三人奴

三人奴
(塚本やっこ・市松笑顔・市松笑美子)

三人奴
(左から笑美子・やっこ・笑顔)

和朗亭での一席

 人 物

 塚本つかもと やっこ
 ・本 名 塚本 利秋
 ・生没年 1914年7月13日~1987年1月20日
 ・出身地 大阪市 東淀川

 市松いちまつ 笑顔えがお
 ・本 名 塚本 ソデ子
 ・生没年 1916年11月3日~2004年3月25日
 ・出身地 高知県 土佐市

 市松いちまつ 笑美子えみこ 
 ・本 名 松本 年恵
 ・生没年 1928年3月4日~1999年1月1日
 ・出身地 大阪府 東大阪市?

   来 歴

 戦後活躍した音曲漫才トリオ。元来は「塚本やっこ・市松笑顔・市松笑美子」名義であったが、通り名の「三人奴」がいつの間にかグループ名となった。義太夫をベースにした華やかで味わいの深い音曲漫才で独特の境地を開拓した。やっこと笑顔は実の夫婦。笑美子は笑顔の妹に当たる。

やっこの経歴

 塚本やっこは、大阪市の生まれで、父は俄師の塚本百合春。なお、一部文献には「塚本利夫」とあるが、『日本演芸家名鑑』などを見ると、「利秋」とある。こちらが本名のようだ。

 百合春は1876年の生まれというのだから古い。元は、扇子家玉四郎の弟子で、歌舞伎や俄、何でもできる人だったそうである。この扇子家玉四郎という人物は、上方漫才の鼻祖の一人、扇子家豊丸と関係があるらしい。

 余談であるが、この玉四郎の一座にいた一人が、中田ダイマルを漫才界に誘った当人であったりする。百合春も長らく「やっこ會」なる一座を有しており、多くの若手を相手にバラエティショーをやっていた。ここに一時いたのが、やはり中田ダイマルで、つくづくダイマルとは縁のある人であった。

 そんな父を持ったせいか、幼い頃から芸事好きで、昔は歌舞伎役者になりたかったというのだから、なかなかのものである。『大阪朝日新聞・夕刊』(1966年2月9日号)掲載の『ざい界紳士録』に、

「子供のころから声がよかったそうでんな」
 ――だれが?「わたしが……」やっこが言う。七ツ八ツの時、小学校をサボって、近所の人を集めては秋水(註・日吉川)や雲月(註・天中軒)の節マネをやったという。とんだ“浪曲教室”である。

 と茶化されているが、そんな子供であったがゆえに、学校もろくろく行かず、早くから芸を仕込まれた。

 『上方演芸人名鑑』などによると、1921年に安来節の一座に入座し、大阪松島中島席で初舞台。

 ただ、『日本演芸家名鑑』に出た当人のプロフィールでは、1924年、歌舞伎ナンセンス一座で初舞台、ということにしている。しかし、この歌舞伎ナンセンスは三日月太郎主宰のものなので、少し謎が残る。

 早くから父と漫才師をやっており、その頃から「塚本やっこ」と名乗っていたのだから古い。百合春のバイオリンに合わせて、合奏する漫才が人気があったそうで、やっこ当人は、高木浩志『文楽に親しむ』の中で、

 あゝ、ご機嫌さん。私でっか? 子供の時分から、親父と漫才してたんですわ。親子漫才。親父は塚本百合春いう名で、バイオリン持って、私はその時分から塚本やっこいう名で、細棹でっけどもう既に三味線弾いてました。
 今の言い方したら音曲漫才ですわな。しゃべくりだけやなしに、「安来節」とか「春雨」とか「大津絵」、それに「数え歌」、そんなんを合奏でやってました。そうです。漫才のこっちゃさかい、当り前の文句だけやなしに、ちょっと変えて、駄洒落あり、下ネタもあり、時事ネタもありちゅうとこです。
 多少とも義太夫らしいもん言うたら、吹き寄せ浄瑠璃いうのもようやりました。親父の百合春は、だいたい根が仁輪加の出ですよって、漫才の中途で仁輪加仕立てになって、お前浄瑠璃知ってるか、そんなもん位誰かて知ってるがな、ほなちょっとやってみい、というようなことで、無茶苦茶言うて笑わしまんねん。カンカンノキューレンソーとか訳のわからんこと。

