一陽斎蝶一
人 物
一陽斎 蝶一
・本 名 湯浅 嘉造
・生没年 1927年5月20日~2018年1月24日
・出身地 大阪市
来 歴
一陽斎蝶一は戦後活躍した奇術師。一陽斎一門の係累を守り、大掛かりな西洋奇術を得意とした――が、凄まじい粗忽と失敗談を残し、「上方随一の面白奇術師」のあだ名を残すほどの奇人・変人として知られた。その逸話の数々は今なお語り草となっている。
先祖は「油屋源兵衛」を代々名乗る製油業だったそうで、裕福であったという。その家に生まれた父・吾一郎は大阪市内へ出て、1907年に「油源」なる菓子問屋を設立。大阪でも有名な菓子問屋になったという。
その長男に生まれたのが嘉造――蝶一というわけである。生まれた時から御曹司で、ボンボン育ちだったという。当人も長らく店の経営に携わっており、経営者としては相応な人物だったという。
そのため、詳しい経歴が出ているのは芸人の資料ではなく、『大阪菓業者名鑑』だったりする。以下は「油源取締役・湯浅嘉造」としての経歴である。
〔概歴〕 祖先・油屋源兵衛は河内で製油業を営んでいた。父・湯浅吾一郎は明治40年に現在地で油源を商号にして菓子問屋を創業し、亡母の内助によって業績を拡大したが、戦時中、細田・橋本・森本・あこ常の諸氏と企業合同し、昭和16年大阪府菓子統制組合第3ブロックの配給所となり、 交代制で所長を勤めた。
その吾一郎の長男として現在地に出生。大阪高等獣医専門学校に勉学中、獣医見習士官として和歌山病馬廠に勤務した。学校卒業後家業に従事し、企業合同に際しては東区第一販売所を自店に開き所長として菓子の家庭配給に当った。
20年6月12日戦災全焼。牧岡町に転居したが戦後逸早く現在地にバラックを建てて復帰し、小売配給を行なうかたわら問屋業再出発の工作を開始した。26年~27年に鉄筋建第一期工事を行ない店舗・住宅を新築。32年~33年に第二期工事として問屋事務所と第二営業店舗を新築し、本格的に問屋業を推進した。27年10月1日、法人に改組して社長に就任、父を会長に弟を専務とす。
奇術は四条畷中学在学中より習い始め、木村荘六先生、一陽斎正一先生に師事し、31年、一陽斎蝶一の芸名をもらい余技としてテレビや一流舞台に出演している。
家が裕福だったことも幸いし、幼い頃から寄席や劇場に出入りをしたほか、習い事も金に糸目をつけずにできたという。親父が落語や映画が好きだったこともあり、スタッフや関係者が「寄席や映画館に遊びきてや」と、フリーパスで通してくれたともいう。
また父自体も奇術が好きだったそうで、ちょくちょく奇術の道具を買っては演じていたとも。
その中で彼が興味を覚えたのが演劇と奇術であったという。
旧制四条綴中学校在学中、当時大阪奇術界の大御所であった木村マリニーに師事。アマチュアマジシャンとして技術を磨くこととなる(ただ、晩年の当人は『奇術を覚えたのは戦後』とアベコベのことを言っている)。
この時、奇術仲間として知り合ったのがジョージ多田だという。
そのため、レパートリーはテーブルマジックや西洋奇術が多かったという。ただし後年の失敗を考えるとその本格的なレパートリーとちぐはぐさを感じてしまう。
一方、演劇にも熱中し、軍事慰問や工場慰問にちょくちょく参加していた。当人が『週刊サンケイ』(1981年1月29日号)の中で語った話では――
「奇術始めたんちゅうのはですね、私、若いころ、青年団で芝居やってたんですわ、東区の北大江青年団いうて。近所の若いもんが集まって、いわゆる素人芝居ちゅうのんね、ところが、 これが解散になってもてね。な んか一人でやれるもんないかいなァ……て考えてやり始めたんが奇術でんねん。」
1944年、旧制大阪獣医畜産専門学校に進学。そこで獣医免許を取ったというのだから驚きである。当人は「徴兵逃れ」のためであり、別に本心からなる気ではなかったという。解剖も嫌であり、芝居ばかりしていたが、一方で解剖で余って出た馬肉を貰うなど、比較的に裕福な日々を送った。
当人が『週刊サンケイ』(1981年2月5日号)の中で語った話では――
