千歳家今次・今若
千歳家今若・今次(右)
人 物
千歳家 今次
・本 名 村田 庄太郎
・生没年 1907年3月30日~1971年4月19日
・出身地 奈良県 橿原市
千歳家 今若
・本 名 村田 安太郎
・生没年 1910年9月10日~1987年頃?
・出身地 奈良県 橿原市
来 歴
戦前戦後活躍した兄弟コンビ。亭号の通り、花菱アチャコの名相方であった千歳家今男の門下生。実の兄弟であるにもかかわらず、小柄で丸坊主の兄・今次とノッポでふさふさの弟・今若という特異な対比で大うけをとった。
また、弟の今若は兄よりも芸界入りが早く、兄が後輩という複雑な関係を持っていた。兄の風貌を武器に飄逸として焦らない、地口や間を大切にする軽口のような漫才を得意としたという。
二人の生年は、『出演者名簿1963』及び『日本演芸家名鑑』より割り出した。
『日本演芸家名鑑』によると、出身は奈良県橿原市。実家は文房具屋であったという。倅二人を両方ともに同業の文房具店へ奉公に出したところを見ると、なかなか大きい文房具屋だったのだろうか。
学校卒業後、今次は文房具屋へ就職。30近くなるまでまじめに働いていたというのだから、根は真面目な人物だったようである。
一方の今若は、なかなか夢と血気の多い人物だったようで、文房具屋奉公をしながら、家出や他の職種への転向を試みるなど、なかなか骨があったようである。
成人する直前には、鉄道乗務員にも憧れたそうで、『日本演芸家名鑑』の中で、
各私鉄乗務員にあこがれ、試験に合格したが、兵隊甲種合格のため中止になりました。
友人のすすめで笑いの道へ入りました。得意の芸は、ものまね。
と語っている。ただ、この前後関係は不明。文房具屋→兵役→文房具屋というべきだろうか。
奉公時代の勤め先と血気盛んな行動は、『サンデー毎日』(1936年11月28日号)掲載の『笑ひの人国記』に詳しい。
古い都、奈良から漫才師今若、歳男のコンビの今若が出てゐる。
少年時代、奈良女子高等師範学校前の、常川といふ文房具屋の小僧をしてゐた。ところが、そこの小僧や番頭の三人組、なか/\の不良で、われ等一生、番頭で終るべきか否や、と決議した末、こりゃかうしてはゐれないと、青雲の志を一まとめにして、三人でどろんをきめ込んだ。落ち行く先は勿論東京だつたが、途中で金がなくなつて、とう/\静岡でとまつた。そして、だから無論、この青雲の志は、クリーニング屋の配達に化けてしまつた。が、これは追手につかまつて、奈良に連れ戻されてしまつたが、どうしても、これが止まらず、徴兵検査がすむと、すぐ大阪に飛び出して、現在アチヤコとのコンビである今男の弟子に入つて今若と名乗つて現在になつてゐる
そうした血気盛んさに親も折れたと見えて、芸人になる事を許した。
1932年頃、千歳家今男に入門して、「千歳家今若」と名付けられる。兄弟子の千歳家歳男とコンビを組んだ。
1933年1月、さっそく京都の「千本中立売長久亭」の中席に抜擢され、コンビとして華々しくデビューを飾った。出演者は、
▲千本中立売長久亭 喬之助・三木助、一郎(曲芸)、扇遊、小春団治、千枝里・染丸、蔵之助、福団治、八重子・福次、歳男・今若、染丸、五郎・雪江、照子・菊丸、おもちや、三馬、愛子・光晴、笑福亭竹馬等。
以来、若手漫才のホープとして吉本系の劇場に出演し、腕を磨く。その頃の芸風や逸話は、千歳家歳男を参考にしてください。
1936年3月15日、全国中継の「花月劇場漫才大会中継」に出演し、「チョンマゲ氏とハイカラ君」を演じている。出演は砂川菊丸・照子、秋山右楽・左楽、林田十郎・芦の家雁玉。
ボクシング漫才、サイレント浪曲、コント仕立ての漫才など、華やかで奇想天外な発想を旨とする漫才で人気を集めたが、1938年5月の舞台を最後に、千歳家歳男が出兵したため、コンビを解消。