 と語っている。以来、父の一座について旅回りしたり、父と一緒に他の劇団の釜の飯を食ったり、と旅役者の親子の生活を送っていた模様。

 最近やっと続編が出た『近代歌舞伎年表 名古屋篇 第14巻』(1925年)を早速読んでみたところ、実に面白い記事が見つかったので引用する。「少年万歳 塚本奴」として売り出されている記事。

 年代的、百合春の名前が確認できるところから見ても、後年のやっこさんその人で間違いないだろう。そして、1925年夏は、名古屋を回っていることが分かったのもよい塩梅である。以下は、『近代歌舞伎年表 名古屋篇』からの引用。

七月一日〜(三)日 六時より 高砂座

 出雲本場正調安来節 大阪音羽会一行
 少年万歳 塚本奴

七月四日〜(七)日 大黒座

 出雲正調安来節・少年万才

七月九日〜十一日 八幡クラブ 

 少年万才・本場安来節
 大阪音羽会・塚本奴

七月二十二日〜二十四日 午後五時開演 宝生座

 出雲正調安来節 音羽会一行
 【出演者】音羽絹奴・音羽静子・八千代・喜代子・千代子・二三子・歌蝶・鈴子・塚本奴・桂喜代楽・宮川文男・曽我の家喜楽・杉原梅月・桂歌助・塚本百合春

 この役者時代の弟子に南長三郎(1914年~1987年以前)がいる。この人も、後年漫才師となったが、師匠と比べると売れずに早く廃業した。

 成人後、父と一緒に、砂川女捨丸と三日月太郎の一座「ナンセンス歌舞伎」に入座。南長二郎なる二枚目の名前を名乗った。この女捨丸こそ、後年の妻となる市松笑顔その人である。

市松笑顔の経歴

 妻となる市松笑顔もまた芸人の子供として育った。父は三日月太郎という舞踊劇団の元締めで、やはり地方巡業で人気があったという。

 一部文献では、「義太夫語りの父・三日月太郎」と書かれたりするが、これは誇大解釈の模様である。もっとも、演芸一座の座長とだけあって、何でもこなす達者さがあり、義太夫も素養の一つとして覚えていたのは事実で、やっこは『文楽に親しむ』の中で、

 この人は旅役者でっけど、義太夫を習うたことがあったらしゅうて、自分で太棹持って弾き語りして、娘の笑顔、その時分砂川女捨丸いう芸名でしたんやけど、これに踊らしてたんですわ。

 私、この三日月太郎一座で、初めて太棹の音聞いて、この音にすっかり惚れてしもたんです。そいで、ちょいちょいいじらしてもろてたんでっけど、もともと俗曲や民謡とはいえ、三味線弾いてましたよって、ちょっと位棹が太なっても撥大きなっても、ツボや弾き方がそないに違う訳やなし、じっきに慣れて、割合と楽に「火の見櫓』なんかやれるようになりました。

 と語っているのだから、実力はあったのだろう。義太夫漫才の他にも、ナンセンス歌舞伎で演じる『吉野山』や『野崎村』を演奏するなど実力はあった模様。

 この三日月太郎という人は、1887年頃の生まれ、元は佐賀家峰吉という舞踊家の門弟で、佐賀家小吉と名乗っていたらしい。

 早くから独立し、「佐賀家小吉舞踊劇団」を名乗っていたが、後年何でもありの演芸一座に移行するにあたって、「三日月太郎」に改名した模様。後年、長崎島原の少女歌舞伎の座長を勤め、西日本を中心に回っていた。

