菅原忠丸・ミスリリー

菅原忠丸・ミスリリー

 人 物

 菅原すがわら 忠丸ただまる
 ・本 名 仲井 久七
 ・生没年 1907年~1970年代以前
 ・出身地 関西?

 ミス・リリー
 ・本 名 仲井 武子
 ・生没年 1926年~1970年代以前
 ・出身地 関西?

 来 歴

 菅原忠丸・ミスリリーは戦前戦後活躍した漫才師。玉子家円辰の高弟、菅原家千代丸の流れをくむ漫才師で、中堅格として活躍。ただ、そこまでの大ヒットを飛ばせなかった。

 忠丸の経歴は『笑根系図』などから割り出した。菅原家千代丸門下の菅原家忠々の門下だったそうで、前名は小忠といったそうな。

 若い頃は、同門の菅原家忠太と組んでいた模様か。太平洋戦争開戦直前にリリーとコンビを組んだ模様か。リリーのデビューは相当早い模様である。

 漫才としては八木節を主体とした音頭漫才、それに紙芝居を使う漫才をやっていたらしい。それが原因で、1941年に警察にしょっ引かれている。『朝日新聞』(1941年3月12日号)に、

漫才紙芝居にお灸

健全娯楽の確立に乗り出した警視庁では、さきに喜劇役者等三名に対し出演禁止の行政処分を行ひ、目下新宿映画館で上映中のアトラクション『オッサンの底力』等に対して警告を発したが、さらに十一日漫才家菅原家忠丸、同リリーに両名に出頭を命じその内容につき厳重警告を與へた
両名は浅草公園六区松竹演芸場(元玉木座)で八木節音頭漫才と紙芝居を出演中であるが、産めよ殖やせよと銘打った出し物『まゝ子三次』が容易な時局便乗であるばかりでなく、紙芝居の絵も残忍軽薄で時局柄不謹慎であるといふのである

 1943年結成の帝都漫才協会には第一部に所属しており、「菅原家忠丸」の名を確認できる。

 戦前は浅草を中心に活躍していたそうで、主に籠寅の舞台に出て居たことが確認できる。大津検花奴・菊川時之助永田一休・繁子などが看板として競い合っていた。

 戦後は大阪へ戻り、西成区に住んでいた。

 戦後も細々と舞台に出て居たようであるが、1960年代には休業扱いにされている。引退していた模様か。

 そのくせ1970年代頃まで、関西演芸協会に所属している様子が確認できる。如何せん謎が多いコンビである。

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