本田恵一・玉木貞子

本田恵一・玉木貞子

恵一・貞子

十八番の缶とヤカンの叩き分け

 人 物

 本田ほんだ 恵一けいいち

 ・本 名 本田 一恵
 ・生没年 1910年3月15日~1986年頃
 ・出身地 愛媛県 中山町

 玉木たまき 貞子さだこ

 ・本 名 本田 貞子(旧姓・小野?
 ・生没年 1913年4月5日~1997年以前
 ・出身地 大阪府 大阪市

 来 歴 

 戦前戦後活躍した夫婦漫才師。人気の第一線に立つことはほとんどなかったものの、茶筒とヤカンの二挺鼓なる珍芸で、晩年人気を集めたほか、てんのじ村を代表する芸人としても知られている。

 その経歴は、『国立劇場演芸場』(1983年9月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅱ)』に詳しい。

 恵一は愛媛県中山町(現伊予市)の出身。実家は木の実問屋を営んでいたそうで、恵一はそこの四人姉弟の三番目。小学校卒業後、実家の手伝いをしていたが、当時軍港で栄えていた広島呉市に勤めていた友人の斡旋で、家を飛び出し、呉市の演芸館に就職。場内係として、雑用を任せられる事となった。

 まじめに働いているうちに、芸人への憧れが強くなり、演芸館が閉まっている昼の間、鳴物のけいこへ出かけ、笛・鼓・太鼓などを会得。これが後年の武器になったのは言うまでもない。

 そのうち、芸人たちとも交流をするようになり、見よう見まねで漫才を始めたのが21歳の時。「沖野光(ヒカル)」と名乗って、立花幸楽という先輩とコンビを組んで、本格的にデビューを果たした。

 呉や広島の演芸館や巡業を専らにして過ごしていたが、1936年ころ、幸楽に死なれ、コンビを解消。その直後に呉の演芸館時代から面識のあった玉木貞子と六年ぶりに再会。くすぶっていた恋心を再燃させ、交際からのゴールイン。

 1937年に夫婦漫才を結成し、「本田恵一」と改名して、「本田恵一・一恵」としてデビュー。

 相方の貞子は、竹の家喜雀の娘。父とコンビを組んだ竹の家桝奴は実の姉。後ろ面踊りで人気を集めた小松まことは、弟。

 早くから芸事を仕込まれ、1918年、父に連れられて上京。「竹の家小茶女」を名乗り、初舞台を踏む。当時の芸風と人気ぶりが、『国立劇場演芸場』(1983年9月号)に出ているので引用する。

 大正七年、父に連れられて上京、竹の家小茶女を名乗 って、人形町末広にお目見得した。
 父の唄にあわせて「奴さん『どじょうすくい」 などを踊ったが「どじょうすくい」では五歳の幼女が、薄汚れた法被を着て、身体に四十八個の豆 電球を点滅させながらの可愛い身ぶりが大受けした。
 この趣向がたちまち評判をよんで、末広以外に 一晚四軒の掛け持ち出演をした。出演料も一円、 二円と値上がりし、最後は一軒六円(もりそば四銭の時代)という、当時の寄席芸人としては破格の値段に達した。
「関東大震災の前の年に帰阪しましたが、その時までに父が手にしていたお金は三千円をこえて、父はこのお金を元手に本業そっちのけ、仲居さんを六人も置く料理屋の経営に乗り出したほどでした。もっとも、私の方は上京して五年近くと いうもの、三百六十五日の一日も休むことのない高座、慰安会への出演でした。あれは上京一年目だったと思いますが、疲れから足がもつれ、末広 の高座からおりた時、柱にぶつかって、右目の下に傷を負いました。その時の傷跡はいまも残っています。いまなら労働基準法違反とかで、父も寄席関係者も、さっそくお上からお灸をすえられるところでしょうね」とニガ笑いした。

 1922年ころ帰阪。帰阪後は小学校に通いながら、芸人生活を送っていたが、間もなく中退し、弟の正夫(小松まこと)とコンビを組んで、「竹の家小升・正雀」。小升が貞子である。ちびっ子漫才で人気を集め、父と共に寄席出演や地方巡業を続けた。その後、しばらくして、「竹の家定奴」と改名した。