 市松笑顔と笑美子はその三日月太郎の娘であったという。しかし、『早起き名人会』の塚本やっこ追善の中で、ゲストの足立克己が「二人は実の姉妹ではない」というような事を語っている。こういう説が出てこられると困ってしまう。

 もっとも、当時は養子や貰い子が今よりも何かと行われていたので、全く否定できないわけでは、ない。

 また、『現代日本女性人名録』や『上方演芸人名鑑』などを比べ読みすると、出身地が全然異なるのが驚く。多い記載は、「土佐市」と「島原市」である。

 夢路いとし・喜味こいしのように、両親の巡業先で生まれた模様で、『読売新聞朝刊』(1993年11月13日)掲載の『生涯現役 漫才師市松笑顔さん77 父と、夫と……お笑い一筋』には「どさ回り先の土佐で生まれ」とある。育ちは「島原」だった模様。

 芸人の親を持った関係から、笑顔も笑美子も早くから芸事を仕込まれた。特に義太夫を十八番にしていたせいか、親から義太夫や音曲を厳しく仕込まれたという。

 4歳で初舞台を踏み、三味線、鳴り物、舞踊、浄瑠璃を会得。当初は、天狗いちまと名乗り、さらに、出雲小ろくと改名して、父親の三日月太郎と親子漫才に転向。

 その為、学校にはろくろく行けず、長い間、読み書きには不自由し、独学で勉強したという逸話が残っており、『文楽に親しむ』の中で、やっこが、

 学校なんか行きまっかいな。自慢やおまへんけど、私も笑顔も笑美子も、字なんて知りまへん。今でも台本もろたら皆仮名付けな。

 と語っているほど。

 後年、砂川女捨丸と改名し、全国を巡業するようになる。本家の砂川捨丸に許可をとっていたのかはわからない。父親とコンビで全国を回り、時には慰問隊として、満州や台湾にも行ったという。この辺りは結構謎が多い。

やっこと笑顔の結婚

 23歳の時、小樽の劇場を抜け出して、駆け落ち。この駆け落ちは、相当なものだったらしく、当のやっこは、『大阪朝日新聞・夕刊』(1966年2月9日号)掲載の『ざい界紳士録』の中で、

 やはり芸人であった父と入った一座が「女捨丸一座」。そこで座長である女捨丸と恋をした。その女捨丸こそが今のコンビの笑顔である。このトリオの十八番は”人形振り”。いまは、笑顔の妹の笑美子が人形を勤めているが、その昔は女捨丸の十八番。 
 で、若きやっこと女捨丸はカケ落ちをした。笑顔は、その人形振りの”お七”の化粧のまま……いかにも義太夫トリオらしい恋の道行である。 

 と語っている。勘当のような形で家を飛び出した二人は、流れ流れて浅草に居住し、同地で夫婦漫才を始めた。

 しかし、東京では一向に伸びなかったと見えて、長らくドサ回りの漫才に落ち、辛酸を舐めたという。1943年の帝都漫才協会の名簿には二人の名前は出ていない。

 もっとも、後年結婚を認めてもらったらしく、「そうこうするうち、お定まりの成り行きで、その女捨丸、今の笑顔ですわな、それと私が結婚することになる、父親の三日月太郎は隠居する、そんなことで自然と、三日月太郎がやってたことを私がするようになった、そんだけのことだんね。」と語っている。

 三日月太郎の一座にいた事は非常に財産になったと見えて、『文楽に親しむ』で、

『千本桜の道行』では、忠信を笑顔がやって、静御前は別の女の子がやってましたわ。これも忠信と狐忠信と五回位早替りして。こら若い女がやりますよって、まあそこそこ綺麗で、それが売り物でっさかい、茶化さんとやります。ほんで、藤太とか花四天とかが、道頓堀行進曲〽赤い灯青い灯いうあれでからんで来て、まわりの人が笑い取ってました。 これも、浄瑠璃は三日月太郎がカゲで弾き語りしてました。
 他にでっか? 『野崎村」なんかもやりました。梅の木と門口だけの大道具で、「野崎小唄」で幕明けて、〽逢いに きたやら南やらのお染のサハリからやるんですが、これも当時流行の「籠の鳥」で〽逢いたさ見たさにこわさを忘れ、 これで久松を尋ねて来るわけです。お光の方を人形振りにしてやってましたわ。

