宮アオバ・シゲオ
(関係者提供)
ミルキー坊やの真似をするシゲオ
人 物
宮 アオバ
・本 名 宮下 敏子
・生没年 1919年4月28日~2001年以降
・出身地 大阪
宮 シゲオ
・本 名 宮下 重雄
・生没年 1910年4月2日~2001年以降?
・出身地 東京 向島
来 歴
宮アオバ・シゲオは戦後活躍した夫婦漫才師。女流浪曲出身で美人なアオバとミルキー坊やとあだ名をとった喜劇出身のシゲオの取り合わせが売りで、アオバがシゲオをどやす女性優位漫才で人気があったという。シゲオは玉川スミの元旦那である。
宮アオバは浪曲師・廣澤菊廣の娘。
大阪市立第三小学校卒業後、父及び初代廣澤菊春の門下に入って、廣澤菊春嬢。12歳の時に浪曲の寄席・西九条鶴栄館で初舞台――と『上方演芸人名鑑』と『文化人名録10版』にある。
少女浪曲師として売り出され、軍事慰問にも出かけた程である。
後年、広沢菊子と改名し、一枚看板として全国を回っていた。当人は広沢派ながらも、なぜか京山一流の「アンガラ節」を得意としていたそうで、女だてらに侠客物を演じて、人気があったという。
一方のシゲオは東京の出身で、東京漫才の大朝家五二郎の下で喜劇役者をやっていた――という変わり種であった。
もっとも、入門した頃は五二郎はまだ「曾我廼家五二郎」という名前の喜劇役者であり、シゲオ自身も喜劇役者として働いていた。師匠の「五」の字を貰い、「曾我廼家五之助」と名乗っていた。
『上方演芸人名鑑』によると、1926年、常磐座の喜劇公演が初舞台であるという。
若い頃の面影は、後に妻となる玉川スミが自伝『泣いて笑って突っぱって』の中で語っている。
初江姉さんが失明し、とうとう座が解散した昭和三(一九二八)年の秋、私は室蘭の錦座に雇われ、客の呼び込みの太鼓叩きの手伝いをすることになりました。ちょうどそのとき、錦座に「大朝家五二郎劇団」がやってきます。この座の座長の五二郎さんは、もともとは、曽我廼家五郎一座の若手作家でしたが、やがて自分自身が舞台に出たくなり、東京に出て五九郎劇団に入り、何年かの旅廻りをしたあと、自分の劇団を興した人でした。念のために付け加えますと、彼は後に、東京でのニュース漫才の元祖として活躍するのです。
その五二郎劇団に、当時二〇歳そこそこの五之助という役者がおりました。のちに私の亭主になるシゲオさんです。
縁は異なものといいますが、当時ヨダレ掛けをはずしたばかりの八歳の私には、まだ縁もゆかりもない話でした。五之助さんは、私が一人前に二番太鼓を叩くのを見てびっくりしたそうですが、私には、そのときの彼の印象はまったくというほどないのです。
この時は大きな出会いもなく、二人は別れた。スミは相変らず東北の演芸一座を出入りし、シゲオは師匠の下で喜劇をやっていた。
しかし、1932年頃に師匠が喜劇役者から漫才師になった事もあり、喜劇一座は解消。シゲオはしばらくの間、喜劇一座を転々とせざるを得なかったという。
それから一〇年の歳月が流れていました。私が「津軽家すわ子一座」の一員として小樽で公演しているとき、東京から一人のコメディアンがやってきました。その芸人が五二郎劇団の五之助こと大朝家シゲオでした。一〇年振りの “再会” です。
シゲオさんは、さも懐かしそうに私にいうのでした。 「キミ、あのときは子どもだったのに太鼓がうまかったね」
私は「そうでしたかね」と答えるほかありません。
「うん、実に上手だった、びっくりしたよ」
こんな会話から始まったような気がしますが、二人は、“再会”から急接近していきます。私も、もう”花の一八歳”になっていました。
しばらくして、再び樺太への巡業の折、珍内(ちんない)というところでシゲ オさんと私は駆け落ちを決行するのです。
しかし、この駆落ちは失敗。シゲオは東京に帰され、スミは「殺されるのではないか」というほどの折檻を受けたという。
ただ、ここは時系列が結構いい加減で、イマイチ信用できないところがある。「十八歳」といっているが、実際はもっと幼かったのではないだろうか。スミによると、津軽家一座をやめたのは、1936年秋という事になっている。
この後、スミは「花奴一座」で歌手として働いていたが、興行師・中川虎松の斡旋でシゲオとコンビを組む事となった。1936年の事だという。
当時、スミは「桂小豆」と名乗っており、「大朝家シゲオ・桂小豆」としてコンビ結成。
