千葉琴月

千葉琴月

琴月・琴昇・琴美(右)

ハワイ巡業の際の広告

 人 物

 千葉ちば 琴月きんげつ
 ・本 名 千葉 芳美
 ・生没年 1889年11月25日~1974年8月24日
 ・出身地 山口県 徳山町

 千葉 琴昇きんしょう
 ・本 名 千葉 三次
 ・生没年 1910年3月13日~?
 ・出身地 石川県 金沢市

 千葉 琴美ことみ
 ・本 名 野村 春枝
 ・生没年 1917年1月3日~?
 ・出身地 北海道

 来 歴

 千葉琴月は戦前戦後60年近くに渡って活躍した漫才師・女道楽の芸人。元々は邦楽・舞踊何でもござれの芸人であったが、戦時中女道楽の衰退を受けて、養子の琴昇、弟子の琴美をつれて「琴月連」を結成。トリオ漫才の先駆けとして上方を中心に活躍をした。

 本名は『上方演芸人名鑑』、生年は『出演者名簿1963年度』より割り出した。

 なお、『上方演芸人名鑑』では、琴月は広島己斐村出身とあるのだが、『NHK記者のみた山口県この10年の記録』では地元の名士として「徳山市出身」と記録されている。また、後年の訃報でも「徳山市出身」とある。謎である。

『上方演芸人名鑑』によると、琴月は幼くして大阪へ上って芸を仕込まれたそうで、箏曲を藤枝検校、長唄を杵屋勝佐、うた沢を哥沢寅梅司、女道楽と三味線を宝集家金之助等から手ほどきを受けた。

 特に金之助の影響は大きかったようで、後年十八番にした『櫓太鼓』などは直接手ほどきを受けたらしい。その関係からか『笑根系図』などでは「金之助門下」と記されている。

 1907年、新町瓢亭で初舞台。 『上方落語史料集成』をのぞくと、11月上席の案内に、

瓢亭 あやめ、文屋、文蝶、小三、左円太、扇橋、仁左衛門、三輔、小文吾、伝枝、清国人、文三、雀三郎、小文三、歌舞道楽、枝雀、雀之助、石村親子、文枝

 とあるが、この歌舞道楽の一員として参加した模様か。

 さらに「12月上席」でも――

瓢亭 あやめ、文蔵、伝枝、清国人、枝雀、小三、左円太、文屋、三輔、文枝、三木助、小文三、雀三郎、雀の助、仁左衛門、小文吾、杵屋女連、文三

 とある。杵屋勝佐の弟子だった事を考えると、琴月が「杵屋○○」と名乗っていてもなんらおかしくはない。

 以来、女道楽の一員として芸を磨き、寄席廻りをした――とみるべきだろう。

 1909年には既に独立していたらしく、「千葉琴月」と改名。『京都日出新聞』(10月15日号)に――

◇新京極笑福亭にては本日より千葉琴月女が加入し琵琶、バイオリン、三味線の合奏をなすといふ。

 とあるのが確認できる。

 1910年には初上京を果たしたらしく、寄席に出勤した様子が『都新聞』で確認できる。そこでどういうわけか、音曲師の柳家枝太郎と仲良くなり、一座を結成。関西から四国にかけて巡業へ出かけている。

『徳島毎日新聞』(11月1日号)に――

◇緑館 本夜より開場の演芸会出物左の如し。落語曲芸(小松三)落語手踊(正輔)講談義士銘々傳(燕國)人情笑話(正好)落語手踊(鶴二)琴三味線曲芸(芳女)芝居噺記憶術(米枝)長唄尺八曲芸(兼子)落語文人踊(淀助)筑前琵琶薩摩琵琶バイオリン(琴月)落語音曲(柳家枝太郎)

 とある。この広告を見ると、琵琶・バイオリン・三味線何でもこなす相当な芸達者と美貌を売りにしていた事が伺える。ある意味では芸の虫なのを売りにしていたのだろう。

 その後は、上方落語・互楽派に所属して再び寄席へ出勤するようになった。ただ、ここもすぐに瓦解した事もあって、大正以降は浪花三友派、寿々女会、反対派と転々としている。

