荒川久丸・小夜子

荒川久丸・小夜子

 人 物

 荒川あらかわ 久丸ひさまる
 ・本 名 若井 ?
 ・生没年 ??~1946年
 ・出身地 ??

 荒川あらかわ 小夜子さよこ
 ・本 名 若井 ふじ子
 ・生没年 1919年~1976年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 荒川久丸・小夜子は戦前活躍した夫婦漫才。戦後、上方漫才の大スターとして活躍した若井はんじ・けんじの実の両親として知られる。

 荒川久丸は荒川ラジオの弟子。都家駒蔵などとは兄弟弟子にあたる。

 荒川小夜子は荒川ラジオ・久栄の娘にあたる。戦後活躍した木村透(二代目ラジオ)は義理の弟。

 久丸は古株の漫才師で昭和一桁には既に東京の浅草に進出している。当時の『都新聞』(1927年5月10日号)に、

▲音羽演芸館 十一日より米子検小雪、春駒、清香、小夜子、友彌、たま子、梅子、竹子、光子、清子、万歳づぼら、米丸、七福、一六、久丸加入

 とある。ただ、荒川ラジオが名古屋を拠点していた関係からか、名古屋を中心とした活動が多かった。

 1933年10月7日、京都富貴の出演中に小夜子が産気づき、男の子を生む。「輝雄」と名付けられた長男こそ、若井はんじである。

 逆算すると、小夜子は数えの15歳ではんじを生んだという事になる。「中学生の母」どころの話ではない。生まれた子供は大変やんちゃな子供だったそうで両親の手を焼いた。

 1935年4月18日、次男・修身誕生。大人しい子になるように「修身」と名付けたがこれも大変なやんちゃな子供に育ってしまった。この子が若井けんじである。

 さらに、その下にもう一人男の子を生んでいる。この子は芸人にならずサラリーマンになった。

 師匠であり親であるラジオ・久栄が名古屋中心であったせいか知らないが、吉本興業にも籠寅にも入らず、小さい事務所を転々とした。そういう所も大ヒットを飛ばしきれない原因だったのではないだろうか。

 しかし、達者な芸と名門出身の家柄は馬鹿にも出来ず、巡業や端席の仕事は随分とあったそうである。

 その辺りの経緯は、はんじ・けんじと仲が良かった山川静夫の『上方芸人ばなし』に詳しい。

 久丸小夜子のコンビはさほど売れるというほどのこともなかったが、西から東からけっこう声がかかって多忙であった。東京へも大阪へも便利のええように名古屋へ住んだらどんなもんやろと、いかにも漫才らしい発想で二人の腕白を連れた久丸・小夜子はしばらく名古屋住まいをした。

 戦時中は名古屋の寄席の他、昭和演劇なる会社に入って、京阪の寄席や色物として細々と出ていた。

 しかし、戦局は悪化し、既にいい年になりかけていた久丸にも召集令状が届いた。久丸は親子を残して出征する事となる。久丸にとって、この軍事教練は地獄で、結果として命を落とす事となった。一つの戦死といえよう。以下は、『上方芸人ばなし』

 戦争がはじまった。 「またもまけたか八連隊」といわれるほど大阪の連隊は弱かったという伝説は、兵隊の中に漫才がいて笑ったために力がぬけたなどということもあるまいが、久丸も兵隊にとられた。だがヒ弱いところはさらになく、軍隊では銃剣術の師範格としてかなりきびしい兵士だったという。そして、それが仇になった。 銃剣術は胸に厚い防具をつけているとはいえ、やはり肺は圧迫される宿命にあり、生来の酒好きによる不摂生と重なって胸を病むようになってしまった。

