華ばら

ありし日のフラワーショウ
華ばら(左)・華ぼたん(中央)・華ゆり(右)
(飯村隆氏提供)
人 物
華 ばら
・本 名 木下 千鶴子(旧姓・浜田)
・生没年 1936年4月28日 – 2006年10月7日
・出身地 兵庫県 神戸市
来 歴
華ばらは昭和から平成にかけて活躍した漫才師。フラワーショウの三枚目として活躍。華ぼたん亡き後は跡目を継いでフラワーショウを率いた。
実家は神戸。父・浜田藤四郎は興行師で、姉も歌手という芸能一家であった。
幼い頃から芸に囲まれて育ち、学校よりも芸事が好きな子に育ったという。幼い頃からなかなか意地が強く、親に学校を勧められても全く行かないような胆力の強さもあった。
学業もそこそこになってしまったばらは芸人を目指したかったようであるが、親兄弟からは早くに結婚を勧められたという。
周りの紹介で左官職の男と知り合い、結婚。
17歳で入籍をしたものの、結婚相手がすぐさま肉体関係を求めてきたために失望。ウブで意地の強いばらは結婚相手を置き去りにして、そのまま夜逃げをしてしまった。
その後は各地を転々とした後、板前の世界に入り、料亭で働いていた。
しばらく大人しく暮らしていたが店に出入りする流しの歌手に憧れて店を飛び出し、神戸三宮へ移籍。ここで流しの歌手になった。
1960年に西川ヒノデショーに参加し、数年ほど楽器や漫才の勉強をする。
座長の妻であった西川サクラは厳しくも優しい人で、これまで反抗的だったばらもサクラの言うことはきっちり聞くようになった。
1961年頃、結核に倒れた西川サクラを、ばらは親以上に尽くし、介抱してみせたという。以来、サクラはばらを気に入り、娘のように扱うようになった。
サクラが回復して間もなく、彼女は西川ヒノデから独立しようと考え始めた。そこで声をかけられて、サクラの新チームに参加。
1961年10月、フラワーショウと名付けられたトリオに加えられ、華ばらと名乗った。神戸松竹座で事実上のデビューを飾る。
この頃は華ぼたん・あやめ・ばらというトリオであったが、ばらのボケが不完全燃焼であり、ぼたんとあやめがボケの取り合いをする……という形で不完全なトリオであったという。
しばらくの間はぼたんとあやめの浪曲や美声が売り物になっており、「人気はそこそこあるがパットしない」という状態にあった。
1963年2月27日、ぼたんとばらは養子縁組を結ぶ。ばらはぼたんの姓名である「木下」を名乗り、「木下千鶴子」と改称した。二人は仲良く同居するようになった。
それから間もなくばらは、1964年にバセドー病に罹患。一命はとりとめたものの、顔は薬の副作用や病気で膨れ上がり、目玉が飛び出すようになった。
闘病を続けながらも高座に出ていたが、この飛び出した目玉を逆手に取り、徹底的な三枚目役に徹するようになった。
1966年、ぼたんの弟子であった華ゆりが正式なメンバーに入るとメキメキと頭角を現した。ギターと三味線をかき鳴らし――
♪ようこそ皆様、ご機嫌よろしう、歌って笑ってどうぞよろしく願います
というテーマソングは今も歌われている。
リーダーとして話題を取り持つぼたん、男勝りの風貌やダミ声でボケ倒すばら、そしてゆったりとスローモーにカマトト声でしゃべるゆりというトリオが完成し、かしまし娘やタイヘイトリオに並ぶ人気を得た。
目が大きくて鼻が低いところから、「ばらやんコケても鼻打たん」「あんた(ばら)はええなあ、春が来んでも目(芽)が出てる」「ゴリラ」などと散々に茶化された。それに対して強くツッコむという間の良さも人気の秘訣であった。
1969年、上方お笑い大賞奨励賞を受賞。名実ともに大看板へと上り詰めた。
私生活では男性顔負けのダンディだったそうで、髪はショートに切りそろえ、服装も男物のスーツやコートを好んで着ていたという。
舞台でもハスキーボイスを生かした男性の持ち歌を歌うことが多く、優れたギターテクも相まって、三枚目ぶりな風貌や態度とときおり見せる男前さのギャップが浮き彫りになった。
そして、男装的な振る舞いをしたこともあり「フラワーショウは老けない」という評判が立った。男っぽいしぐさが逆にアクセントとなり、女性トリオにありがちな「老けが目立ち始めて笑えなくなる」というデメリットをおさえることができた。
古川嘉一郎は『上方笑芸の世界』の中でばらの立ちふるまいを褒めている。
ぼたんの美貌と艶やかな浪曲。こぼれるような笑顔がキッとしまって、そこからついて出る鋭いつっ込み。そしてばらのハスキーボイスと、すねたようなしゃべり方、面倒臭そうな物憂い口調、とび出る眼を持った愛嬌のある顔、この人のはにかんだような笑顔がいい。そしてゆりの超スローテンポのしゃべり。マンネリだマンネリだと言われ続けてきたが、頑としてこのパターンを変えない。これが結局一番漫才しやすいパターンであることを知っているからであろう。超スローテンポとはいえ、やはりそこに変化をつけていっているのだ。ばらのつっ込みを受けて、軽くつっ込み返す時は、テンポを微妙に速くしている。歌の時は、普通のテンポだ。ばらの「歌う時だけは速いのゥ」というつっ込みが、よく笑いをとった。
お笑い以外では自慢の美声を生かした歌謡曲を何作も発表している。
1971年、ローオンレコードより『幻のブルース』を発売。これはカバーが出るほどのヒットであった。
他にもローオンレコードから『男のみち・義理のしがらみ』、『女の舞台』、『おんな別れ雨・何考えてんの』『帰っておいで・あたしが悪いんだよ』など出している。
長らく歌謡漫才の第一線で活躍し、関西ではずば抜けた人気を獲得。かしまし娘やタイヘイトリオに並ぶトリオ漫才の代表的存在にまで上り詰めた。
一方、1980年代に入るとホームグラウンドであった角座が閉業し、音楽漫才の需要が減るなど辛酸をなめた。
1989年5月29日、華ぼたんが琵琶湖で入水自殺を遂げる。師匠であり母でもあったぼたんの急逝にばらは人目をはばからず号泣したという。
ぼたんの葬儀を挙げた後、ばらは「フラワーショウを続ける」と宣言。ゆりとのコンビに移行し、「フラワーショウ 華ばら・ゆり」という名称になった。
ぼたんというよき中間役を失った今、ゆりがスローモーでうだうだしゃべるわけも行かず、ゆりは普通の口調に戻り、徹底的にばらの風貌や老化を茶化すスタイルに移行した。
1996年、上方お笑い大賞25周年記念特別賞を受賞。
晩年は松竹芸能の劇場や演芸番組の『上方演芸会』などに出演し、長らく気を吐いていた。
21世紀に入った後も飄逸な音曲漫才を展開し続けていたが、2006年10月に肝不全のため死去、69歳であった。
彼女の死によりフラワーショウは解散となり、一人残されたゆりは女優へと転身した。
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