小間ロイド・林華嬢

小間ロイド・林華嬢

 人 物

 小間こま ロイド
 ・本 名 金澤 太郎
 ・生没年 1898年~1963年以降
 ・出身地 ??

 はやし 華嬢かじょう
 ・本 名 金澤 ミサエ
 ・生没年 1908年~1963年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 小間ロイド・林華嬢は戦前戦後活躍した漫才師。夫婦であったという。「漫才」とはいうものの曲芸を中心とした特殊な漫才を展開。関西では貴重な曲芸家枠として活躍した。ロイドはサーカス、華嬢は奇術師という前歴も異色であった。

『笑根系図』によると、ロイドは、金沢浅太郎というサーカスの芸人の弟子。本名が同じところを見ると、親子だろうか。

 金沢浅太郎は謎が多く残るが、『芸双書さすらう』などを見ると、綱渡り・針金渡り、アクロバットなどを得意とした一座だったそうで、明治時代には江川一座等と並んで曲芸・サーカス一座として人気があったそうである。

 凄まじい研究サイト『見世物興行年表』に掲載されている『神戸又新日報』(1894年2月17日号)をみると、

「相生座の大入 相生座金澤浅太郎、早竹寅吉一座の曲芸は非常の大入にて、一昨日の日曜日の如きは札止めなりし程なるが、夜芸の中浅太郎が一線の針金の上を二輪車に乗じて自在に渡り、又一人の若太夫が木履を穿ちて丸青竹の上を渡るなどの諸芸は、何れも目新しくて満場の喝采を得、其他浅太郎の行灯渡り、又七八歳計りの女子の梯子乗り、十二歳位の少女が数本の小棒杭の上を下駄を足に穿ちて身体を回転しながら往復等の危険なる曲芸は、思わず見物人をして手に汗を握らしめたり。最後に浅太郎が身を扮して芝居風の立廻りをなし、得意然と役者の真似事をなすは曲芸の本分を忘れたるものにて却つて見苦しければ、是れはやめるこそよけと人々は評し合えり」

 とある。綱渡りの名人と言われた早竹寅吉と二枚看板であったところから、相当な人気はあったのだろう。

 また、一つ年下に金澤次郎という人物もいたそうである。これは弟だろうか。

 幼い頃から芸を仕込まれたそうで、金沢浅太郎一座の花形として活躍。この時憶えたアクロバットや曲芸が後年の武器となった。

 しかし、大正に入るとサーカス人気も下火になり、浅太郎も老いた為に一座は解散。

 太郎は独立し、当時流行っていた喜劇役者・ロイドから着想を得て「小間ロイド」と改名。

 1928年には既に一枚看板となっていた模様で、『近代歌舞伎年表』の1928年6月1日~8日の「全国座長万歳大会」の中に、

○一日より毎日昼夜二回改造したる松竹専属全国万歳名人大会を開催するが、その出演順は浪花家幸枝・高田幸春・玉子家光子・中村浪子・小山五郎・谷川ペチャン子・初音家時子・同源三・佐賀家喜笑・旭芳子・桜川奈良江・同美芳・菅原家忠々・住吉家杵丸・江戸家臼五郎・同二三丸(中略)小間ロイド 

○杵丸・臼五郎の”餅つき”、ロイドの”曲芸”、岩てこ一行は”唄道楽”の呼物だけに、相変らず喝采を博してゐる。

 という記事が紹介されている。 

 師匠の浅太郎は1928年に78歳で亡くなっている。こうした別離も漫才界転向のキッカケになったのではないだろうか。 

 1930年代には華嬢とコンビを組んで活躍をしていた模様。松竹演芸部に所属し、主に地方巡業で活躍したと聞く。

 相方の華嬢も謎が多いが、元々は奇術師・一心亭旭玉の弟子であったという。この旭玉も謎が多いが、「明治15年生れ」の人物だそうで、1963年時点でも健在。弟子には、彼女の他にワンダー天勝、岡口チャップリンがいる。

 奇術や曲芸をやっていたというが、金沢太郎と結婚。夫婦漫才になった模様。

 戦前は一応舞台に出ているのは確認できるが、その足跡を追うのは難しい。吉本のようなある程度資料が残っている所に出ていないので、なおさら、である。

 戦後は大阪に戻り、戎橋松竹や道頓堀文楽座に出演。また名古屋や東京の劇場にも出演するなど、相応の人気があった。

 漫才とはいいながらも、実際は曲芸に近い芸風だったようである。そうした芸風は「曲芸」という形で評価され、漫才の間の息抜きという形で出番を貰えることに繋がった模様。

『上方演芸大全』の横山ホットブラザーズの談話によると、「積み上げた梯子の上に登って、クラリネットを吹く」というような離れ業を見せて観客を驚かせたという。他にも椅子を重ねてトンボを切ったり、バランス芸を見せたりしたようである。

 また、上方演芸協会に早くから入会しており、その関係で名簿から割り出すことができた。

 1960年代前半まで一応活躍している様子が確認できるが、その後間もなく引退した模様。

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