 結局ね、今漫才てやってるのは、この芝居のやり方をヒントにしてるわけですわ。今でこそ古いやり方でっけど、 その時分は新しすぎたんでんな。お客さん皆本物知ってはるよって、ようおこられましたがな。真面目にやらんかい! いうて。

 と、なかなか鋭い事を語っている。この徹底的なナンセンスぶりや何でもありの行き方は、後年の芸風のくさびとなった。

 その三日月太郎も1942年、55歳の若さで死去。やっこ夫婦は大きな心のよりどころを失う事となった。

 戦時中は一座を結成し、ドサ回りや慰問などで食いつないだ。この頃、旅回りの歌舞伎役者たちから義太夫を習い始めるようになる。但し、本式の義太夫を貪るように聞いて、ネタを仕込むようになるのは、戦後の事であった。

 その頃は、ナンセンス歌舞伎の名残を残した――所謂寸劇風の舞台を演じていたらしい。また笑美子もたびたび参加していたため、実際はもう少し前から「三人奴」のようなことはやっていた模様。

 当時は、「引き抜き壺阪」というような芸をやっていて、三人で舞台に出、笑顔と笑美子が一度舞台を掃け、やっこがうまくここでつなぐ。そして、お里択市に扮した笑顔と笑美子が寸劇をする――というようなもので、カツラに衣裳まで用意して演じる凝ったものだった。

 戦中・戦後にかけて三人の子供に恵まれるが、この子供たちが負担になり始めたため、戦後、一座を解消し、大阪へ居を構える。

 1949年、塚本百合春が73歳で没している。この父の死もまた、やっこ夫妻を大阪に居を構えさせる要因になったのではないだろうか。

三人奴の結成

 一座解消後、演芸社回りの日々が続くが仕事もなく、「紙芝居屋に転向したろか」と思い悩むほど、売れない日々が続いた。

 1950年7月、次男の利一誕生。この子が後年の塚本小やっこである。

 1950年、市松笑美子を正式に迎え入れ、『三人奴』を結成。

 新しく加入した市松笑美子は市松笑顔の妹。足立克己は「非姉妹説」を説いているが、実際のところは不明。「東大阪市」と紹介している資料があるが、これは巡業先で生まれたと見るべきか。実際の育ちは「島原市」である。

 姉同様、芸事を厳しく仕込まれ、9歳の時、父の主宰する「歌舞伎ナンセンス一座」に出演。体が柔らかかったところから、「人形ぶり」を厳しく仕込まれ、これを後年まで演じていた。

 姉が一座を離脱した後は、父とコンビを組み、親子漫才として活躍する傍ら、巡業していたようであるが、父亡き後は姉夫妻の一座に籍を置き、一緒に行動をした。

 そのため、姉夫妻とは非常に気心が知れていたそうで、兄の一座の花形として活躍。寸劇では「森の石松」の石松や「助六」の助六など、男役を演じる意外な一面もあったという。

 結成後間もなく、戎橋松竹に出る機会があり、1950年初舞台を踏む。

 この時の初舞台は散々なもので、当人たちが恥じたほどのものであった。『大阪朝日新聞・夕刊』(1966年2月9日号)掲載の『ざい界紳士録』で、

「はじめて戎松(えびしょうー戎橋松竹といった寄席)へ出たときは、気ィつかいましたわ」  
 かつての女座長が言う。  
 戎松といえば、終戦直後、大そう権威のあった寄席である。そのお囃子(はやし)部屋にデンとひかえているのが、無形文化財の林家トミ。これが口やかましい。
「なんやあの漫才、三味線にヒモをつけたりして。あのチンチクリンの男、袴(はかま)が上すぎるがな」  
 舞台をやっているうしろから、こんな声が聞える。  
 カケ落ち二回の猛者(もさ)もこれには参ったそうである。 おかげで三味線はヒモで肩からかけることをやめ、抱えたままで弾けるようになったそうである。