 明治から大正にかけては三味線よりも琵琶を得意とし、琵琶奏者として人気があったようである。

 大正初頭には一座を率いて巡業をしたり、東京へ度々顔を出すなど東西ですぐれた人気を有していたという。

 この頃、三次を養子として引き取り、養育するようになった。この子も早くから芸や行儀作法を仕込んだが、初舞台は1931年と遅めであった。一方、自身が養育に当った事から三味線や鳴物はうまく、茶道や華道の嗜みのある――という風流人に育った。

 この頃、レコード吹込みも行うようになった。記録を見て見ると――

 1917年11月、東洋蓄音より『小唄詩入追分・新曲長唄、三味線曲弾、凱旋ラッパ』(東洋蓄音 A1287~88)。

 1918年2月、東洋蓄音より『端唄俗曲 追分・博多節(静御前)』(東洋蓄音 A1375~6)

 7月、東洋蓄音より『詩入追分(太田道灌)・(菅公)』(東洋蓄音 A1435) 

 10月、東洋蓄音より『木曾節・春雨替歌魚尽し』(東洋蓄音 A1460)

 等があるほか、端唄・小唄、琵琶歌、曲弾きなども含まれる。レコードは範疇ではないので、微妙な所であるが、30枚くらいあるのではないか。

 1920年頃より、東西交流の波に乗って再び上京するようになった。基本的には東西落語会に所属して、寄席に出勤していたが、後年落語会が分裂するや、三遊亭歌奴が立ち上げた「東洋落語演芸会」に所属して寄席に出勤している様子が『都新聞』で確認できる。

 東京にいた時分は「千鳥」という相方と高座に出て、漫才風の掛合を見せながら三味線や琵琶を演奏していたという。

 しかし、1923年9月の関東大震災で職場を失い、帰阪。これ以降は落語界とあまりつるむ事はなく、独自の演芸一座や漫才興行に深く関与する事となる。

 1926年夏、ハワイの興行師・松尾精一の依頼でハワイ巡業に出かける。「東京名人会」と銘打たれ、邑井貞吉、竹本東猿、三遊亭円福、春風亭若柳枝といった演芸人と水谷八重子・竹紫兄妹が参加。

『マウイ新聞』(1926年7月9日号)に―― 

司会者 講演会安井本社記者 
挨 拶 小野寺特派員 
 同  水谷八重子嬢 
 同  水谷竹紫氏 
落 語 三遊亭若柳枝 
講 談 邑井貞吉 
百面相 春風亭円福 
義太夫(寺小屋)竹本東猿 
長歌(曲引)ヤグラ太鼓 浮世節以上 千葉琴月 
娘道成寺 水谷八重子 
地方・唄 千葉琴月 同 松田富子

 とあるのが確認できる。上のパンフレットはその時の広告と言う訳である。

 当時、水谷八重子が絶世の人気を誇っていた事もあり、各地では大入りを記録したという。また、琴月は三味線と歌に定評があった事から、八重子に信頼され、彼女の踊る『道成寺』『近江のお兼』『浅妻舟』の演奏を担当している。

 8月末までハワイ諸島をまわり、帰国。琴月はしばらく東京の寄席に出勤する事となった。

 1928年2月1日より8日まで京都座行われた『全国万歳座長大会』に出演。『近代歌舞伎年表京都編』によると――

 出演者 文化万歳(文三・若丸)万歳(君奴・志乃武)(若奴・銀丸)新帰朝(蝶丸・登美子)音曲万歳(十郎・〆太郎)(五楽・豆子)清元曲芸江戸小唄(琴月)滑稽萬歳(春千代・菊春)浪花節日本音曲(呉成練)高級萬歳(円蝶・幸丸)小唄(山村豊子嬢)創作萬歳(柳枝・豊子)。

 1931年、三次が函館松風館で初舞台を踏む。この巡業で琴美を見初めた模様か。詳しい事は解らない。

 また、この頃、琴美が弟子入りした模様か。琴美も1934年に函館で初舞台を踏んでいる。一時期、北海道中心に活動でもしていたのだろうか。

 1933年夏、JOAKの「夏季特別サービス」と称して、台湾へ巡業に出た。一行は柳家三語楼、浪華軒〆友、竹本東猿、京山小円、桃川若燕、榎本芝水、石橋君子・井上信子・高勇吉楽団、柳家つばめ、春風やなぎ、〆柳幾代――と『ラヂオ年鑑1934年度』にある。