ほんで、大阪獣医いうてですねえ、いまはねえ大阪市大のことですけど、堺に農業専門学校というのがありましてね、そこの獣医科いうのにはいりましてん。ま、角帽やし、かっこええしね。兵隊のがれにいうたら悪いけど……それにここ出たら少尉になれましたからね。授業はようサボりましたわ。芝居やってる方が、おもしろいしねえ。そやけど、ええ授業には出ましたで、実験とか……これが馬の解剖をするんです。まァ、気色悪いんですけど、あとで馬の肉を分けてくれますねん。ええとこは先生が全部持って帰りよんねんけど、それでも、その頃、桜肉なんか手にはいれへんから親が喜びましたな……。
で、二年の時、学校から兵隊さんの馬を世話すんのに和歌山へ行かされまして、空襲で家が焼けたさかい帰って来い、いわれて一回大阪へ帰ったんですけど、また和歌山へ馬の世話しに行きまして、ほんで終戦。そやけど学校は卒業しましたで。
さらに6月の大阪大空襲で自宅も焼失。工場も焼出されてしまった。当人は「学校をやめて家に戻る」といったそうだが、父が「学校行ったんだから出ておき、家は心配するな」と激励したこともあり、学校へ戻った。
終戦後は母校が「大阪府立浪速大学農学部獣医学科」に改正となり、そこの所属となった。4年の学習期間を経て卒業。卒業後は獣医にならず、実家へと戻った。
戦後は「別に仕事もせずに奇術や司会をやってぶらぶらしていたそう」である。そうしたセミプロ暮らしの中で出会ったのが当時売り出しの最中であった一陽斎正一と保田春雄であった。当初訪ねたのは一陽斎のところらしい。『週刊サンケイ』(1981年2月19日号)によると――
ま、とにかく素人ばっかり集まって作ろっちゅう話 は流れてもうて、また、ひとりで、あっちに習いにいったり、 こっちに聞きにいったりしてましてん。ちょうどその頃、終戦直後ですわな。日本橋の天牛堂いう本屋の向かいに、一陽斎正一さんが手品の道具を売る店、出してはりまて、私は、そこへより出入りしてたんです。ほんで、「こんなん習て来たでえ、ちょっと見てえな」いうてね。正一さんに見せてたら「あんた上手やな、近々、手品のコンクールがあるさかいに出てめえへんか」っちゅうことになって、私、そのコンクールに出してもうたんですわ。ほんなら、どういうわけか「上手や」いわれてね、優勝させてもうて、ま、これだけ出来んねんやったらプロになれるでぇ……いうておだてられたりしてね。私もその気に……。
そのコンクールにいたのが保田春雄で「うちに来ないか」と誘われる形で奇術を習うようになり、彼のアシスタントという形で働くようになった。
奇術師として仕事を引き受け腕を磨くかたわら、店復興を目論む父の元でも奮闘を続けた。父と共に油源再興に力を注ぎ、1952年10月には法人化し、「株式会社油源」の取締役に就任している。
油源の社長としては相当やり手だったらしく、油源を再興に成功している。高度経済成長の波に乗り、一時は10人を満たなかった従業員を30人以上に増やし、年収5億を記録するなど、当時の帝国銀行・会社要録から伺い知れる。さらにビルや土地も保有し、奇術界隈でもずば抜けた金持だったと聞く。
一方、奇術の方は相変らず続けていたようで、一陽斎一門の「陽友会」に所属していた。ここで定期的に奇術の試演を続けていたほか、一陽斎正一から奇術の手ほどきをうけることとなった。
1956年、正一から「一陽斎蝶一」の芸名を許され、生涯これを名乗ることとなった。また、どういうわけかプロフィールなどでは「湯浅加爽」という不思議な本名を自称していた。姓名判断などに請っていたのだろうか。
1970年代まで油源の経営に携わっていたが、父の死やオイルショックなどを受けて一線を退いた模様。なお、「油源」は弟に譲り、店は平成まで残っていたという。
旧友のジョージ多田に紹介されて吉本興業に入社。吉本でも貴重な奇術師として活躍――と言いたいところであるが、兎に角失敗が多い。奇術の失敗をあげても(嘘か本当かは別として)、これだけの逸話がある。
紙の中に牛乳を入れて燃やす奇術で失敗し、カツラに火がついた。カツラが燃えてチリチリになったが『そのために予備のアデランスがある』とスペアを取り出した。
やはりカツラに火の粉が飛んで燃える事件があった。それに気づいたアシスタントが「先生!頭!髪!」と指さすと、蝶一は怒って「人が気にしていることをいうな!」
鉄棒に手錠をつけて脱出する奇術で脱出できず、カーテンが下がってもぶら下がったまま。「失礼いたしました」とうそぶきながら、アシスタントに大道具押させて高座から降りた。