 とあるが、とんだ初舞台であった模様。

 そんな結果だったせいか、戎橋松竹から敬遠されたと見えて、再び、端席やドサ回りに明け暮れる羽目になる。『米朝上岡が語る昭和上方漫才師』の中でも、

米朝 三人奴(塚本やっこ・市松笑顔・市松笑美子)、この人らもズッとドサ廻りをしていたので中央へ出たのはだいぶあとからやった。この人も太棹の三味線やね。嫁はんの笑顔さん、あの人はたしか元・役者や。

 と、米朝は隠す所なくずけずけと語っている。

 この頃まで、先述の「引き抜きお里沢市」のような寸劇漫才をやっていたが、「白塗りして扮装までするなんて、ドサ臭い、そんなことせんと芸で勝負しろ」と叱咤激励を受け、再出発を決意。全ての衣装やカツラを売り払った。

 また、苦しい生活の中で、三味線をぶら下げずに弾く方法をあみ出し、舞台衣装も見極めるようになり、そして本行の文楽の方へと通った。

 当時、焼け残った唯一の劇場「四ツ橋文楽座」に通い詰め、紋下の山城少掾を筆頭に多くの名人上手の義太夫に接し、三味線の間や語りを盗み取った。

 ただ、漫才のネタにするために通い詰めたため、本行の語りを一段語れるほどの自信はなかったそうで、後年、「このごろ、あんた文楽の出でっかとか、何段語れまっかと問われて、顔赤なります。」と、自嘲するように述べている。

 やっこ曰く、「文楽のネタでっか? 『酒屋』『野崎村』『お俊伝兵衛』『朝顔の大井川』『櫓のお七』、仇討するお初あれ何でしたかいな、ああ『加賀見山』、それに『先代萩の政岡』、そんなもんでっかいな。それに『壺阪』もやります。」としている。これから漏れた物に、『寺子屋』『葛の葉』『阿波の鳴門』がある。

 それでも、本式の舞台に接し、舞台を盗んだことは、後年の三人奴の大きな財産になったのは言うまでもない。

 当時、浪曲風の音曲漫才が主流の中で、義太夫を前面に打ち出す舞台を展開。そうした背景には、二つの理由があったそうで、

「旅で受けていて、大阪でも文楽座で義太夫を毎月やっているから、お客は本物を知っている」

 という自信と、

 「橘家太郎・菊春、五条家松枝・菊二、二葉家吉雄・静弥といった漫才師が義太夫を堂々とネタにして、漫才の大看板になっていた」

 と、いう期待からであった――と『文楽に親しむ』の中で語っている。

 そんな苦労が実を結び、再び中央の舞台へとお呼びがかかるようになり、1955年頃、松竹演芸へと参加。角座や浪花座といった檜舞台へと登場し、新鋭の音曲漫才トリオとして大いに売り出した。

 一時期、千土地へ移籍したこともあったが、すぐに松竹へと戻った。

 太棹のやっこに、細棹の笑顔・笑美子が舞台に出、市丸の『三味線ブギ』の替え歌で、

 三味線栗毛でシャシャリツシャンシャン さあさ 歌およ 陽気に浮き浮き 揃た揃たよシャシャリツシャンシャン 一人二人に三人そろって 浮世後生楽 三味線トリオが(三味線トリオが) さあさ浮かれ浮かれてブギウギ あ、ちょいとブギウギ~