コンビ解消後、何故か浪花家市松とコンビを組みなおし、同年夏に再出発。『上方落語史料集成』に、
(八月)二十一日より
△南地花月 小雀、清・クレバ、柳正・寿郎、小円馬、今若・市松、幸児・静児、春団治、今男・アチャコ、金語楼、エノスケ・エンタツ、芳男、菊春・太郎、五郎・雪江、三木助、九里丸、静代・文雄。
とある。このコンビで半年ほどやったようであるが、今次が文房具屋業を捨てて、漫才界入りしたため、コンビを解消。兄も「千歳家今治」と名乗り、今男門下へ入った。
1939年1月、千日前三友倶楽部で「今治・今若」の兄弟漫才として初舞台を踏む。今若・歳男時代と比べると看板が落ち、不遇な扱いを強いられたが、めげずに漫才の勉強をつづけた。一部資料では「戦後コンビ結成」とあるが、これは嘘である。
この頃の今次にはまだ髪があり、その特異な髪型と薄毛から「逆さまつげ」なる綽名があったという。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、
こいし その時分、〈吉本の七不思議〉というのがあったンや。全部は忘れてしもたけどね、「空気をかき分けて吸う」のも七不思議のひとつ。それから「出番を舐める男」。これは砂川豊丸さんという人。
いとし ものすごいド近眼でね、ラムネの瓶の底みたいな眼鏡をかけてね。
こいし それで、縦に長い出番表にピッタリと顔を近づけて見る。「出番を舐める男」。「逆まつ毛」というのも、
いとし 千歳家今次・今若……、
こいし 兄貴の方ね。
米朝 今次さん。
こいし あのころは頭をおかっぱにしてたから、
米朝 ヘー、
上岡 もちろんハゲる前ですわね。
こいし もちろん、もちろん、ハゲる前。
米朝 きれいにないようになってしもたもンね。
いとし ですから、まだ気にしているころですよ。少ない毛やからカールになっている。
こいし それを櫛で前髪をといどる。で、「あッ、逆まつ毛!」。これは戦後のことになるンやけど、MZ研進会の時に兄貴が病気かなんかでスケて(代りに出番に出る)もうたことがあるねん。むこうも兄弟やし、お互いのネタを知っているから、「兄弟漫才やろか」「やろか」というてやったら、漫才が合えへん。
と、その逸話が詳しく語られている。この頃の友人に、永田小キング、宮田洋容がいた。
地道な活動が報われ、1941年頃より南地花月などに出演できるようになったが、太平洋戦争勃発に伴い、活動が制限されるようになる。
1943年頃まで舞台へ出ていたが、間もなく両人ともに兵隊や徴用に取られたと見えて、コンビ活動を停止せざるを得なくなった。
戦後、無事に大阪へ戻ってきた二人はコンビを組みなおし、秋田実の斡旋で「MZ研進会」に所属する事となった。この頃、兄は「千歳家今次」と改名した模様か。
ここで、夢路いとし・喜味こいし、秋田Aスケ・Bスケ、ミスワカサ・島ひろしなどと交遊を結んだ。
ただ、秋田実を私淑しながらも、秋田実について行く事はせず、早くから松竹芸能へ入社。宝塚新芸座にはこれと言って関与しなかった。
以来、松竹芸能の中堅として、戎橋松竹や角座などに出演。如何にも淡々として、全く邪魔にならない「微苦笑」の漫才を旨とし、間をたっぷりとって、洒落や地口をぶっ放す独自の手法を編み出した。
その芸風の片鱗は、『上方漫才黄金時代』の中にある『大阪神戸案内』ほか、ワッハ上方に「お笑いクイズ」なる音源から察することができる。一例を挙げると、
今次 それに腹立ち山
今若 今何言うたんや?
今次 お前も眠たいんか……(間)……腹立ち山!
今若 腹立ち山…………ああ、あのイカリ山と違うか。
今次 どっちでも一緒や、腹立てておるんやから。
今若 そんな洒落を言うな、アホやな
今次 洒落は神戸の名物や。
今若 なんでや?
