キクタショウ(菊田秀夫・三津夫・二三夫)

キクタショウ(菊田秀夫・三津夫・二三夫)

左から菊田秀夫・三津夫・二三夫

 人 物

 菊田きくた 秀夫ひでお
 ・本 名 原 実
 ・生没年 1933年3月8日?~??
 ・出身地 福岡県

 菊田きくた 三津夫みつお
 ・本 名 前田 良一
 ・生没年 1938年4月30日~??
 ・出身地 奈良県 大塔村

 菊田きくた 二三夫ふみお
 ・本 名 花岡 京二
 ・生没年 1943年?~1978年9月3日?
 ・出身地 種子島

 来 歴

 キクタショウは戦後活躍した浪曲漫才トリオ。元々は関西浪曲の大御所・大蔵雲の弟子であったが、漫才へ転身。歌謡浪曲漫才で人気を集めたが、宮川左近ショーやタイヘイトリオのような爆発的人気は集められなかった。解散後、メンバーは数奇な運命をたどる。

それぞれの前歴

 三人の師匠は浪花大掾門下であった大蔵雲という浪曲師(1912年1月2日~?)。浪花大掾は二代目広沢虎吉門下であり、広沢虎造などとは遠縁の弟子にあたる。雲は戦前から派手な関西節で売り出し、戦後も第一線で活動していた。

 秀夫はリーダー的な存在であったという。『上方演芸人名鑑』では「1940年生まれ」とあるが、『出演者名簿』には「1933年3月8日」とある。個人的には後者を取る。

『上方演芸人名鑑』によると「福岡県久留米荘島小学校卒業後、大蔵雲に入門」とのことである。ただ、1951年初舞台と年齢に齟齬が生じている。

 大蔵雲の下で芸を教わり、1951年に浪曲師として四天王会館で初舞台を踏む。その後も浪曲師として活動していたが、1950年代後半の浪曲不況に巻き込まれ、浪曲の仕事を失ってしまう。

 1960年頃に秀夫は同門の兄弟弟子と共に行動をするようになり、その一行が「キクタショウ」へとつながった。当時、タイヘイトリオなどの人気が凄まじかったこともあり、浪曲ショー需要を受ける形で転身した。

 間もなく同門の前田、花岡を誘い、「キクタショウ」を結成。それぞれ菊田秀夫、三津夫、二三夫と改名した。秀夫と二三夫はギターを、三津夫はアコーデオンを担当した。

 三津夫は後に「屋台のおっちゃん」と改名し、『でんでらりゅう』で一世を風靡したこともあり、資料がわりかし残っている。『奈良県大塔村史』によると「奈良県大塔村閉君」という所の出らしい。ただし、同誌では「本名・前田良憲」とある。

『コンフィデンス年鑑 1976年版』に誕生日が出ている。

屋台のおっさん ①前田良一(昭和13年4月30日)②からっけつ節(50年10月25日)④ ビクター/個人

 学校卒業後、上京して大蔵雲に入門。一本立ちをするまで修業をしていたが、浪曲不況に巻き込まれ、独学で楽器を会得。後にキクタショウに参加することとなった。

 二三夫は奄美大島出身、首都圏育ちという経歴の持ち主で、一時は法政大学第二高等学校に通っていたという。後に高校を中退し、大蔵雲に入門。東京に近い立場にありながら、関西へ行った理由は不明。

 師匠の下で芸を磨いていたが、間もなく秀夫に誘われて「キクタショウ」に参加した。

結成と解散

 キクタショウ結成後は、地方の劇場やキャバレー等で活躍。三人とも浪曲ができたことから、タイヘイトリオの向こうを張ったような浪曲ショーを得意とした。

 さらに秀夫は菊田四志夫を加え、カルテットを結成したが、大人数故に長く続かず、1967年頃、まずは二三夫が離脱。

 二三夫は「大島ムーチョ」と改名して歌謡漫才を演じるようになる。さらに清水二郎、岡三鶴とともに「パンチガイズ」を結成、「ベラムーチョ」と改名した。歌謡漫談の一員として活動をしていた。

