土佐南海男・香取せん子

土佐南海男・香取せん子

土佐南海男

 人 物

 土佐とさ 南海男
なみお

 ・本 名 土佐 和吉
 ・生没年 1903年~1978年
 ・出身地 大阪?

 香取かとり せん
 ・本 名 土佐 シズヨ
 ・生没年 1911年(逆算)~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前戦後活躍した夫婦漫才。戦前は東京、戦後は大阪と変則的な漫才人生を歩んだ。南海男は奇人として知られ、漫才界きっての革新派、反戦運動や反核運動に携わった。また、玉子家圓辰の再発見の手がかりを作った隠れた功労者でもある。

 詳しい経歴は『上方演芸人名鑑』に詳しい。

 土佐南海男 とさなみお 【漫談】 本名 土佐和吉。一九〇三(明三六)~一九七八(昭五三)
 築地小劇場を創設した土方与志門下。演芸の世界に転向し、主に司会と漫談をする。鹿島洋々とコンビを組んで漫才をしたこともあった。晩年は民謡教室を開いていた。革新的な文化運動にもこまめに体を運んだ。

 漫才界広しといえども新劇出身の漫才師はそうおるまい。ましてや土方与志の演劇劇団に組したというのも異色も異色である。

 土方与志に師事したこともあって若い頃から革新的で、共産主義的な思想に共鳴したこともあってか、官憲に追われたこともあったとか(澤田隆治氏から伺った話)。

 1930年代より築地小劇場が分裂し、土方もソ連に亡命したことがあって(1934年亡命)、演劇家の道を閉ざされる。検挙や官憲に目をつけられたのも要因なのかもしれない。

 長い流転の末、漫談家・演芸家に転身。雑芸や漫談、司会のようなことをして一座を転々としていた模様。若い頃は東喜代駒に世話になっていたらしい。

 『きよこまファン9号』(1969年8月20日号)の中に『喜代駒先生銭湯へ行こう』なる寄稿をしており、その中で喜代駒との関係を綴っている。喜代駒の個人冊子ゆえヨイショもあるだろうが謎の多い東京時代を明かしてくれる貴重な一文である。  

 人間は、どうにか食えるようになると、過去のどん底生活がなつかしくなるものです。 その意味で、わたくしも、喜代駒先生の宅にころがり込み、食客をきめこんでいた放浪時代が、いちばんなつかしく思われるのです。  
 ながい東京在住のあいだ、色々な方面の人との出会いもあり、その方々に、大切なことも教わりました。だがかぞえ切れないそれら の人々のなかで、今も尚、毎日のように思い出すのは喜代駒先生です。  
 さして大切にしてもらったわけでもないのですが、どうしたことか、わたしの胸に残つている先生の映像は遠い昔の恋人のように甘く、たのしく、微笑しいものです。

 1939年、仲間に勧められて9歳年下のシズヨと結婚。漫才師に転向した。『都新聞』(1939年6月20日号)の芸能欄に、結婚と喜代駒との関係が記載されているので引用。

 ★二人になつて
漫談屋として一人で働いゐた土佐南海男友人の媒酌で細君をもらひ、二人になつたので途端に漫才に転向、日○(※判読できず)てる子とつけさせて仲睦まじく稼いでゐるが、この程、結婚前に契約した東喜代駒一座の仕事のため漫談として一人で新潟へ行かなければならなくなつたので急に悄気て神経衰弱氣味、それを見抜いた苦労人の喜代駒、他から漫談屋を探して来て南海男の新潟行を助けてやつたので、南海男、喜ぶまいことか、駅まで見送りに来て、ネー先生、知らぬ間に神経衰弱が治つちやいました、これには喜代駒もあんぐり

 香取せん子は相方で妻。生年は国立公文書館所蔵「陸軍省-陸支普大日記-S16-11-201」の慰問名簿より割り出した。芸名の由来は「蚊取り線香」であろう。凄いネーミングセンスである。

 以来、浅草田島町に居を構え、東京漫才の一組として浅草の劇場に出演。南海男が渋い喉で歌を聞かせる「万才」に近い舞台だったという。

 1941年4月、陸軍恤兵部の依頼を受けて、大倉須賀若・西宮奈美江、小柳はるみ、草香稲子(歌謡曲)、浪曲の東海吟月と共に中支慰問へ出発。南海男は団長であった。

 4月10日、宇品発の定期船に乗り、上海へ到着。以来、2カ月ばかり前線を回って、南京から出る帰国便で戻ってきた。『都新聞』(6月10日号)に、「 ◇土佐南海男 十日中支より帰京」とある。

 慰問帰りという箔もあったのか、戦前の人気は中々のもので、東宝名人会にもスカウトされ、名人会昼席「笑和会」への出演を許されたという。以下はその出演をまとめたもの。実際はもっと出ているかもしれない。