 と歌うのが、テーマソングであった。この曲は、三人奴がデビューした前後(1949年)に発表され、大流行した曲なので、その辺りの流行の名残を得たのかもしれない。

 ベースは義太夫であったが、なんでもこなす達者さが売りで、ネタに入る前に、「スットントン節」を逆さまに歌って見せたり、「売り名を忘れて(低脳節ともいう。今日ではNG)」を賑やかに演奏したり、流行歌をひとくさり弾いたり、と凄まじい芸の引き出しを誇った。

 また、本ネタに入ると、「義太夫」のサワリをじっくり聞かせる――と思いきや、「野崎」では「野崎小唄」と「野崎の曲弾」が飛び出す、「堀川」ではやっこ渾身の「猿まわし」が始まるなど、ギャグと本式を渡り歩く、絶妙な間を得意とした。

「親亀の上に子亀を乗せて……」という俗曲を舞台で演奏していたのも彼らで(もっともこのネタ自体は戦前からあり、三人奴の創作ではない)、これも大うけであった。

 基本的に義太夫は、「芸を盗む」事を旨としていたが、一度だけ、義太夫三味線の二代目鶴澤道八について「東海道中膝栗毛 赤坂並木の段」をそっくり教わったことがある。道八は、吉田留三郎の斡旋で教えてもらったという。

 ただし、当人は「位負けしてしもて、結局憶えられずじまい。」だったそうで、テープ録音を許してもらって、そこから覚えたという。やっこ達は謙遜しているものの、その腕前はプロからも相応に認められるもので、非常にいい経験になったようであるが、ネタ自体は「苦労した割にはさっぱりわやでした。」と愚痴っている。

音曲漫才の大御所

 1967年、吉本興業に入社。吉本入社後も、待遇は変わらず、大看板として君臨したが、吉本の客層や、ヤング層には「義太夫」の本式の味が伝わらなかったと見えて、長く苦労をした。

 これ以降、『無法松』『東海道中膝栗毛』といった老若男女でも知っている文芸物や、にわか作りの肩衣や紙吹雪といった小道具や「人形振り」「葛の葉の曲書き」など、形容本意の舞台を展開する所となる。もっとも、放送や劇場に入ると、義太夫の腕をいかんなく発揮した。

  1974年に第9回上方漫才大賞を受賞。1980年には、第10回上方お笑い大賞功労賞を受賞するなど、長年の活躍と功労を労われた。

 この頃、やっこの糖尿病が悪化。然し、当人の根性と執念で舞台に出続けていた。それと同じくして、勤め人をしていた次男・利一が音曲漫才を志願したため、芸を仕込むこととなった。

 1983年に、利一に「塚本冷奴」と名付けて、カルテット体制となる。当時の時世や冷奴の三味線の腕を考慮してか、やっこの引退まで、冷奴はエレキギターを持っていた。

 なお、Wikipediaには「1981年(昭和56年)11月のやっこの糖尿病による引退に伴い、翌1982年(昭和57年)1月に冷奴改め塚本小やっこがリーダーに就き」とあるが、何を出典にしているのだろうか。

 糖尿病の悪化は事実であるが、1982年3月、国立演芸場で開催された「漫才春の名人会」では、息子抜きの「三人奴」で出ているところを見ると、辻褄が合わない。出典が書いてないので何とも言えない状況にある。

