浮世亭ジョージ

浮世亭ジョージ

浮世亭ジョージ・ニック安岡(左)
人 物
浮世亭 ジョージ
・本 名 小川 ジョージ
・生没年 1951年3月29日~2013年頃?
・出身地 大阪
来 歴
浮世亭ジョージは戦後活躍した漫才師。アメリカ人の父、日本人の母の間に生まれ、「漫才初の青い目の漫才師」と称された。浮世亭とん平の門下になり、国分健二とともに「浮世亭ジョージ・ケンジ」を結成。一時代を築いたが、早くに別れた。
経歴は『週刊明星』(1977年8月7日号)の特集に詳しい。
父は朝鮮戦争のために来日した米軍軍曹。母は日本人であった。生後間もなく朝鮮戦争が終わり、父から「アメリカに来ないか」と誘われた。母親は移住資格一式揃えて渡ろうとしたが、渡航直前に心細くなりそのまま日本に残ってしまったという。
若い頃はイケメンとしてもてはやされたらしく、クラスの人気者であった。西淀川中学時代からギターを始め、グループ・サウンズブームに便乗する形で「ミッキーマウス」というチームを結成。ボーカルとして活躍し、セミプロで食っていた。
中学卒業後もバンドを続け、音楽喫茶・ナンバ一番で人気を集めるなど早くから芸能界と関与を持った。
その頃、音楽の合間合間で漫談風の司会をやっており、「そんなにおもろくしゃべれるなら漫才でもやったら」と勧められていたが、当人は気乗りしなかったという。
しかし、グループ・サウンズブームが去ったことやバンド内の分裂もあり、進路が再び問われる。
その後、お笑いに進むことを考え、当時人気を集めていた歌謡漫才のザ・パンチャーズに参加。ギタリストとして在籍したが1年足らずで体調不良になる。
1973年秋、胸を悪くして大阪羽曳野病院に入院。この時、知り合った看護師と結婚している。
1974年、ガッツジョージ・アーボーを結成。アーボーはザ・パンチャーズ時代の知人だったようだが、2年と続かなかった。
1976年7月、浮世亭ケンジとコンビを結成。
ジョージが「だまれ!」、ケンジが「シャラップ!」と啖呵を切って、「あべこべやがな〜?!」と顔を見合わせる間の面白さやあどけないケンジと二枚目のジョージのルックスも相まって大受けをした。
1977年4月11日、上方漫才大賞新人賞を受賞。
一時期はテレビやドラマのレギュラーを持ち、月に300万円を稼ぐほどの売れっ子となった。角座でもいい出番を貰い、妻をめとって、子をたくさんこさえるなど、若くして成功をおさめた。
その特異な風貌から「青い目の漫才師」と称され、メディアの人気者となった。
しかし、1978年4月、ケンジが突如失踪しコンビ解消。
『日刊ゲンダイ』の『伝説の漫才師・浮世亭ケンケンさんが語る“失踪事件”の真相』では――
「組む相手が長続きしなかったのは、相方の不器用さに我慢できなかったため。で、漫才も一方的にボクが突っ込むスタイルになったんです。あれはジョージと組んでた時でした。 テレビのレギュラーも持って月300万円は稼いでたんだけど、ネタを考えてるのは全部オレなのにって不満が募り、番組をすっぽかしたんです。と、駅で洋ちゃんとバッタリ顔を合わせ、説得された。だけど、ボクは頑として応じない。しゃ~ないかと洋ちゃんはあきらめ、当時の洋ちゃんの彼女の家にかくまわれました」
とあるが、『週刊明星』(1978年4月9日号)の「浮世亭ジョージ・ケンジが突如解散!!」ではまったく違う事情が出ている。曰く――
ケンジは18日朝、大阪・ 阿倍野区の自宅を出たまま、ケムリのごとく消息を絶った。
午前10時にNHK(BK)で番組の打ち合わせがあったが、そこへ来たのはジョージだけ。そのあと、よみうりテレビで会う約束の時間にもケンジは来なかった。もちろん、スタッフが自宅へ何度も電話をかけたが、スミ子夫人も 「見当がつきません」とおろおろするばかり。
蒸発だ。ジョージ・ケンジの “日米コンビ”は51年7月結成され、急テンポのナウな笑いが人気になって、上方漫才大賞新人賞やNHK上方漫才コンテスト話術賞を受け、今やテレビのレギュラー3本。単発を入れると週に10本くらいの番組をこなす売れっ子だった。
