佐丸(五代目)

平和日佐丸(五代目)

平和日佐丸(五代目)

 人 物

 平和 日佐丸ひさまる
 ・本 名 夜久 秀二郎
 ・生没年 1925年1月14日~1983年以降
 ・出身地 京都

 来 歴

 五代目平和日佐丸は戦後活躍した漫才師。松鶴家光晴、平和ラッパという大御所と組み、名ツッコミという形で高く評価されたが、師匠連中に早く死なれた。優れた腕を持ちながらも廃業をしてしまった。

 生年は『出演者名簿 昭和38年度版』より割り出した。

 実家は大工の棟梁だったという。『太陽』(1974年4月号)の荒木経惟「藝人楽屋噺」の中に――

「芸人ちゅうと極道の集まりみたいな感じで。そで、うちの親父が大工の棟梁でね、ソデかたばんでね、偏屈でも酒も飲まんちゅな、親父が、そんな芸人なんちゅうや奴は、もう縁切ってしまうってなこと、だからもうあきらめてたんですわな。」

 また、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』によると、島津製作所に勤務していたという。

京都市生まれ。桃園小卒業後、島津製作所勤務。芸事が好きでラジオのコンクールあらしをしていて浮世亭夢若の目に止まり入門。南秀児の名で昭三四年千日劇場が初舞台。夢若自殺後の松鶴家光晴、さらに島ぼん太とのコンビを経て五代目日佐丸となる。

 島津製作所のサラリーマンとして長らく暮らしていたが、若い頃から歌手や芸人の真似をして周りを笑わせるムードメーカーであったという。

 一方、桂米朝は『米朝・上岡が昭和上方漫才』の中で「交通局に勤務していたとかで、浮世亭柳平と同僚だった」と述べている。ただ、米朝は事実誤認をするところがあるので、前者の方が正しいのではないだろうか。 

 そうした腕を買われる形で、戦後勃興したラジオの「のど自慢大会」に出演し、のど自慢荒らしとして知られるようになった。若い頃は声帯模写を得意としていたそうで、これを武器に荒らしまわったという。

 なお、この頃には既に家族を持っており、子供もいたという。 

 1957年7月、朝日放送から『漫才教室』が放送されるようになると、子供を引き連れて出演するようになった。その内、黒崎清次という男と仲良くなり、即席コンビを組むようになった。この黒崎も後にプロとなり、ルーキー清二と名乗る。

 自身と黒崎の子供たちも漫才教室に出し、親子で賞金稼ぎをしていたというのだからこれもいい加減な話である。

 漫才教室では優秀な成績をおさめ、すぐさま卒業生になってしまったという。一方、その凄まじい技量を当時のスタッフの澤田隆治に認められたそうで、漫才教室のアシスタント――という形で芸能界に関与することとなった。

 氏の遺作『ルーキー新一のイヤーンイヤーン人生』によると――

 黒崎さんは『漫才教室』に出演したときは、夜久秀二郎さんとコンビを組んでいた。夜久さんについては覚えている。卒業試験に合格した第一号だったと思う。『漫才教室』への応募は毎週二~三百組あり、このうち葉書選考した二十~三十組が予選会(オーディション)に来ていた。当時新朝日ビルの十二階にあったりハーサル室が会場だったが、番組スタッフは私ひとりだった。かけ持ちで数番組を担当していた私は、収録やら編集があり、とてもひとりでは手が回らない状態だった。
 そこで予選会の整理など、アシスタント業務を夜久さんにお願いしていた。しばらくして夜久さんは番組の司会者だった浮世亭夢若の弟子になった。夢若が和歌山の白浜で急死したあと、一時、師匠・夢若の相方の松鶴家光晴と組み、浮世亭秀若と名乗っていたこともある。その後は二代目平和ラッパとコンビを組み、三代目平和日佐丸を襲名している。

という印象を記している。

 漫才教室に関与している内に浮世亭夢若からスカウトされる形で、入門。「南秀児」と名付けられる。

 売れっ子であった師匠の付き人からスタートをしたという。師匠に従って千土地興行と契約を結んだ。

 1959年、鈴木覚という同世代の男と組んで、「南秀児・北伸児」としてデビュー。

 1960年10月、師匠の夢若が自殺をしてしまった。その後は師匠の相方であった松鶴家光晴や大師匠の浮世亭夢丸の庇護を受けたという。

 1963年頃に伸児とコンビを解消。この前後で松竹芸能へと移籍している。

 1964年、松鶴家光晴から誘われる形で「松鶴家光晴・南秀児」として結成。師匠の夢若のリズムを生かした掛合漫才を演じるようになった。

 夢若のリズムのモノマネは非常にうまく、光晴も感心する出来であったという。

 1966年11月には、まわりの推挙を経て「浮世亭秀若」と改名。「松鶴家光晴・浮世亭秀若」と往年の屋号が並んだという。光晴もこの復活に喜び、NHKの山川静夫に対して、「秀若といういい相方ができてうれしい」とこぼすほどであった(『上方芸人ばなし』より)。

 光晴の薫陶もあって、秀若の話術はメキメキとうまくなり、改名後は往年の夢若・光晴に負けないような輝きがあったという。

 しかし、その光晴も1967年6月に急死。これに伴い、コンビを解消することとなった。

 その後は島ひろし門下の島ぼん太とコンビを結成し、「浮世亭秀若・島ぼん太」。ただ、このコンビは長く続かず、すぐに解消をしている。

 しばし浪人をしていたが、1968年に平和ラッパが日佐丸(夏川左楽)とコンビを解消したのを機に「コンビを組まないか」という話が出るようになった。

 この話を承諾した秀若は「浮世亭秀若」の名を夢丸に返上し、「五代目平和日佐丸」を襲名した。

 我の強かった夏川とは違い、五代目はあくまでもラッパを立てる方針を貫き、ラッパの信頼を勝ち得た。五代目自身も「自分はラッキーボーイや」と自覚している節があったという。

 ラッパを好き勝手にしゃべらせておいて、要所要所で少しハスキーなドス声で「アホ!」と一喝する呼吸のうまさは、晩年のラッパの輝きを取り戻すのには充分であったという。

 1970年、ラッパと共に第5回上方漫才大賞奨励賞を受賞している。

 1971年、吉本興業へ移籍し、大看板としてトリを飾るなど出世ルートを歩んでいった。

 平和ラッパの看板もあり、多くの演芸番組に出演している。晩年の映像や音源はワッハ上方に残っており、今も見ることができる。

 1974年には、『太陽』(1974年4月号)の荒木経惟「藝人楽屋噺」に特集され、今もその素顔を見ることができる。数少ない芸談でもある。

 そのラッパも1975年5月に急逝し、コンビを解消。当時、夫を失ったばかりの木村栄子とコンビを組む話が持ち上がり、コンビを組むこととなった。

 今度は木村栄子をボケ役に回して、徹底的にケチョンケチョンにされるという女性優位漫才を展開したが、なかなか嚙み合わずに時が過ぎた。結局進展がないまま、1977年6月にコンビを解消している。

 なお、ウィキペディアなどでは「木村栄子とのコンビ解消後、すぐに廃業」と記されているがこれは嘘である。

 その後はピン芸人という形で残留し、上方演芸協会には残っていた。1980年頃まで「平和日佐丸」と名乗っていたが、この頃に日佐丸を返上し、「平和万丸」と改名。

 1983年頃までこの名前が名簿に出ている様子を確認できるが――。この頃すでに還暦になろうとしており、いい相方も見つからなかったこともあって廃業した模様か。

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