 以来、トリオ+息子のカルテットで舞台やテレビに出演。若干ではあるが、その当時の映像は残っている。三味線の後ろでギターの音がするのが、何とも不思議な感じである。

 1984年発行の『上方笑芸の世界』の中に、緻密な三人奴論が出ている。これが貴重な芸風考察でもあるので引用しよう。

 寺山修司は、実際に起こったことも歴史なら、起こらなかったことも歴史だと云った。起こらなかったこと、起こり得たであろうこと、起こって欲しかったことなどは、民衆の間に伝説となってのこっていく。民間伝承だ。こういう民間伝承が、能や歌舞伎、人形浄瑠璃あるいは講談、浪曲といった芸能に結実していった。
 三人奴は歌舞伎の浄瑠璃芝居(いわゆるでんでんもの)を基とした音曲漫才である。
 漫才もどきの芸だ。あらゆる芸能を吸収し、貪欲にもどきながら、漫才は発展してきた。もとをふまえつつ、それをわかりやすく、おもしろくアレンジするもどきの精神、いまでいうパロディである。
 しかし、民間伝承、つまり「起こらなかったことの歴史」を、子や孫に伝えることを親がしなくなって、それらをふまえて成立っている歌舞伎や人形浄瑠璃がいよいよ難解なものになってきた。現代の音楽環境もまた、邦楽からかけ離れたところにある。
 ちょっと昔ならほとんどの観客がわかっていて楽しめたであろう三人奴の漫才も、 今日では楽しめる幅が狭くなっている。しかし、それは三人奴の扱う漫才のテーマが、であって、漫才そのものは、本行の歌舞伎 や人形浄瑠璃ほど難解ではない。そこは漫才の気安さだ。そして三人奴の特徴は、歌舞伎や人形浄瑠璃をふまえているとはいえ、そのもとがわからなければとうてい理解できないようなパロディではない点である。
 これは、同じ歌舞伎をふまえている仁輪加や軽口あるいは落語の芝居噺と違うところだろう。三人奴の場合は、本行のさわりは そのまま観せ、聴かせながら、その間あいだに、漫才的ギャグをインサートするとい う構成である。インサートされるギャグといえば、まず簡易肩衣、一本の棒の両脇に 安っぽい三角の布切れをつけただけのもので、やっこが椅子に腰かけ、太棹でデンデンとはじめて、場内が静まるころ、笑顔がこの肩衣を出してきて、チョコンとやっこの首にかける、やっこ、目を向いて「なーんやこれ、猿芝居じゃがな」……それに、浄瑠璃芝居が山場を迎えて緊張感が昂まった時、やっこが首を前後に動かしながら、 舌をすばやく出し入れしてみせる、そんななんでもないところがおかしく嬉しい。先日、放送局のスタッフと会議中、この舌の出し入れをやってみて、自分で「俺は三人奴か」とつっ込んだら、誰も受けてくれなくてがっかりしたが……。
 それから替え歌、これは、三人奴の漫才 の大きな特色である。
 その他、本格の見せネタとしては、やっこの唄にのせての笑顔、笑美子の扇の松尽くし『芦屋道満大内鑑』葛の葉の曲書き、笑顔が障子に、恋しくばの歌を、下から上へ 書いたり、左手で書いたり、筆を口にくわえて書いたりする。それに、笑顔を遣い手としての笑美子の人形振りなど多彩である。
 歌舞伎や文楽を観るようになったのは学生時分だから、まだ十五年くらいにしかならない。三人奴は角座に出ている頃から観ている。こっちの方がキャリアが長い。三人奴が僕の歌舞伎、文楽入門の手引き書となってくれたのだ。
 その舞台台本を書いたことはないが、四、 五年前のNHK (大阪・BK)ラジオの正月特番用に三人奴の浄瑠璃コントでつづる演芸ジョッキーを書いたことがある。桂ベかこと露の都が夫婦役で狂言まわし、亭主べかこの見る初夢の世界を三人奴で、昔話のパロディを浄瑠璃仕立てでやるというものだ。拙い浄瑠璃の台本であり、舞台の三人奴とは違う昔話の世界でもあったので心配だったが、本読みリハーサルの段階ですっかり仕上がっていたので嬉しかった。ソフトで軽い人あたりの、その人柄は、芸風にもあらわれている、そして、少し毛色の変わった領域へもソフトに軽く翔んでいく、もどき主体の漫才には必要な精神ではないか。
 三人奴には、まだまだもどくことができる世界があるように思える。昔、太棹でプレスリーのロックをやったのを観たことがあるが、いまはどうだろうか。いま三人奴には、現代がどういう世界に映っているのだろうか。もどきたい世界はあるのだろうか?

