松本庫吉・杵屋芳奴

松本庫吉・杵屋芳奴

庫吉・芳奴(右)

在りし日の庫吉

 人 物

 松本まつもと 庫吉くらきち
 ・本 名 ??
 ・生没年 1895年頃~1937年4月17日
 ・出身地 島根県

 杵屋きねや 芳奴よしやっこ
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 東京

 来 歴

  松本庫吉・杵屋芳奴は、戦前活躍した漫才師。民謡をベースに、庫吉の楽器演奏、芳奴の三味線との合奏を売り物にした。

 庫吉は、三味線奏者としても知られ、多くの民謡レコードの三味線伴奏として吹き込んでいる。

 長らく経歴不詳であったが、『読売新聞』(1936年8月23日号)のラジオ出演者紹介欄に、簡潔であるがその前歴が記されていた。以下はその引用。

 BKからは杵屋芳奴と松本庫吉が「音曲涼み船」を放送する、芳奴は東京の産、江戸ッ子で講武所藝者から漫才に転向した長唄の名取、庫吉は島根縣の産、咽喉自慢で地方民謡大會などに出演してゐたが後鳴物囃子などを修行して漫才マンとなつた、このコンビ兄妹と称していきなりうたひ出す音曲鳴物を賣物にしてゐるが最近庫吉「實は私が東京で楽器店やつてゐる時分、ついこれとをかしな工合になりましてへゝゝ」と白状したが、どうも彼の方が受身らしく、楽屋で芳奴が「一寸帯を結んで頂戴」と云ふと「ウンよし/\」てな工合である

 また、『ヨシモト』(3巻5号)に、庫吉の経歴が出ている。曰く、

「彼、もと農家の生れ、所が生れつき歌舞普曲に對して特別の嗜好を持ち、從つて天才的な音曲に對する理解力は習はずして、鳴物、三昧線、笛等々行くとして、可ならざる器用さを示した。鬼に金棒、その上に彼の喉の澁さは、眞似手のない歌ひ手として獨特の舞臺藝を作り上げるのを助けた」

 幼い頃から民謡コンクールに出ては、入賞するなど、才覚はあったようである。

 若い頃、上京し、楽器屋をやっていた(奉公に出ていた?)らしいが、当時、大流行し始めていた安来節の波に乗り、民謡一座へ入ったのが芸人としての振出。

 以来、浅草公園の安来節小屋を中心に、多くの民謡一座を出入りした。当時の浅草の安来節公演のビラなどに「松本庫吉」と小さく書かれているのを確認できることはよくよくある話である。

 三味線を筆頭に、尺八、鳴り物、洋楽何でも出来たため、多くの民謡歌手のレコードの伴奏として参加。今もその一部はCDやデジタルアーカイブで聞くことができる。

 以下は、『国会デジタル』及び『78MUSIC』総目録に遺されている、庫吉が参加したレコード。

 1928年、ニッポノホンより、松前家照子『俚謡安木節』の吹込みに参加。庫吉は三味線。秋月大丸の琴。

 1928年8月、ビクターより、『(ピアノ入)安来節(小原節入) ・安来節(浪花節入り)』を吹き込み。唄は、後年漫才になる花柳貞奴

 1929年、トンボレコードよりやまがた家信恵『越中小原節』の吹込みに参加。松本庫吉は三味線。琴・くに芳くに子 尺八・くに芳・富蔵という顔ぶれ。

 同時期に、加納初代『本荘追分』 、土門信恵『出雲船方唄』の吹込みに参加。庫吉は三味線、尺八・齋藤弥吉、太鼓 ・土門信恵。

 1929年10月、 花柳貞奴の『小原節踊』。庫吉は尺八を担当。三味線・浦川義雄、服部 玉枝。太鼓・福田松太郎。

 1930年1月、ポリドールより『三朝温泉節』を吹き込み。庫吉の担当は尺八であった。唄は花柳貞奴と佐々木清子、三絃・高田久子、琴・秋月大丸、外鳴物連中。

 また、同じタイミングで、佐々木清子歌唱の『草津節・草津湯もみ』の吹込みにも参加している。担当は上と同じ。

 同年2月、ポリドールより、繁田雲濤の『江差追分(忍路高島)前唄・本唄・後唄』を吹き込みに参加。 尺八は国芳富蔵、三絃・松本庫吉、琴・国芳くに子。このレコードは、前、本、後と2枚に分けて作ったレコードであったという。