1941年11月上席

正美・漫作 
美代子・文子 
日出奴・貞丸 
晴彦・昌介
曲藝 新坊・時二郎
富久娘・白鶴
ジャズ漫才 光菊・光児
歌謡漫才 せん子・南海男
シゲオ・マンマル

1942年3月下席

陳徳山
志郎・辰三郎
一雄・筆勇
せん子・南海男
日本ニュース
朝日丸
登喜子・美登里
武司
光菊・光児
琴路・慶司

7月 上席

征・梅笑
英介
せん子・南海男
七五三・都枝
工藤姉妹
ミチロー・ナナ
美鈴
東洋一郎
喜久奴

1943年3月中席

清子・寿三郎
南海男・せん子
忠良・登喜子
千若丸・春之助
田村大三
翁家和楽・小楽
ナナ・ミチロー
笑楽・奈歌蔵
一路・突破  

 1943年発足の「帝都漫才協会」では東京漫才として参加。第三部区に所属(田島町)。近所には千代若・千代菊が住んでおり、千代若と共に「第三部幹事」として選出されている。

 戦時中は吉本に加入。銀座全線座や慰問等で暮らしていたようであるが、焼け出されたのか、敗戦前後に大阪へ移住。以来、東京に戻ることなく、関西の漫才師になってしまった。この辺りの事情はよく分からない。

 戦後、妻とのコンビを解消し、「漫談・司会者」のピン芸に戻った。せん子は廃業し、家庭の人に収まった模様か。

 1950年代中盤より、関西演芸協会に入会し、一時、鹿島洋々とコンビを組んだことがある。しかし、コンビとしてはうまくいかず、すぐさま司会業に戻った。

 戦後は芸人としてよりも、反戦運動や市民大会など、革新的な運動に没頭したのが有名だったらしく、陰口で「アカ」などと呼ばれたそうであるが、当人は意に介す事なく、己の信念を貫き通した。土方与志の劇団から学んだものがあったのだろうか。

 特に反戦運動には一家言あったらしく、河内家光司に「江州音頭・帰らざりせば」を提供するなど、独特の活躍が目立った。

「帰らざりせば」は、

「長らく兵隊にとられた男、戦地で目を負傷し、負傷兵として復員。不自由な目を引きずりながら家に帰るとどうも様子がおかしい。聞こえてくるのは自分と妻の間にいるはずのない「赤ちゃんの泣き声」、すすり泣く妻と弟の声。弟と妻は泣きながら「戦死広報を受け取って、戦死だとばかり思っていた。わしと姉さんは再婚して夫婦になった、子供もできた。堪忍してくれ」といい、妻は仏壇から「あんたはこれになったはずなのに……」と位牌を取り出して、戦争に翻弄された悲惨な運命を嘆く」

 ――という如何にも反戦的なそれであるが、河内家光司の独特の節回しも相まって、人気を得たという。

 また、どういう事情があるのか不明であるが、玉子家円辰の墓の所在と写真を知っていたそうで、長らくその写真を持っていた。

 それを演芸評論家の吉田留三郎に渡し、さらに吉田留三郎が出版社に送った事により、円辰の生没年が判明する――という、漫才史の大きな発見の道しるべを作った一人であった。

 その辺りの経緯は吉田留三郎『まんざい風雲録』に詳しい。以下はその引用。

 そのうち、ある日、東京から電話がかかってきた。相手の会社と名前は忘れたが、やはり円辰の生年と行年を問うてきたのである。何かの辞典に入れたいからという。なんという辞典か、それも 私は今、知らない。この時、向こうが、たってと頼むので土佐南海男にもらった円辰の墓の写真を送ってやった。墓の主は俗名で西本為吉之墓となっている。写真の裏に私が池ノ島の共同墓地であると書いておいたので、向こうは、それらをたよりに枚岡市役所で調べてもらったらしい。  

 なんと、これが成功して向こうから礼言とともに正確な年月日を知らせてきた。まさに逆輸入である。ついでに記しておくと生年は慶応元年六月五日、 行年は昭和十九年六月十九日である。以上が、生来の億劫がり屋である私が、奇妙に円辰だけの生年、行年月日を正確に知っている所以である。

 ついでに、もう一つ横道にはいるが、この池ノ島の共同墓地には、吉本が大阪の演芸界を制覇するまでは一方の独頭であった興行防岡田氏二代の墓もあって、その何十回忌にお詣りに行かないかと故花月亭九里丸に誘われたことがあった。再び、例の億劫で言を左右にして逃げてしまったが、この話を土佐南海男にしたのが円辰の墓の写真入手の元となり、この写真を東京に貸してやったので円辰の年月日がわかり、そして、その写真を捨丸に見せたばかりに、晩年の玉子家円辰のことや河内の中に「まんざい」という地名が存したことを捨丸の口から引き出すことができた。

 晩年は舞台から一線を退き、枚方市で「民謡教室」を経営。その傍らで政治運動に参加するなど、中々骨のある生涯を送ったという。

『上方演芸人名鑑』の記載が正しければ、1978年に76歳で亡くなったようである。

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