 これから間もなくして、やっこは本格的に体調を崩し、舞台に立てなくなったため、「冷奴」は「小やっこ」と名を改め、二代目のリーダーとなった。

 1985年には「小やっこ」で出ている記録があるので(国立演芸場の記録)、その前後に倅に禅譲したと見るべきだろう。『読売新聞朝刊』(1993年11月13日)掲載の『生涯現役 漫才師市松笑顔さん77 父と、夫と……お笑い一筋』に「小やっこさんは、故・やっこさんが糖尿病を悪化させて倒れた八年前から後を継ぐ。 」とある所から、ある程度の逆算ができる。

 もっともやっこ自身、引退はせず、死ぬ間際まで関西演芸協会に籍を置き続けていた。

やっこの死とその後

 その後、やっこは闘病生活を送っていたが、糖尿病の悪化のため、72歳で死去。以下は、『読売朝刊』(1987年1月21日号)に掲載された訃報。

 塚本やっこ氏(つかもと・やっこ、本名・塚本利秋=つかもと・としあき=漫才師)二十日正午ジン不全のため、大阪府東大阪市の砂糖高井田病院で死去。告別式は二十二日午前十一時から同市菱屋町二の八の一五の長瀬町公民館で。喪主は長男、一郎(いちろう)氏。

 小やっこがリーダーとなった後は、主に笑美子と笑顔に、若年の小やっこが振り回される漫才に移行。義太夫要素を薄め、歌謡曲や俗曲を多くするなど、現代向きな芸風になった。それでも父が残した芸や笑顔・笑美子二人の「人形振り」「葛の葉」などは健在であった。

 1993年11月13日、『読売新聞朝刊』に『生涯現役 漫才師市松笑顔さん77 父と、夫と……お笑い一筋』と題した三人の記事が掲載される。

 平成に改元した後も、漫才界の大御所としてトップを走っていたが、笑美子が倒れ、1999年1月、70歳で没した。

 以下は、『大阪読売夕刊』(1994年1月4日号)に掲載された訃報。

市松笑美子さん(いちまつ・えみこ、本名松本年恵=まつもと・としえ=漫才師)1日、心不全のため死去。70歳。告別式は4日、大阪府東大阪市で営まれた。自宅は同市上小阪14の5。喪主はおいの塚本小やっこ(つかもと・こやっこ、本名・利一=としかず)さん。

 また、倒れたのは12月だったそうで、『スポニチ』(1月3日号)によると、

 笑美子さんは昨年12月17日に肺の痛みを訴え入院。1日に容態が急変し「(13年前に亡くなった)母がそこに来ている」とつぶやいて息を引き取ったという。

 メンバー2人の死を受けて、笑顔は老齢を理由に引退。「三人奴」はこれにて解散した。

 笑顔は静かに隠居生活をすごしたのち、老衰のため、夫と妹の元へと旅立った。『大阪読売新聞』(2004年3月27日号)の訃報に、

 市松笑顔さん(いちまつ・えがお 本名・塚本ソデ子=つかもと・そでこ=漫才師)25日、老衰で死去。87歳。告別式は近親者で行う。

 残された小やっこは、女性二人と「奴組」なるグループを組んだが、うまくいかず、塚本呉羽なる女性とコンビを組んで「呉羽・小やっこ」で再スタートを切った。

 相方探しの時分、今も東京で活躍している「おしどり」のアコーディオン、「おしどりマコ」氏をスカウトしたこともあったという。

 このコンビで、花月劇場を中心に堅実な活躍、2004年の「M-1」に出演するなど、話題を振りまいたが、飛躍まで行かず、コンビ活動停止に至った模様。

 2021年現在は亭号「塚本」を廃し、「小やっこ」と名を変えて、活動をしている模様。

コメント

  1. tegefo より:

    塚本小やっこ氏、2021年2月現在、吉本興業のサイトに「小やっこ」名でお名前が確認できます。

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