ノリにノッてると思うたに、 ケンジはどないしたのか? 内輪話をすると、人は見かけによらぬもので、ケンジの性格はひどく内向的。ネタにこだわり、考え込み、「もし客にうけなかったらどうしよう?」と、しょっちゅう悩んでいたらしい。
急激な人気上昇についていけず、自信を喪失したといえばそれまでだが、本人の苦しみは他人にはわからない。それにケンジは最近体調をこわしていた。
肝臓と扁桃腺をやられて、3月11日からの新花月中席をおりていたのがそれだ。
打ち合わせをすっぽかした翌15日も終日行方不明。20日になって松竹芸能がスミ子夫人に「失跡届を出しては……」とすすめたが、
「待ってください。子供もいることですし、 心当りを全部さがしていますから」と涙声ですがられた。
売れっ子コンビだから身体があく日はないが、やむなくジョージがわびを入れたり、代役を立てたりでお茶をにごした。だが25日からは、東京でNTV『ヒット78』とフジテレビ『買物ゲームでヨーイドン』のレギュラー司会が待っている。病気ならきちんと診断書を出さなければ、どえらい事態になるのだ。
せっぱつまった松竹芸能では 「22日午前中までにケンジが姿をあらわさない場合は、テレビ局に対してすべてをぶちまけるしかない」という最後通告を発した。
これが何らかの形でケンジの耳に入ったのかどうか、2日の午前3時頃、本人から師匠にあたる浮世亭とん平の家に電話がかかった。「おっ、ケンジか? どこにおるんや? しっかりせい」「す、すんまへん。知人の家に……」「すぐ行く!逃げたらあかんでエ」てなもんで、やっとケンジは師匠宅へ連れて来られたが、彼はオイオイ泣くばかりで、失跡してからの足取りも、肝心な理由もさっぱりわからない。
朝になって師匠が松竹芸能の長谷川専務に電話を入れ、午前中にケンジを会社に引っぱって行った。もちろんジョージも駆けつけた。
どこにいた? 原因は何や? 借金か、女か、バクチか? ためつすがめつ、答を引き出そうとしたが、ケンジは見るもムザンに打ちしおれ、
「申しわけない……、かんにんしてんか……、疲れて、もう舞台に立つ自信がのうなった……」
あとは口の中で意味不明なことをボソボソ。さっぱりらちがあかず、涙をぽろぽろ流すのみ。
長谷川専務は断をくだした。
「番組関係者にも多大の迷惑をかけたし、社会的な責任も取らなければならない。ジョージ ・ケンジのコンビは解散してもらうが、いいね?」
「ヘエ……」
ケンジはしょんぼりうなずいた。ジョージが大マジで、
「ほんまか? ほんまにやめていいんか? こんな別れ方するのはさびしいやないか。わび入れてもういっぺん、一から出直そうやないか!」
と励ましたのも水のアワ。ケンジは魂を尻の穴から抜かれたように、よよと泣いて、
「すまん、もう何もでけへん……」
仕方なくコンビを解消し、1978年5月、相方にあぶれていた大平シローとコンビを組む。
実力派ということもあってか、わずか5か月後の1978年10月上席には、角座の出番をもたせてもらっている。
1979年、味の素ほんだしのCMに出演。しかし、太平シローとは息が合わず、このCM撮影後まもなく解散している。
1979年末、浮世亭ケンジとよりを戻し、1980年正月より「ジョージ・ケンジ」を再結成するが1年足らずで解散。
1981年春、イタリア系アメリカのニック・バレンチーノ(ニック安岡)とコンビを組み、「ザ・USA」を結成。
1981年11月29日放送の『花王名人劇場』の「マンザイNEWパワー」にコント赤信号、ゆーとぴあ、酒井くにお・とおる、コントレオナルドなどとともに出演。パンフレットには――
ザ・USA
日米のハーフの小川ジョージと、
米伊のハーフのニック安岡がコンビを組んだ、世にも不思議な漫才である。
ボケを演じていたジョージが、今回は素人で年も若いニックを無口なボ