 その中で毎年一回以上は仕事をもらって行っていたというのが広島・呉の演芸館で、恵一が係員時代から面識があったという。この広島巡業時代に弟のまことは、一風亭とんぷくなる芸人から「後ろ面踊り」を教えてもらっており、後年の十八番ネタとした。

 長らく面識こそあったものの、恋路には発展せずくすぶり続けていたが、1937年に結婚。父から独立し、夫婦コンビ「本田恵一・一恵」を結成。芸名は、夫の本名から譲り受けたものであるが、夫の本名が妻の芸名で、夫は芸名、という紛らわしい事情を解消すべく、姓名判断により、「玉木貞子」と改名。

 以来、地方巡業を専らに活躍。恵一がボケで貞子がツッコミ、しゃべくりの後に、貞子が三味線を持ち出し、恵一が歌い、貞子が曲弾きする、という音曲漫才主体であった。

 戦前、北九州八幡地区を巡業の際に、町の子供たちが潰れた鍋やバケツやフライパンを持ってきて、チンドン屋の真似事をしている遊びから着想を得て、「ヤカンと海苔缶の二挺鼓」なる珍芸を考案する。

 ヤカンを大鼓、海苔缶を小鼓に見立て、これを貞子の三味線「春雨」「浦島」などの俗曲に合わせて、ちゃかぽこと鳴らす他愛のない芸であったが、当人はこれに納得するまで、ありとあらゆる台所道具を叩いたというのだから、すさまじい根性である。

 昔ながらのブリキの琺瑯びきの薬缶を使用していたが、あまり強くひっぱたくものゆえに、十日やそこらで地金が見える始末であったというのだからすごい。

 後に、まずしゃべくり漫才、次に貞子の「櫓太鼓」の曲弾き。その間、恵一は何もせずにぼんやりしているので、見かねた貞子が「ほかにやることないかいな」といじると、恵一が海苔缶とヤカンを持ち出し、演奏を始める――というスタイルを確立。

 以来、この派手な舞台は中央のお客よりも余興や慰問に喜ばれ、地方巡業や余興を専らとした。そういう性質もあってか、大手興行社には所属せず、西成区の「てんのじ村」に居を構え、芸人たちのつながりや仕事の中で生きてきた。

 戦後も相変わらず、巡業を専らにして活躍。松鶴家団之助の団之助興行社の仕事を中心に引き受けてきた。その確かな腕前を見込まれる形で、吉本から何度もオファーが来たというが、「若い人の中に今更入るのも」という理由で断り続けた。

 1970年ころより起こった珍芸ブームのあおりを受けて、珍芸の保持者として関西系のテレビに出演。その芸の一部はワッハ上方などで見ることができる。

 1971年、『新日本紀行 浪華芸人横丁』の主要メンバーとして出演。ハルトシという一人息子が製本工場に就職したことを喜び、村の芸人総出で祝う様子が、『新日本紀行 浪華芸人横丁』の中に納められている。恵一そっくりの顔をした好青年である。今日も健在であるかもしれない。

 1980年代にはいると、団之助の死に加え、恵一の神経痛が悪化し、歩行困難になったため、仕事の数も減った。また、使い勝手のいいヤカンや海苔缶の数も減り、「誰かお中元にいい薬缶をくれる人はいませんやろか」とボヤくほど、仕事道具にも困ったという。

 然し、近距離の仕事やテレビの仕事はできるだけこなしたという。

 1985年の『日本演芸家名鑑』、および翌年の名簿に両人の名前が出ているのが確認できるが、1987年には、貞子単体になっているため、恵一はこの間に死亡した模様。

 残された貞子は老体と相談しながら、弟の小松まこととコンビを組み、細々と仕事をこなしていたが、平成初頭に夫の後を追った。『国立劇場演芸場』(1997年2月号)掲載の小松まことの記事の中に「貞奴から玉木貞子になった姉の応援も得たがいづれも死別」とある事から、これ以前には没していた模様。

コメント

You cannot copy content of this page
タイトルとURLをコピーしました