今次 シャレコウベ……いうて。
如何にも「軽口」の趣ある、不思議な漫才である――と評しておこうか。爆笑派ではないが、品の良い落語のように素直に笑える、味のある芸である。
その芸は、大衆というよりも、玄人や仲間内で高く評価される芸だったようで、上岡龍太郎は『上岡龍太郎かく語りき 私の上方芸能史』の中で、
○ 美しい動きの漫才
松竹系の漫才では、(千歳家)今次・今若さんが好きやったな。ぼくらもネタをパクッたりしましたけどね。あれはええ漫才でしたね。片方の人が頭が禿げてるんです。高座へ出るなり、相方が禿げてる頭のほうは全く見ないで、頭を火鉢に見立てて手をあぶりながら、
「ああ、寒なりました」
と言う。なんともいえんあの芸が好きでした。型があった。漫才に動きというか歌舞伎のような所作、目線の決まりがあったんですね。
出てきたところで客席におじぎをするんですけど、浅くもない、深くもない。歩いて出てくる時の姿勢の中に、すでに「ようこそいらっしゃいました」という気持ちが入ってるんですね。それがもう挨拶になってるんですよ。ぼくらでしたら、
「ようこそいらっしゃいました。ノックです。フックです。パンチです!」
とはじめるから、これは「はい、やってまっせ」という嘘になるんですね。
と、激賞している他、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中でも、
米朝 あれは従兄弟なんです。それからそれから千歳家今次・今若も兄弟。
上岡 今次・今若……。よかったナー、好きやったナー。
米朝 淡々とした、ええ味やった。
上岡 あの、飄々とした。何ともいえんムードでした。お客が最初はザワザワしててもだんだんと聞き込んで来るという。
米朝 急きも慌てもせンとやってるからね。
上岡 舞台へ出てきて、今若さんが、今次さんのツルツルの頭に手を火鉢にかざすみたいにしてね(笑)、ジィ――と客席を見てるだけですわ。何も言わへん。今次さんも最初のうちは黙ってンねんけど、そのうちにチラッと手をかざしている今若さんの方を見るだけでお客がワッ――と笑うというね、それでも何もいわん。ただ頭にあたってるだけ。それで、「寒くなりましたなァ」と、そこで初めて、「ええかげんにせェ!」てつっ込むンやけど、それまで全然つっ込まない。のちに柳次・柳太さんの柳太さんのデボチン頭に同じことを柳次さんがやってましたけど、「寒いなァ」とあたったら、すぐに「ええかげんにしなさい!」。あれはやっぱり間がもたンのですよ。よっぽどの勇気がいるか、芸があるかですわ。
米朝 芸でもつというのはね、そら花蝶・勝美でも今次・今若でもね、普通はあんだけ間がもてンわね。
上岡 ああゆうやりなれた味の漫才というのは、もう恐らく何万回とやっているんだろうなというのが分りやすそうな舞台なんですよね。昔の漫才というのは練習して練習してアドリブらしくみせるというね。
と、褒め合っている。
1954年9月30日、「浪花演芸会」に出演。共演はいとし・こいし。
1956年6月14日、「浪花演芸会」に出演。共演は都家文雄・守住田鶴子、浮世亭歌楽・ミナミサザエ。
長らく松竹の看板として活躍していたが、1960年後半に吉本興業に移籍。理由は知らんよ、以降は、花月系の劇場に出演し、相変わらず枯淡な芸を見せていた。
60過ぎても意気揚々と舞台への出演、新作への挑戦を続けていたが、1971年4月、今次が自宅で昏倒し、急死。コンビ解消をする運びとなった。
以下は、『読売新聞夕刊』(1971年4月20日号)の「黒板・訃報欄」に記載されたもの。
▽千歳家今次氏(本名・村田庄太郎=漫才師)十九日午前八時五分、大動脈出血のため、大阪市東住吉区田辺東の町三の二〇七の自宅で死去。六十四歳。奈良県出身。葬儀は二十一日午前十時から自宅で。
昭和十四年一月に初舞台、弟の今若とコンビを組んだのは戦後からで、典型的なしゃべくり漫才のベテランだった。
そして、以下は『朝日新聞』の訃報。
余談であるが、今次の妻で喪主の富子と今若の妻は姉妹で、弟の今若は姉娘と、兄の今次は妹娘と結婚したため、戸籍上では「実兄で義弟」「実弟で義兄」というすさまじい構造が出来上がった。今次がこれで役所に行って、関係者を当惑させた――と、志摩八郎は『漫才』(4号)の中で書いている。
残された今若は、吉本の仲間で同じく古株の松本さん吉とコンビを組んだが、気風のいいさん吉とは間が合わなかったと見えて、1年足らずでコンビを解消。
その後は、ピンで模索していた模様であるが、結局うまくいかず、古巣の松竹演芸へと戻り、兄弟子の千歳家歳男の後を受けて、新花月の頭取に就任した。相羽秋夫は『上方演芸人名鑑』の中で、「かつてのコンビが頭取に就任とは何かの縁だろうか」というような事を書いている。
以来、1981年の新花月閉鎖後まで頭取として活躍。若手たちの動向を静かに見守っていた。
また、松竹芸能の養成講座の講師としても活躍し、芸人志望の若者や若手たちの先生役として、嘗て鍛え上げた腕前や話術を叩き込んだという。
そのため、新花月閉鎖後も芸人を引退することなく、関西演芸協会に籍を置き続けた。詳しい経歴が『日本演芸家名鑑』に残ったのも僥倖だったと言えよう。
1987年の名簿まで名前が見えるが、以降は見えなくなる。没したか、完全に引退したか。
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