 後に東京へ上り、浅草の芸人として活動していたが、間もなく結婚し一時的に芸界を退いた。

 さらに三津夫も離脱し、1967年にはトリオを解消。秀夫は二三夫の後釜として入った菊田一夫と弟の幸夫とともに「ロマンキクタショウ」を再結成する。

 ロマンキクタショウ時代には「ジャイアントタキ・アントニアキクタ」などという芸名を名乗ったという。

 洋服姿で高座に上がり、ギターやアコーデオンで浪曲を唸る芸で注目を集めた。長らく大蔵雲の所属していた「オークラ芸能」の専属として活動していた。

 1970年代初頭にトリオを解消。秀夫のみ芸能界に残留し、河内音頭の音頭取りとなったという。

三津夫の動向

 脱退した三津夫は芸能界を辞め、一から料理と経営術を学んで「串カツ屋台」を始める。

 そのかたわらで、猫を飼ったり、占いをはじめたりして「おもろい屋台のおっちゃん」として注目を集めるようになる。

 1975年頃より歌手としても活動し、1977年2月5日、キングレコードより長崎に伝わる民謡をアレンジした『でんでらりゅう』を発表。明るい曲も相まって、関西ローカルで結構ウケたという。「でんでらりゅう」を取り上げた最初期の曲ではなかったか。

 このヒットはラジオ大阪の奮闘もあったという。ブレイクし始めていた1978年1月に出された牧太郎『社会部記者が見た芸能界裏の裏』の中に――

 北見が飛び出していった後「屋台のおっちゃんです、ヨロシュウに」、妙な男がやって来た。色黒く、目は落ちくぼみ、髪を肩まで垂らした男である。
「屋台のおっちゃん」は本名、前田良一。三十六歳。大阪市生野区の天王寺で、クシかつの屋台を引っ張っている。六十三匹のネコと同棲中”の変わり種。霊感能力を持っているとかで「佐藤首相の引退」などを予言したという。この特技を生かしてラジオ大阪で身上相談を引き受けているのだが、そのうちに歌も吹き込んだ。デンデラリュウ」。なんでも子供たちが歌っていた数え唄をウエスタン調にアレンジしたものだという。
 この異色歌手はしきりに「ヨロシク」を繰り返す。
 ところが、ラジオ大阪のスタッフは、おっちゃん以上に熱心なのだ。「デンデラリュウ」に合わせて「指遊び”を考案。自分の子供に教え込んでいる。学校で流行らせて来い、である。涙ぐましい「花の応援団」。
 この肩入れには理由があった。ラジオ大阪の子会社「大阪音楽出版」がこの歌の原盤権、出版権を持っているのだ。レコードが一枚売れれば、約五十円見当が「大阪音楽出版」の手元にはいるのだ。ラジオ大阪は、一月に十数回「デンデラリュウ」のスポットを流す。電波の私物化のような気もするけれど……。

 1978年にはキングから『はらたつナ!』を発売。こちらはブレイクしなかった。

 その後も歌手やDJとして出勤するかたわら、屋台家業を続けた。

 1980年、今西令子『私の味覚散歩 大阪・京都・神戸』なるカラーブックの中に「生野区生野西一丁目」に店を構えている事が載っている。

◎屋台のおつちゃんの店
 屋台にもいろいろあるが、ここのは軒先を借りていつもじっとしている?屋台。冷蔵庫から電話、カラオケセットまでそろえてある。店主はかの名物男、霊感占いで知られるその人。生野区の、通称租界道路にある。この界隈、最も大阪くさい所で、近くの鉄工所の人たちや風呂帰りの奥さん連中、それに子供たちがこの店のお得意さんだ。ミヤコ蝶々さんが贈ってくれたというのれんをくぐると、「毎度!!」と勇ましい声でむかえてくれる。ぐずぐず煮える土手焼きの匂いが鼻をくすぐる。オードヴルにはこれを一串というところか。それから大きなエビ、貝柱、 青トウ……と手早く揚げてくれる。そばにはたっぷりのタレとぶつ切りのキャベツの山。ここは決して上品ぶって食べる店ではない。おっちゃんとワイワイ騒ぎながら食べると、なぜかうまい。酒を目的にしたお客が来ないこともこの店の特徴の一つ。 何よりも、うまい串かつが本命なのだ。人気メニューベスト3は、エビ、土手焼き、やきとり。「おっちゃんなんぼ」と言うと食べた串の数で計算するのだが、ときどき客が、その串の数をごまかしたりする。

 昭和末頃まで屋台をやっていたというが、その後は不明。老齢で引退でもしたのだろうか。

ベラムーチョの死

 ベラムーチョは東京へ移籍し、そこでストリッパーと仲良くなり、一時はヒモになっていたという。そこから再起を志し、妻と共に行動をしていたというが、最後は地方劇場で爆死を遂げたという。芸人の死因としては非常に珍しいものである。

