荒川光月・藤男

荒川光月・藤男

光月・藤男(右)

 人 物

 荒川あらかわ 光月こうげつ
 ・本 名 ??
 ・生没年 1880年代?~戦後  
 ・出身地 ??

 荒川あらかわ 藤男ふじお
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1957年以前  
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。河内音頭を売りにしたというが、謎が多い。そこぬけた正直者で、一種の奇人として知られた節もあったそうだ。

 詳しい経歴は不明であるが荒川浅丸の弟子だったらしく、吉田留三郎『漫才太平記』の中に、

荒川の祖は浅丸に発する。人間文化財的存在の砂川捨丸とは兄弟分に当たる。弟子としては芳丸、千成らが有名であった。他に、藤尾・光月のコンビは昭和十年代にも活躍していて、洋服のシャベクリ漫才全盛のなかで、ひとりポンポンと鼓をたたいていた。例の通り歌の文句は分からないが、聞いていると自然に、心ウキウキになる不思議なリズムであった。

 とあるのが確認できる。

 コンビ結成年は不明であるが、浮世亭出羽助が入門した時には(1920年)既に一枚看板で、出羽助に漫才師になるきっかけを作ったというのだから古い事には古い。

 また、『上方落語史料集成』をのぞくと、1925年2月の寄席番組に、

◇笑福亭 
一日より三馬、光月、藤男、助六、義弘、菊丸、小枝鶴、三八、文英、文俊、福松、花奴、登吉、枝太郎。

 とあり、活躍が確認できる。

 この頃にはもう吉本興業には入社して、関係寄席に出ていたらしく、1927年1月発行の『笑売往来』(第5号)に、

光月溌剌油のノリ切つたところ藤男軽妙、巧まずして妙当代太夫の第一人者。雁玉円熟、天才的持味あり。政夫老巧太夫としての完成品。志乃武新進切角奮励を望む。千代春早熟、素質良好前途有望。出羽助清新、工夫創作が頼もしい。喜楽愛嬌声を聴いて二度びつくり。チヤプリン高尚、ネタが古くて困る。芳春熱心、歌は迷惑なり。幸ヤン斬新、現代向萬歳師か。

 とある所から、中々重宝がられていたようである。因みに藤男がツッコミ、光月がボケであった模様。

 当時から音曲・芸尽くし中心のネタを得意とし、中でも河内音頭が得意であったそうな。1928年11月に発行された『柳屋』(36号)の『萬歳特集』の中で、正岡容は、彼らの舞台を、

河内なる十人斬の錦絵のなかのひとりかあはれ藤男は

光月と藤男いづれば何がなし河内音頭を踊る群みゆ

清親のポンチ絵かなし光月の大和天理の一と踊りほど

 と詠み、同じく掲載された若葉薫の『萬歳繁盛記』には

藤男に光月といふのは、ひとりはみるからにメチャクチャみたいだし、ひとりは中田正造の漫画みたいだが、天理教や細谷のをどりはうれしい

 とある。以降、吉本の漫才ブームが来た後も、コンビを解消することなく、古老株として淡々と舞台を勤めていた。しゃべくり全盛になっても、古風な数え唄や河内音頭を演じていたという。

 古老であったが、人間的には非常に愉快で、馬鹿正直なところがあったそうで、その人柄から吉本のスター、柳家金語楼が贔屓にしていたという。金語楼は贔屓にする一方、その善良な人柄を時々茶化していたそうで、『話』(1940年新年特大号)掲載の石原金三『漫才界太平記』の中に、

 最後に、ゲテモノ好きな諸君の為に、筆者の愛惜措く能はぬ骨董的?漫才を一二組紹介して置かう。
 その一組は、藤男・光月といふコンビである。金語楼がこの漫才をたいへん贔屓にしてゐるさうである。金語楼は西下する度に、彼らを料亭に招待したり、物を贈ったりするさうだ。ある時、二人はアラスカ(註・戦前有名だったレストラン)へ招待された。招待者は、洋食と言ふものは、先づ卓子を三度廻つて席につき、ワンと言つて然る後に食べるものだと説明した――なぞと言ふ話は、もし本當なら、餘りにも悪趣味だが、そんな話も成程と肯かれるやうな両人なのである。両人の高座は、風貌共にいまだに懐しい数へ唄時代の姿をそのまま残してゐる。まことに、漫才の博物館的存在である。