 さらにその後、漫芸の橘ノ円次郎(後の橘エンジロ)巴家寅子らと一座を組んで、名古屋・岐阜・伊勢など、中部地方を巡業する。『都新聞』(9月2日号)の消息に、

□橘の圓次郎 旅へ出ました、名古屋の新守座を振り出しに岐阜から伊勢の山田へ参りました、巴家寅子、私、千葉琴月などに万歳歌劇を加へた浅草色物の混成四十名程の一群ですどつちかと云へば御難に近い旅です、楽屋裏でそろ/\地蟲が鳴き始めました、里心がついてゐます、ウヰスキーに酔ひつぶれて物干に寝ころんでゐた万歳連中もようやく掛布團が戀しくなつて来ました

主に巡業とレコード吹込みで活動していた模様である。

 戦時中の統制下や統合などを理由に長年の女道楽の看板を下ろし、漫才に転向。「琴月連」と名乗って、息子夫妻と共々三人で高座に出るようになった。

 琴美は「琴昇の妹」という資料もあるが、当時の訃報などを見ると「琴昇の妻」だったらしい。それでも一応「養子の妻」で娘にはなる。おかしな話ではない。

 戦後は戎橋松竹に出演するようになり、芸能界へ復帰。笑いこそ少ないものの、叩き込んだ三味線と舞踊を生かしたトリオ漫才を演じるようになった。

 その関係から戦後は松竹演芸部に所属。角座、浪花座、松竹座といった関係劇場に出演している。

 タイヘイトリオのような浪曲漫才、二葉家吉雄三人奴のような義太夫漫才でもない、独自の路線を突き進む事となった。

 一方、戦後は落語界への関与も再び行うようになり、落語会への色物出演やゲストなどで呼ばれる事が多くなった。どぎつい笑いが少なく、上品で音曲主体であったところが評価されたようである。

 三人が三味線で軽い民謡や音曲を奏でた後、少し掛合があって、そこから都々逸合戦や『櫓太鼓』などを演奏する。最後に琴昇が立ち上がって所作事を披露する事もあったという。琴昇は花柳芳次郎の弟子で、「花柳芳澄」という名前をもつ踊り手であった。

 琴昇はとにかくデカい体型から「西宮のえべっさん」とあだ名され、時には椅子からわざと倒れるような所作をして笑わせたという。

 その辺りのことは相羽秋夫『上方演芸落ち穂ひろい』に詳しく出ている。

 千葉琴月連 人気集めた「おんな道楽」
 このほど、新装される予定の角座のなかに演芸場を造らないことが確定した。

 一九八七(昭六十二)年一月からは、現在映画専門館である浪花座でおこなわれることになった。 浪花座の方が人通りも多いし、前売り、座席指定をとらない演芸場にとっては、かえって客集めのためにはいいかも知れない。
 だから、”演芸の角座”は、これで歴史上の言葉となった。 
 千葉琴月・琴昇・琴美の三人組を、琴月連と呼んでいた。この組も、芸域の広さを誇った角座の貴重な戦力の一つだった。
 三人で三味線を持ち、曲弾きをしたり、端唄や、小唄をうたったりした。 気が向くと、中央の”西宮のえべっさん”ならぬ琴昇が、巨体ながら花柳流の名取りの踊りを披露した。
 ただそれだけのことだが、いつも客席から拍手があって人気を集めた。 「三味線粋曲」のタイトルを付けていたが、実はこういう芸を昔は「おんな道楽」と呼んだ。
 女道楽をした挙句におぼえる芸という意味ではない。
 女性の芸人が、 芸道を極める奥義が、 この中に全てつまっていた。 その月は今は亡い。琴昇と琴美の兄妹は舞台をしりぞき、自宅で稽古屋を開いている。 (1984, 12, 15)