アシスタントを『アルバイト情報』に掲載して募っていた。
ある時、舞台まで走って出たものの、息切れをしてしまい、高座の上で肩で息をしていた。
鳩のしつけが下手くそで鳩を出す奇術をやるとみんな鳩がどこか行ってしまう。打ち出し後に「アホ!どこいった!」と怒りながら探していた。
鳩の奇術を仕込みながらやることをすっかり忘れて持ち時間いっぱい。頭下げて下りようとする袖口から鳩がコロン。
水槽に砂を放り込んで呪文をかけると砂の色が七色に変わるネタを覚えた蝶一。本場のある日、仕込みを忘れていて、水にいれるや砂がすべて変わってしまう。客は砂にタネがあると即座に見抜いてゲラゲラ笑う。蝶一、水槽に手を入れて「さても、美しい砂であります」
スイスの来賓が関西へ来た際、パーティーの余興で呼び出された蝶一。国旗を出すネタをひねり、スイスの国旗を出そうとしたがスイスの柄を知らずに変なマークの旗を出してしまった。それのみならず舞台終わり、その国旗を丸めてゴミ箱に捨てようとしてスタッフにめちゃくちゃ叱られた。
真夏のある日、余興で旅に出て鳩を連れて行った蝶一。鳩の箱の窓も開けずほったらかしで涼みに出かけたら、鳩はみんな熱中症で死んでいた。帰って来た蝶一は鳩の亡骸を見て「あかん、これじゃネタができん。こんなことなら窓の開け方を鳩に仕込めばよかった」。
鳩の奇術で「派手にしたろ」と考えた蝶一、鳩に色付けをしてパッと鳩を出す奇術を考案したが、いざ本番になったら鳩の羽にカラーが絡まり、ボトボトボトボトと落下した。
結婚式の余興で呼ばれた蝶一、鳩のマジックをやったが、鳩が逃げてしまい食事やカーペットにフンを撒き散らして大損。蝶一は「二度と鳩の奇術やらん」と嘆くこと。
アシスタントに催眠術をかけて身体浮遊をさせるマジックに挑戦した蝶一。アシスタントに催眠術をかけて、タネの仕込んだギアに寝かせたまでは良かったが、そのギアの付け方を忘れてしまいアシスタントが地面にズドン。催眠状態のはずが『痛い!!!』と泣き声をあげた。
催眠術のネタをキャバレーでやった際、「催眠術の大家」と美人ホステスが勘違いし、「催眠術で不調を治してほしい!」と蝶一に頼み込んだ。周りの芸人は「ええ塩梅に裸の一つも見たらどうや」とそそのかすと、蝶一は激怒して、「アホ!可哀想なことできるか!」と真摯になって病院への診察を勧めた。
もっとも、これは表面だけの話であり、あげれば限りなく出てくる事だろう。
余りの失敗の多さ、しくじりの多さから当人も呆れていたと見えて「わしの客はわしの失敗を見に来ているようなもんや」「わしが奇術に失敗ばかりするもんやから、『蝶一さん、はよ死んで奇術道具を形見分けした方が世のためでっせ』と仲間から言われる」と自嘲する始末であった。
また、人間としてもそそっかしい所があり、こちらの方面でも逸話は多かった。
「進駐軍慰問時代にコーラサーバーを発見し、『アメリカの水はこんなに美味いのか』と感動。米兵に殺されるのを覚悟で(実際はそんなことはないが)コーラを飲みつくした」
「口癖が『おまえ』であり、目上の人にも平然とおまえといった。人生幸朗から『この間のお笑いネットワークよかったで』と褒められた際、『師匠、ありがとうございます、お前。師匠、お前、見てくれはったんですか』といっ人生幸朗を怒らせた」
と、これまたおかしい。その逸話の凄まじさは晴乃ダイナなどと並んでいたそうで、後年人気を博す上方のりお・よしお、中田カウス・ボタン、明石家さんまなどの恰好のネタのタネとなった。
1980年、渡米して奇術を勉強。財力に任せて色々な奇術を仕込んだというが、結局うまくならなかったというのだからおかしい。
1981年1月より半年間、『週刊サンケイ』に「一陽斎蝶一伝」の聞書きを掲載。とぼけた人となりが見られる。
1999年、市川準監督の『大阪物語』に出演。マジシャンの役として出ている。
2000年代頃までちょぼちょぼ舞台に出ていたが、80過ぎた後はほとんど舞台に出なくなったという。子供も立派に成長して安楽に暮らしていたというが――
2018年1月24日、低酸素血症のため入院先の大阪市内の病院で死去。享年90――というから吉本最古参であった。
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