翌年、中川のススメで二人は結婚する事となった。しかし、スミはこの結婚にあまり乗る気でなく、案の定二人の生活は破綻した。スミは当時を回顧して――
昭和一二 (一九三七)年に入り、シゲオさんとの漫才コンビを勧めた中川さん は、こんどは私に、シゲオさんと”人生のコンビ”を組むように、盛んに勧めるのでした。しかし私は、シゲオさんは短気だし、私だっておとなしい女でないことは百も承知、結婚してもうまくやっていける自信もなく、どうも気乗りがしませんでした。
むしろ私は、漫才の相手としてのシゲオさんはすばらしいと思っていましたので、とにかく漫才がうまくなること、ときどき出る津軽弁を直すことに必死でした。当時、野球放送の花形アナウンサーの放送をお手本に、一生懸命”標準語”の勉強をしたものです。
しかし、私もやっぱり女、恩義のある中川さんのたっての勧めを断わりきれな くなり、シゲオさんと結婚することになりました。しかし危惧していたとおり、この結婚は失敗に終わったのです。一年目はなんとかよかったのですが、二年目からは、もういけません。顔を合わせれば、「コノヤロウ」「バカヤロウ」 の応酬(おうしゅう)でした。このように、舞台裏ではお互いにののしりあっていても、不思議なことに舞台の人気は高まるばかり。 時局漫才や剣劇漫才をあみだし大評判を得たのです。わずか一年間のうちに私たちのコンビは前座からトリの看板にまでかけのぼる勢いでした。
「おまえたち、舞台ではいいコンビなのになあ」と、春風亭柳橋師匠が独特の抑揚のきいた声でいうのでした。
「いったい、おまえら、どうなってんだ。舞台ではいい調子 なのに」と、初代柳家三亀松師匠も顔をしかめたものです。
”子はかすがい”といいますが、私たちの場合、〝芸がかすがい”で、何とか一一年間もちましたが、とにかく風変りな夫婦でした。
短気で強情なスミに、短気で気の荒いシゲオが当然馬が合うよしもなく、すぐさまののしり合う関係になった。そのくせ10年近く一緒にいたというのだから、よく判らないものである。
夫婦生活は破綻しているにもかかわらず、人気は上々で、1941年に新興演芸部に招かれ、正式に専属芸人になった。各地の松竹持ちの劇場や寄席に出演し、給金も跳ね上がった。
この時、「宮シゲオ」と改名した――と玉川スミ『泣いて笑って突っぱって』にあるが、当時の広告を見ると「大朝家シゲオ」とあり、詳細不明。
新興時代に仲が良かったのが、ミスワカナ・玉松一郎、かしまし娘の姉二人、坂野比呂志、轟ススムなどであった。シゲオは「三羽烏」とあだ名されるほどの喧嘩好きだったそうで、スミ『泣いて笑って突っぱって』曰く――
それにしても、シゲオさんという人は、ケンカ早い人で、昭和一二(一九三七)年頃には、シゲオさんと、轟すすむさん、坂野比呂志さんがケンカの三羽ガラスとして名をはせていました。バナナのたたき売りなど、大道芸で芸術祭賞をもらった坂野さんは、むかしはバナナの台ならぬ、ドラムをたたいていたのです。
とにかく元気のいい人でした。
戦時中も「小豆・シゲオ」の名義で活躍を続けていたが、統制や物資不足で劇場が閉鎖され、慰問や巡業に出る事となった。
1942年、徴兵令が届き、応召。この時、周囲を慮る形でスミと正式に入籍し。夫婦となった。
1945年末に復員。戦後は焼け残った寄席や巡業に出る傍ら、消防士として働いていたが、スミとの関係が悪化。些細な事で喧嘩をしては、殴り合いやドつきあいも日常茶飯事になったという。
スミはその暴力のひどさを『泣いて笑って突っぱって』に記している。
私はその父の好意を素直によろこんだものですが、シゲオさんは、そうではなく、その初夜の晩に、いきなり、「オレは女に不自由はしない。あんなにおやじがいうからおまえとの結婚を承諾したまでだ。いやならいつでも別れてやるから な」というのです。こんな話ってあるでしょうか。 はじめての夜から、夫婦の心はバラバラだったのです。
そんなシゲオさんですから、気に入らないことがあると、一座の者が見ていようがおかまいなく私を殴ったり髪の毛を握って引きずったりの乱暴に及ぶので す。私ははじめのうちは、その暴力にじっと耐えていましたが、根は気性の激しい女ですので、結婚三年目頃から、たまりかねてそばにあった棒をつかむと、「この野郎!」とばかり夫に襲(おそ)いかかるようなこともありました。夫はその剣幕(けんまく)に驚き、そこら中を逃げ廻るという、とんだ番外劇を演じたりもしました。