『週刊宝石』(1988年2月19日号)の「清水ひとみの女の舞台裏書きます21」でベラムーチョの最期が書かれている。

 その人の名はベラムーチョさん。種子島出身で10年前に出会ったときはギター漫談師で、当時25、26歳だったとか。 
 ベラムーチョさんは地方の劇場を1人で回っていたとき、3歳上の踊り子さんと親しくなり同棲するようになりました。 
 そして、彼は”夢”を捨ててしまいました。有名になる! との夢を。彼はヒモさんになったのね。コメディアンの下積み時代がつらく厳しいことは紹介したとおりです。ただ、ベラムーチョさんの場合は踊り子さんの恋人が稼いでいたので、お金には困らなかったようです。事実、ベラムーチョさんは”飲む””打つ”にはメがなかったそうです。しかし、仕事場では売れないコメディアン。まして女の天下のストリップ劇場では、コメディアンの地位はいちばん下なのね。だから扱われ方もぞんざいで、寝泊まりするのは狭くて薄暗い楽屋です。 
 それでも”夢”を持ち続けるコメディアンは、歯をくいしばって耐えます。 
 けれどもベラムーチョさんの前には、つらいコメディアンとしての現実と、手を伸ばせば届くところに踊り子さんとの楽な生活があったのでした。 
 彼はどちらを選ぶか、とても悩んだと思うの。結果的に選んだのは楽な世界でした――。
 仕事を辞めたベラムーチョさんは、踊り子さんにくっついての劇場回り。ヒモさん稼業を始めたのでした。 
 半年後、ベラムーチョさんを知っていた仲間は、スポーツ紙に載ったあるストリップ劇場の予告を見て仰天しました。 
 ベラムーチョさんの恋人の踊り子さんの名で『白黒ショー』 の広告が掲載されていたのね。 
 そう、ベラムーチョさん自身も舞台に上がって、白黒ショーの相方をつとめていたのです。 どんな思いでベラムーチョさんは舞台に上がっていたのでしょう。コメディアンとして立っていた同じ板に”夢”のためではなく、生活のために踊り子として乗ったベラムーチョさん。 でも、ワタシはタダのヒモさんから舞台に戻ったベラムーチョさんに、拍手を贈りたいの。 
 ヒモは2日やったら辞められない、と言われてるのね。なのに彼はストリップのショーのなかでも、いちばんシンドイものにチャレンジしたんだもん。 
 コメディアン時代はやさしくて、親身で後輩の面倒を見たということです。舞台でも恋人を相手に、やさしく親身に白黒ショーを演じたことでしょう。
 ホープさんは白黒ショーを始めたベラムーチョさんの私生活を記憶していました。
「六本木のマンションに住んでいてね、遊びに行ったらベラムーチョさんが、大きな水槽に泳ぐ熱帯魚に餌をやっているんだ 
 それも珍しい熱帯魚で高そうなヤツばかり。優雅な生活だなあと感心しちゃったよ。それに奥さん(踊り子さん)ともすごく仲がよくって、俺、ハッキリ言って憧れちゃったよ。
 当時の俺も売れていなかったしそういう(”夢”を捨てた)生活のほうがいいなあ、なんて……」
 でも、ワタシはこう思うの。 むしろベラムーチョさんのほうが、ホープさんを羨望の眼で見つめていたに違いないと。 
 いかに優雅で豊かな生活をしていても、ベラムーチョさんは挫折感に襲われていたはずです。
 それからまた何年かの歳月が流れた、ある朝のことです。 
 地方劇場の楽屋で奥さんと寝泊まりしていたベラムーチョさんは目覚め、タバコをくわえるとマッチをすりました。 
 爆発音が轟きました。漏れていたブロパンガスが楽屋に充満していて、一瞬のうちに引火、 爆発、楽屋は跡かたもなく吹き飛んだのでした。 
 この大惨事はその日の夕刊の片隅にひっそりと載りました。
 見果てぬ夢を抱いて、31歳で旅立ったベラムーチョさん。
〈きっと幸せな一生だった…〉 
 ワタシはそう信じます。

 あくまでも憶測であるが、この事故は1978年9月、千葉市であった「劇場爆破事故」のことではなかったか。千葉県が出した『消防年報 昭和53年版』を見ると――

(1978年)9月3日 千葉市今井 プロパンガス 劇場 木造平屋 楽屋 女38才 6名 楽屋 楽屋 逃げる暇がなかった 火傷 漏洩したプロパンガスに気付かず、喫煙しようとしてライターを付けたところ発火になったもの

とある。年齢と性別以外、すべての要因が当てはまる。ここでは女性(妻か)の死因しか書いていないが、ベラムーチョも一緒に吹き飛ばされ死んだ模様か。

 この劇場はどうも「蘇我裸裸劇場」というものだったらしい。

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