 1945年、敗戦を迎え、久丸は帰還した。しかし、この頃には軍隊時代の無理と肺病、さらには焼け野原の衛生環境の悪化や食糧難でますます苦しむ事となった。

 戦後の混乱期も酒を求めてさまよい歩いた。 危いと知りつつ仲間七人と飲んだメチルアルコールではその六人までが重体になった。ところがたった一人いのちびろいしたのが久丸である。
「おれは運のええ男や、不死身や」
 そう言って久丸は、やられた六人の仲間のとむらい合戦とばかり、もう一度同じメチールをまだ幼いない輝雄に買わせにやり、あおった。酒だけではない、 胸もすっかり結核菌をはびこらせるにまかせた状態だったのに、あくまでも強気な久丸は、元も子もなくして喀血し、あっけなく死んでしまった。 昭和二十年のことである。

 ただ「昭和二十年に死んだ」とは嘘で、父が亡くなる以前より長男・輝雄(はんじ)は舞台に上がっていた。初舞台は親子三人のトリオ漫才「久丸・小夜子・照坊」という事となっている。

 それからしばらくして久丸は倒れて死去。遺骨は後年、神戸・安念寺に納められたという。ここにはんじの遺骨もあるはず。遺族が墓じまいさえしていなければ、まだ残っているはずだが――

 夫を失った小夜子は輝雄と本格的にコンビを組んで、巡業を続けた。感傷的であるが、 『上方芸人ばなし』がこれをよく描いている。

 大事な亭主であり相棒である久丸を失った小夜子は悲嘆の涙にくれたが、いつまでも泣いてはいられない。
 十二歳になった長男の輝雄に照坊という芸名をつけて、照坊、 小夜子の母子漫才が巡業をはじめた。 小学校の一年生の時にわずか二十日間通したきりであとはぶっつりと学業をやめてしまった長男を救う道であり、また母親みずからも助かる生活の道はこれしかないと小夜子は思った。
 はじめは多少の同情はあったものの、そのあと、どうにもならない笑われ者でしかなかった照坊だったが、血筋というものはあらそえなかった。
 四年ほどすぎると照坊はすっかり舞台になれて、ベテランの母親と組んで、芸達者な漫才に育っていた。しかも弟の修身がこれまた見よう見まねで漫才のマネゴトをするようになろうとは、小夜子は夢にも思わなかった。

 1948年、輝雄と修身がコンビ「荒川福児・笑児」を組むにあたって、芸能界の一線から退き、以降は息子の後見人のような形となった。

 兄弟は長らく名古屋で人気を集め、生活には困らなかったというが(よく名古屋にいたため、訛りが云々言われるが、後年けんじが語った所によると、仕事も金もあったそうで、決して零落していたわけではないが)、秋田実の斡旋で大阪へ上り、「若井はんじ・けんじ」と改名した。この時、小夜子も同伴した模様。

 デビュー当時は名古屋訛りや泥臭い芸で顰蹙を買ったが、秋田実の教育やテレビラジオの出演でめきめきと頭角を現し、「若井はんじ・けんじ」ブームを見届ける事が出来た。そのおかげで、家を買い、墓も買い、夫の菩提を弔う事も出来たという。

 しかし、はんじは長年の飲酒や疲労のせいで胃癌及び肝臓癌に罹患。発見された時はすでに手遅れであった。

 1976年2月6日、はんじは尼崎市の県立尼崎病院で死去。臨終の場に小夜子も居合わせた。この訃報記事から本名と年齢を割り出した次第である。以下は『週刊平凡』(2月19日号)の『上方漫才若井はんじが壮絶な死!』の一節。

 臨終の席に立ち会ったのは、奥さんの千栄子さん(39歳)と、はんじの母・あや子さん(57歳)ら数人の身内だけだった。

 この死を持って「はんけん」コンビは終焉を迎えた。弟のけんじは末の弟を口説いてコンビを結成するも目論んだが、この弟もコンビ結成の話がまとまる寸前に事故死。

 小夜子はわずか数年の間で二人の子供を失ったという事となった。この二人の死はけんじの心をひどく荒らす事となり、カムバックするまでの間、けんじは酒浸りの日々を過ごした。

 けんじが1983年9月、東大阪市議会に当選する頃まで健在だったらしいがどんなものだろうか。神戸の墓に行けば今も夫婦仲よく眠っているのかもしれない。

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