こんな派手な喧嘩もありました。大阪の警察署の慰安会に出たときのことです が、楽屋で口論となり、私は舞台用の刀を抜いて、「殺してやる!」と夫を追いま わしたのです。それを見ていたお巡りさんが驚いて、「小豆さん、止めなさい!」。
いったい、あの頃、私ってどうなっていたんでしょう。
シゲオにも言い分があったに違いないが、これだけ見ていると滅茶苦茶な夫婦である。こんな夫婦生活には当然終りが来るもので、戦後まもなくスミに逃げられる形で離婚を遂げた。『泣いて笑って突っぱって』によると――
ついに”別れ”がくる
夫婦というものは不思議なもので、そんな仲でも子どもはできます。大阪の「恵比寿橋松竹」に出ていた昭和二二(一九四七)年のこと、私は妊娠していること に気づきます。その数日後、腹痛がひどいので病院に行くと、子宮外妊娠との診 断を受け、間もなく流産してしまいました。ショックでした。しかしそれにもましてショックだったのは、私が妊娠したことを知って、「そんなの誰の子かわかり ゃしねえ」といった夫・シゲオの一言でした。あのときのことを想い出すと、いまでも血が逆流しそうです。
こうなれば別れるしかありません。私は岐阜巡業のあと、名古屋→東京→名古 屋と”蒸発”の旅を続けるのですが、どこでかぎつけたのか、夫がすごい剣幕でいままに 名古屋に乗り込んできました。「帰れ、帰らなかったら刺すぞ!」と、匕首(あいくち)をいきなり畳に突き立てるのでした。ちょうどそこへ、名古屋の庄村興行社の支配人の早見栄二さんがかけ込んできて、「東京に連れていったオレにも責任がある。刺すんならオレを刺せ、オレは豆ちゃんと一緒になる気だ!」と叫んだのです。
早見さんとは、何日か前、逃避行の途中で偶然に名古屋駅で会ったのです。事情を話すと、同情してくれ、私を東京につれていってくれたといういきさつがあります。すると、シゲオさんは急に静かになり、「結婚してから、あったかい言葉を一度もかけてやらなかった。あんた、オレの分まで幸せにしてやってくれ」といったのです。
こんな言葉を、なぜもっと早くいってくれなかったのか、と思いながら私は泣き、そして「すみません」と謝まりました。それは夫・シゲオに対してではなく、芸の相方である宮シゲオへのお詫びだったのです。
これだけ見ていると辛くなってくるものがある。一方、これはあくまでも玉川スミの視点であり、シゲオのすべてが記されているかといわれると別だろう。被害者意識的な処があるのも否定できない。
1948年3月、正式に離婚。
夫婦別れをした後、シゲオは西、スミは東へと消えて行った。その後、シゲオはどういう伝手があったのか、廣澤菊子と結婚する事となった。
夫婦漫才を組んで「宮アオバ・シゲオ」と改称。松竹演芸部に所属し、角座や浪花座の舞台に立つようになった。
シゲオはキューピー人形や不二家のミルキー坊やに似ている(上の写真ではそう感じないが笑うとよく似ている)顔をフルに生かし、ボケに徹した。
一方のアオバは浪曲時代に鍛え上げた見事な喉を生かした浪曲と、男まさりの啖呵でシゲオを怒鳴り倒すツッコミで人気を博した。
アオバの「アンガラ節」(浪曲の技法の一つ)にあわせて、シゲオがパントマイムもどきの事をやる――という珍芸でも人気があった。浪曲漫才の亜種とでもいうべきだろうか。
1950年代後半から70年代にかけての漫才黄金時代においては、松竹芸能部の中堅として活躍。実直で堅実な漫才で人気を集めた。
1974年、花菱アチャコが死んだ際に組まれた『上方芸能38号』の中における「漫才アンケート」では、「2、停滞期 われわれは暗中模索、手さぐりの時代と考えます」「3、老兵は消えるのみです」と消極的な答えをしている。
1970年代後半に引退。『上方演芸人名鑑』が出た1980年時点では「引退している」と書かれている。
引退した後も芸能界とのつながりは一応あったらしく、その後の『文化人名録』『著作権年鑑』などに名前が出ている様子が確認できる。
その掲載期間は長く2000年頃まである。この頃まで本当に生きていたとするならば、シゲオは100近い長命を保ったという事となる。本当だろうか。
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