 とあるが、まあ、ひどい話である。一方、その直情さが周りを怖がらせることもあったそうで、『漫才太平記』の中に、

ある時、彼らの出番札をエンタツのそれと入れ替えた悪いやつがあった。今東光氏の「河内風土記」に出て来そうな単純、直情な人柄だけに、悪戯と分かった時の、その怒り方はすごかった。本気で「殺してやる」と言ってるのだから、犯人は青くなっていたことだろうと、いま思い出してもおかしくなってくる。

 という逸話があったりする。

 戦時中(1945年頃)、若手漫才だった夢路いとし(当時は荒川芳博)とほんの少しだけ組んだことがある。然し、古老と若手漫才では当然合うはずもなく、すぐに別れたという。以下は、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』で触れられているその経緯。

こいし 楽屋の中でタバコを吸うと、荒川光月・藤男の光月師匠が、ただよって来た煙を吹いて両手でかき分け空気を吸っている。先輩連中は皆知ってンねん。それで、「何してはるの?」とお茶子さんに聞いたら、「あのな、光月師匠はタバコが嫌いやねん。それで空気が汚れるというて、かき分けて吸っている」。出て行きゃええねん(笑)。 
いとし (笑)。よういいましたで、「空気をかき分けて吸う師匠来てるか」。
こいし その時分〈吉本の七不思議〉というのがあったンや。全部は忘れてしもたけどね、「空気をかき分けて吸う」のも七不思議のひとつ。それから「出番を舐める男」。これは砂川豊丸さんという人。 いとしものすごいド近眼でね、ラムネの瓶の底みたいな眼鏡をかけてね。 こいし それで縦に長い出番表にピッタリと顔を近づけて見る。「出番を舐める男」。「逆まつ毛」というのも、 
いとし 千歳家今次・今若…… 
こいし 兄貴の方ね。 
米 朝 今次さん。
こいし あのころは頭をおかっぱにしてたから、 
米 朝 ヘー、 
上 岡 もちろんハゲる前ですわね。 
こいし もちろん、もちろん、ハゲる前。 
米 朝 きれいにないようになってしもたもンね。 
いとし ですから、まだ気にしているころですよ。少ない毛やからカールになっている。 
こいし それを櫛で前髪をといどる。で、「あッ、逆まつ毛!」。これは戦後のことになるンやけど、MZ研進会の時に兄貴が病気かなんかでスケて(代りに出番に出る)もうたことがあるねん。むこうも兄弟やし、お互いのネタを知っているから、「兄弟漫才 やろか」「やろか」というてやったら、漫才が合えへん。 
米 朝 そらむこうは大きく間をとってやる漫才やさかいね。いとこいさんところはテンポが速いしな。
上 岡 いとし先生は別の方とコンビを組まれたことがおありだと伺いましたが。 
いとし あるんですよ。弟が兵隊に行ってしまってね、ぼくだけが吉本に残った。当時は漫才で片一方の方が戦争だとか徴用に行って、残っている人がいたンですよね。それでさっきいった、荒川光月・藤男師匠の光月師匠、あの「空気をかき分けて吸う」方の師匠と会社の命令でコンビを組めといわれました。あの時分、ぼくが十六、七歳ぐらいで、むこうが五十五、六でしたンで話が合いにくいンですわ。
上 岡 えらい違いや(笑)。 
いとし ネタ合わせもなしに舞台へ出る。最後に河内音頭をやりはるンですわ。それで、「音頭をとれ」という。音頭なんかとったことがない (笑)。「知りません」「知らんか」「そんならわしひとりでやる」。で、「何々やれ」「知りません」「お前、何も知らんなァ」(笑)。 
米 朝 数え唄なんかやったら、「数をとってくれたらええンや」とかいわれる。
いとし そうです。数はなかなかとれませんよ。ぼくらも戦争中の何かで数え唄をやりましたが、 「あ~、ひとつとせ〜 イえ」というのが恥かしいてよういいません。 
上 岡 片方は、「あ~、ひとつとせ〜 イえ」というときゃあと全部やってくれる。 
米 朝 そう、全部ひとりでやンねやね。
いとし ついに十日間ぐらいでやめになりました(笑)。あとは歌や芸能の慰問団の司会をしてました。

 この後、光月も亡くなったか、引退したかで、このコンビも絶えた。

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