付記 一九七四(昭四十九) 年八月二十七日没。 行年八十五歳。法名釈尼正含。

『米朝上岡が語る昭和漫才』の中にも――

米朝 櫓太鼓もやりました。櫓太鼓では千葉琴月さんのところの、
上岡 千葉琴月さん、あの三人のあそこも見事でしたですよね。三味線の曲弾きでね、一本弦だけで弾いてみたりね。そのまた相撲とりみたいなゴッツイ人で……、
米朝 ああ、千葉琴昇はんね。
上岡 小っちゃい三味線に見えるンですわ。
米朝 (笑)。晩年、座れンようになってもてね。それで椅子に腰かけて、三人並んでたけどね。もう一人は千葉琴美さん。

 と紹介されている。

 晩年はその叩き込んだ技芸と三味線から、永六輔や桂米朝から高い評価を集めるようになり、テレビ・ラジオにも出演するようになった。

 1965年7月21日、NHK『テレビ演芸館』に出演。他の出演者は「軽口」の一輪亭花蝶松原勝美と 「浮世節」 の千葉琴月連。

 永六輔は1969年に出した自著『芸人たちの芸能史』の中で、

「千葉琴月の三味線が鈴の音をだすのと、エレキギターの轟音の中で絶叫するのとを楽しめる時、その両極端は実は背中あわせの芸なのだということに気がつく。」 

 とまで、絶賛している。事実、永六輔はこの三味線を何とか残すべく、自身が持っていた演芸番組『芸能ばらいえて』(1967年12月)に招聘し、三味線粋曲を演じさせている。このテープはワッハ上方に残っているはずである。

 また再評価をなされた前後で、林家染丸門下の染二(現・四代目染丸)が稽古に来るようになった。染二は琴月と昔ながらの稽古をしていたそうで、『上方落語 寄席囃子の世界』にその時の思い出を語っている。

 手元に資料がないので、引用ができないのだが確か、「琴月のお師匠さんはいつもいい三味線を僕(染二)に貸してくれて、お師匠さんは古い穴の空いたような三味線を使う。しかし、どう弾いてもお師匠さんのような音が出ない。いい三味線を使っても思うような音が出ず、お師匠さんは古い三味線でもいい音を平然と出していた」というような芸談だったか。

 1972年10月23日、読売テレビが主催して行った「YTVサロン」に出演。出演者は以下の通り。

『播州めぐり』橘家円三
『兵庫船』桂米之助
『三味線曲弾き』千葉琴月連
『深山がくれ』露乃五郎
『錦影絵』山田健三郎 

『桂米朝集成』だったかによると「この時、千葉琴月師匠一人で演奏してもらおうと思ったら、琴昇師匠から『そらあかん、もうウチの師匠はわてらがサポートして弾いているようなもんや』と言われた」という。

 この映像もワッハで見る事ができるはずだが、琴月は老齢のこともあってか、呆然とすることが多く、琴昇が「さあ、先ずお聞きいただきますは……」「その次は……」と口上を切りながらやっていた印象がある。

 途中、琴月が演題を忘れたか何かで、琴昇が「お年寄りやさかい、よく聞かせなあかん」と愚痴ともギャグともつかない事を言っていたのが印象的であった。

 しかし、三味線演奏に入ると背筋がシャンッと伸び、ちゃんと演奏できるのだから不思議なものである。

 その後も高座に出ていたが、1973年5月の神戸松竹座を最後に、高座へ出なくなった。そこから一年後の1974年8月、老衰で静かに息を引き取った。

 知人より見せてもらった訃報(多分『大阪朝日新聞』)が手元に写してあるので引用しよう。

 千葉琴月さん(ちば・きんげつ=漫才師、本名・千葉よしみ)二十七日午前四時、老衰のため大阪市天王寺区筆ヶ崎町一七の早石病院で死去。八十四歳。山口県徳山市出身。告別式は二十八日午後一時から天王寺区真田山町四ノ一三、浄照坊で。喪主は長男琴昇氏。 
 十六歳のとき大阪でデビュー。昭和十九年、長男とその夫人・琴美さんとトリオを組み、三弦粋曲で売り出した。最後の舞台は昨年五月の神戸・松竹座。

 相羽秋夫によると「釈尼正含」が戒名であるという。墓は浄照坊にあった――というが、2023年確認したところ、墓しまいされた模様か。あるいは移転したか、ご存じの方、ご教示ください。

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