川端一柳・花菱松子
人 物
川端 一柳
・本 名 窪田 成太郎
・生没年 1902年11月29日~1963年以降、1980年以前
・出身地 朝鮮 平壌
花菱 松子
・本 名 窪田 松子
・生没年 1910年8月8日~1963年以降
・出身地 ??
来 歴
戦前・戦後活躍した漫才師。一柳は、朝鮮出身の外国人だったという。生年は「笑根系図」『文化人名録 10版』『出演者名簿1963年』から割り出した。『上方演芸人名鑑』には、
川端一柳 かわばたいちりゅう 【漫才】
本名窪田成太郎。一九〇二(明三五)~没年未詳。
中国生まれ。呉成錬の名で中国服を着て漫談をやった。妻の花菱松子とコンビを組んだが死去。師匠なしの独立独歩。
とある。呉成錬は「ご・せいれん」と読むらしい。
また、『朝鮮新聞』(1936年10月6日号)に、
呉成錬は半島出身平壌生れ、内鮮融和をモットーとする稀代の音曲の名手、内地各地で花菱松子との名コンビーで溢るゝばかりの人気を持ち歌に歌謡曲に新方面を開拓……
芸歴は古く、1928年頃には大阪の寄席に出演するようになる。『上方落語史料集成』に、
△南地花月 改修中休席
△南地紅梅亭 五郎・紋十郎、小扇、クレバ・栄治、小春団治、扇遊、三木助、枝鶴、呉成錬、小文治、芝鶴・歌蝶、円馬、小柳三。
△北新地花月倶楽部 塩鯛、福団治、芝鶴・歌蝶、円若、円馬、小扇、クレバ・栄治、クレバ、清、蔵之助、五郎、紋十郎、小柳三、円枝、呉成錬、小文治、ベニヂツク、サモパイ。
△松島花月 小円馬、小柳三、扇枝、ベニヂツク、サモパイ、小文治、文治郎、静代・文男、三木助、小春団治、花奴、登吉、扇遊、蔵之助
△天満花月 光鶴、円枝、久春、楽春、五郎・紋十郎、政夫・捨市、小春団治、円若、勝太郎、一春、出羽助、福団治、小扇、クレバ、清子、喬之助、文治郎、呉成錬。
とある所から、経歴は古い。以来、南地花月などに出演。諸芸尽くしの漫談を演じたそうで、いわゆる外国人タレントの走りという形で人気を集めたらしい。
一方で、その出自が、高座に暗い印象を漂わせたらしく、『京都日日新聞』(1931年8月25日号)に、
〇寄席覗き 万悠太郎
久しぶりに入つた寄席だつた。お客は百人をちよつと出たあたり。地蔵盆に賑はふ千本通りにくらべてこれはまた寂しい大入である。最初聞いたのは洋服をきた一瓢といふのと和服の万歳、何時聞いても若い人の万歳は風邪をひきさうで御免蒙りたくなる。さうした万歳三、四組の間にはさまつて春団治と扇枝が顔を出した。春団治も西陣へ来るとガラリと落ちて実に下司なハナシカ家である。アク抜けのせぬ御祝儀強制のまくらからしてイヤにお高くとまつているところが眼ざはりだ。扇枝は相変らず提灯屋のはり手だ。一向にパツとせぬ旧慣墨守のありさま寂しい。大入もこれでは段々に寂しくなつてくる。この二人の後へ顔を出したのが久里丸、舌たらずの駄洒落をとばしてトヾ久里丸式パレードで尻を濁してゆくあたり、職人衆にもサラリー衆にもオヨソ縁遠い高座である。それでもお客は笑つている。何故笑ふのか。寄席はたしかにグロテスクである。とめに出たのが朝鮮人呉成練君、劈頭朝鮮の紅屋の娘をがなり立て、日本の端唄をうなつていたが、朝鮮人々々々と自ら卑下して人間の数にも入らぬやうな口吻を洩らしているのが聞く者をしてうたゝ暗然たらしめる。何故高らかに唄へないのか……客を殴り殺すつもりでどかつと一番売り出してみては何うか……。(西陣長久亭雑観)
とある。これもまた当時の日本人の朝鮮人観を漂わせる一つの悲しい資料である。
1933年頃に、花菱松子とコンビを組んで漫才に転向。『笑根系図』には「花菱松子 花菱朝吉門人一柳妻 明治四三年(現)」とある。芸名から、吉本が抱えていた女道楽グループ「吉花菱女連」(吉花菱とも)の出身か。
漫才コンビ結成後、一時期東京にいたらしく、漫才が定着する前の東京で人気を集めた。『演芸画報』(1933年6月)掲載の荒川木風『浅草芝居国第三展望』の中に、
池の前の萬成庵を改築したのが、名もその儘の萬成座である。小屋の外形、内外の赤塗、何とはなしに支那のチャブ屋か女郎屋は斯うもあらうかと想像させる小屋である。現在は吉本興業の経営で色物の定席(中略)もう一人、掛合音曲の花菱一名松公は三味線ヴァイオリン笛、何でもござれの達者もの、徹頭徹尾器用で通す浅草向としてはお誂へ向の天才である。
とある。当時の芸風を偲べる数少ない資料としても、いい。
以降は吉本系の劇場で活躍したようであるが、そのくせ資料がない。良くも悪くも芸達者な処から、中央の劇場よりも、巡業や端席で稼いだ模様か。
1936、7年頃まで、「呉成錬」の名前で活躍しているが、間もなく「川端一柳」と改名した。理由は知らんよ。
戦後も健在であったというが、実質は開店休業状態にあったらしく、番組表にもほとんど出てこない。
1963年にまとめられた『笑根系図』『文化人名録 10版』には、二人とも健在として出ているが、1980年編纂の『上方演芸人名鑑』には名前が消えていることから、その間に没した模様。
掘り下げれば、外国人タレントの先駆けの一組として、何か面白い事がみつかるかもしれない、そんな人ではある。
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