河内文春・尾乃道子

河内文春・尾乃道子

舞台での文春・道子

 人 物

 河内 文春  かわち ふみはる
 ・本 名 寺山 文夫
 ・生没年 1913年12月10日~1986年頃
 ・出身地 岡山県 御窪郡

 尾乃おの 道子みちこ
 ・本 名 寺山 品子(旧姓・和田)
 ・生没年 1910年3月10日~1990年代?  
 ・出身地 広島県 尾道市

 来 歴

 戦前・戦後活躍した漫才師。文春は芸歴60年以上という驚異のレコードを記録した。

 二人とも昭和末まで健在だったためか、一応の略歴は判明している。一番信憑性があるのは、1985年発行の『日本演芸家名鑑』であろうか。

 文春は、岡山県窪屋郡の出身。現在の倉敷だろうか。この辺の背景が不明なのであるが、早くから芸人をやらされたらしく、1920年、初代河内家芳春の内弟子となって、河内家芳春と名付けられる。

 翌年、兄弟子の二代目芳春(河内家千代春)の門下に移った。詳細は不明。なお、芳春は1923年、37歳の若さで亡くなっている。

 相羽秋夫『上方演芸人名鑑』によると、「徳島県清光座で河内家一春と河内家文春の名で初舞台」とあるが、これがいつなのかわからない。但し、少年漫才だったのは間違いない。

 1924年、吉本興業に入社。

 河内家一春とのコンビ解消後は、やはり先輩の玉子家政夫とコンビを結成。このコンビで、1927年12月、弁天座で行われた萬歳大会『全国萬歳座長大会』に出演している。

 1928年頃、平和ラッパとコンビ結成。『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「河内家文春・平和ラッパ」とある。その後は巡業や端席めぐりなどで実力をつけた模様。

 1932年、吉本興業を退社――と、『日本演芸家名鑑』にある。

 1933年、二代目河内家芳春に入門してきた和田品子と相思相愛になり、結婚。夫婦漫才を結成。「河内家文春・美代次」となる。

 文春の結婚相手、和田品子――もとい、尾乃道子は芸名の通り、広島県尾道市出身。『日本演芸家名鑑』によると、1933年、二代目河内家芳春に入門し、そのまま文春と結婚した。当初は「河内家美代次」と名乗っていた。

 1939年、吉本に再入社し、再び大劇場に出るようになる。この頃、なぜか東京に新天地を求め、田島町に居を構え、東京吉本専属という形で、劇場に出ている様子が『都新聞』などから伺える。詳細は不明。

 1940年、第四回わらわし隊のメンバーに抜擢され、北支慰問したーーと、早坂隆の『戦地演芸慰問団「わらわし隊」の記録』(同著 348~9頁)よりうかがえる。

北支那慰問班 河内家美代次・文春、東亭花橘・玉子家光子、大利根太郎(曲師 吉沢団蔵)

中支那慰問班 桂金哉・金二、祇園千代子・砂川捨勝、木村小友(曲師・戸川大助)

南支那慰問班 千代田みどり・松緑、林家染子・染次、広沢小虎造(曲師・とし子)

艦隊慰問班 柳家千枝造・漫作、奥野イチロウ・竹本ジロウ、秋山右楽・左楽 浪花軒〆友(曲師・荒川文柳)、松平晃(アコーディオン・岡本豊久)

 1943年、吉本興業を脱退し、東京の漫才師団体「帝都漫才協会」に参加。第十二部(甲)の名簿に「河内家文春 寺山文夫 田島町 河内家美代次 和田品子 同上」と登録されているのが確認できる。

 敗戦前後は動乱や食糧事情などで、廃業していた模様であるが、大阪へ戻り、「河内文春・尾乃道子」として再出発。

 1964年4月、角座で『漫才今昔史』が出た際、「三曲万歳」の三味線としてコンビで登場。以来、三曲万歳があると出演するようになった。映像も数本残っている。

 1965年、松竹芸能に入社し、角座や松竹座などに出演するようになる。所謂、古風な音曲漫才の流れを保った漫才で、一通りの掛合の後に道子が椅子に座り、三味線を奏で、文春が音頭の一節や俗曲を唄う、というものであった。

 吉田留三郎『まんざい風雲録』の中に、

 今でも時々、河内文春が思い出したように舞台で歌っているが、やはり「キュッキュッ」と言っている。『日本流行歌史』に載っている原歌詞に、このキュッキュッキュッは付いていない。この「むらさき節」の啞蝉坊の碑が浅草寺の境内にあるそうであるが、このキュッキュッキュッはのってないはずである。

 という記載があり、その芸風の一端がうかがえる。

 1971年9月13日、YTVサロン『こんな漫才もあった』の『三曲万歳』に出演。他の出演者は、  

 鼓   浮世亭夢丸 河内文春
 三味線 松鶴家千代八 尾乃道子 桜山梅夫
 胡弓  浮世亭出羽助
 太鼓  桜川末子 桜津多子

 これは映像が残っていて、桂米朝が自分の番組で流した事がある。

 1970年代後半からは、名古屋の大須演芸場で活躍。同地在住の桂喜代楽や大阪の仲間・荒川キヨシ、荒川芳政・浅田アサヒなどと共に枯淡の芸でファンを喜ばせた。

 1980年、文春の芸歴が60年突破。

 1985年、文春の芸歴が65年突破。芸人短命が珍しかった当時では驚異の芸歴である。

 1985年発行の『日本演芸家名鑑』の中では、二人の健在が確認でき、「ひとこと」欄で、文春「若手の育成に力をそそぎます」、道子「夫婦漫才を守ります」と述べているが、1987年の『日本演芸家名簿』の中に、河内文春の名前がなく、尾乃道子一人になっている所から、この前後で文春は没した模様である。

 但し、2000年度の「住所でポン」に彼らの旧住所を打ち込むと、河内文春が出てきたりする。

 間もなく道子も脱会し、消息不明となる。消息筋では、平成に改元後もしばらく生きていたというが――

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