以前にケンジやシローと組んで、 ケに仕立てて、ツッコミ役に廻ったことが予想以上に成功して、新人コンビとは思えぬほど、客席の笑いを呼んでいる。東京の舞台へ進出しても、成功することは間違いあるまい。
と激賞されている。
1982年1月31日放送の『花王名人劇場』の「東西激突!爆笑ニューパワー」では酒井くにお・とおる、大木こだま・ひびきなどと共に次世代の漫才師として取り上げられている。
しかし、売り出して間もなく漫才ブームが終わったことやジョージが不祥事を起こしたことによりコンビを解消してしまった。
ジョージは大変な子だくさんで正妻の間に五人の子がおり、その上他の女とも浮名を流したそうである。旭堂南陵は『おもしろ芸人列伝』の中で女癖のすさまじさを茶化しているが、中年以降は身持ちの悪さが出てくるようになったという。
昭和末は色々と身持ちの問題があり、漫才界も離れていたことがあったが、間もなく浮世亭三吾の斡旋で復活し、「浮世亭三吾・ジョージ」として復活。
これで数年ほど活動したが、またしても身持ちの悪さでコンビを解消してしまっている。
弟弟子の浮世亭蜻蛉によると覚せい剤でやらかしたらしく、とんぼ氏のブログ曰く――
僕がお会いした頃はガタガタです 覚醒剤で前科3でした、 よく言ってました「とんぼ俺は逮捕されたんじゃない、自首したんや!」←バカです、
昔は天才といわれ<ほんの一部以下> 、
若かれしはハンサムでもてたらしい<これは納得>、
しかしお会いした平成七年1月は本当にガタガタ 酒癖は素行の悪さで誰からも相手にされず 再婚相手の連れ子と 仕方なく相方いないので浮世亭ジョージショージを結成、
ネタはジョージケンジのまま、 ジョージは頭が麻痺で止まってしまった、
軍歌や 演歌他 大人のネタをしてもショージ<17歳当時>だから無理がある、 ショージもネタを考える能力がない、
平成12年、 ジョージ再び覚醒剤で逮捕 約二年留守、 あちこちで子供を作り 野球ができるほどの数らしい、
ジョージは平成14年 出てくるが、
誰にも相手にされず、 忘れた頃に酔って訳のわからん電話がありましたよ、
年に一度の浮世亭の意味無しの事始めで会うも、
毎回 アホのひとつ覚えの同じ話ばかり、
頭が止まってる、
最初の頃は浮世亭ナンバー2だ凄いと思ったが今はただの覚醒剤麻痺と思いました、
その後 二度覚醒剤で逮捕、 そして他界、 ジョージは再婚相手と離婚もショージとはコンビをそのまま、そして一緒にくらす、不思議です、
捕まった後は連れ子と浮世亭ジョージ・ショージを結成していたが、往年のような覇気は薄れていた。わずかに浮世亭の寄合に顔を出すだけで、高座にもほとんど出なくなった。
そして、2010年代に入り、ひっそりと息を引き取ったという。
演芸作家・萩原芳樹氏のブログ『続・お笑い作家の吐息』の2013年6月27日の記事に――
今朝ラジオ大阪に行くと、一通のFAXが届いていた。
リスナ-の方から私宛であり、「浮世亭ジョ-ジさんは、お亡くなりになったそうですよ」と。
ラジオの生放送で早速それを伝えようかと思ったが、裏付けも取れていないので、とりあえず先送りすることにした。
誰かに聞いてみようかと思ったが、ジョ-ジの消息を知りそうな人が思い当たらない。
ジョ-ジは、アメリカとのハ-フで、グル-プサウンズ出身。
パンチャ-ズの初期のメンバ-であり、その後は「ジョ-ジ・シロ-」(太平シロ-さんとのコンビ)を経て、「ジョ-ジ・ケンジ」「ザ・USA」と、次々に相方を変えた人。
私と組んでいればなぁと、思ったこともあった。
真相を確かめる相手を、とりあえずは探すことにしよう。
ジョ-ジは売れていて当然の奴だった。
私とは何故だか気が合ったものた。
浮世亭とんぼ氏のブログでも「ジョージ亡き今」と記されているため、没しているのは確かだろう。


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