 同年5月、ポリドールより、三島一声の『錦旗羅金・隊長さん』の吹込みに参加。庫吉は笛。他、三絃・花沢勝美、鳴り物連中。

 同年7月、ポリドールより、 三島一声・茂住菊野の『草津節・草津湯もみ唄』の吹込みに参加。庫吉は尺八を担当。三絃は浜田一二三、ピアノ・野村宣直。

 1931年4月16日、JOAK放送の、俗曲『吹き寄せ』(午後0時5分〜)に出演。演者は大津お萬、三味線は庫吉という担当。当日の『日刊ラヂオ新聞』によると、

俗曲吹き寄せ 午前零時五分   大津お萬 三味線 松本庫吉

安来節
讃岐民謡
鹿児島民謡
米山甚句

浪花節真似
一、五郎正宗の一節 天中軒雲月
二、召集令の一節 京山若丸

 同年4月、ビクターより菊池歌楽の『二上り新内』に参加。庫吉は笛、竹葉の三味線。

 同年6月、ビクターより、磯の家紅洋の『佐渡おけさ』。庫吉は笛。三味線は、豊原芳太郎。

 1932年4月、明石榮検みき光の『館山』の吹込み。庫吉は笛。三味線は榮検元禄。

 1932年7月、ビクターより『新庄節』を吹き込み。唄は加納千代。三味線、松本庫吉・菅原藤一郎。尺八・小金井正童、太鼓・田口芳郎

 重複版、再プレス等を含めるとまだまだあるだろう。その数は民謡レコードに寄り添うように増えるのかもしれない。

 1932年頃、下火になった安来節に見切りをつけて、漫才に転向。以前より夫婦だった芳奴とコンビを組んだ。

 杵屋芳奴は、名前の通り、長唄の出身。また上の記載にあるように、漫才師になる前は、長らく講武所芸者(神田芸者)をやっていたという。美貌と芸達者な女芸人として忽ち注目を浴びる事となる。

 当時の芸風が『大衆芸能資料集成7巻』に掲載されているので引用する。元は『ヨシモト』の記事だったか。

 また”音曲漫才”の圧巻といえば、杵屋芳奴・松本庫吉にとどめをさすといってよいだろう。芳奴(女)は杵屋の名取りだけあって、三味線の名手。一方庫吉 (男)は三味線のほか太鼓、鼓、横笛と鳴りもの百般に通じた。
 三味線合奏ではじまり、次ぎは和洋合奏となる。”洋”というのは、 庫吉が三味線をバイオリンの弓で弾く。全くバイオリンの音色とかわる。「こんどは、私一人で鳴りもの一切を引きうけましょう」と庫吉。「曲は何です?」と芳奴。「たかが女の弾くぐらい、何でもよろしい」「じゃア、おじさん、いらっしゃい」と、三味線(芳奴)対楽器百般(庫吉)の競演となる。長唄から民謡から流行歌まで、相手が閉口するまで大熱演が続いたのである。
 トリは「鶴亀」を弾き納めて終る。かならず拍手を呼ぶ見事なコンビであった。

 間もなく大阪へ上り、吉本興業へ入社。1933年頃より、吉本系の寄席へ出演するようになる。

『上方落語史料集成』によると、吉本系の小屋に顔を出すのは、1933年9月中席ころか。いきなり新京極富貴に出演している。

△新京極富貴 落語長演大会 桂春団治、林家正蔵、笑福亭枝鶴、桂小春団治、三遊亭円馬、桂文治郎、桂福団治、式亭三馬。余興柳家雪江・林田五郎、杵屋芳奴・庫吉、ワンダー正光、東洋一郎等。

 同年10月には早くも一流劇場「南地花月」に出演。前職の人気や実力を含んでいるとはいえ、すごいものである。

上 席

△南地花月 うさぎ、小雀、福団治、九里丸、円馬、芳奴・庫吉、神田ろ山、エンタツ・アチヤコ、枝鶴、五郎・雪江、春風亭柳橋、三亀松、春団治。余興「三人舞踊」(五郎・延若・小円馬・蔵之助・喬之助・紋十郎)。

中 席

△南地花月 うさぎ、小雀、石田一松、芳奴・庫吉、枝鶴、円馬、エンタツ・アチヤコ、春団治、ろ山、三亀松、九里丸、三木助、正光。

 同年11月も、南地花月に連続出演。その人気をうかがい知ることができる。

上 席

△南地花月 うさぎ、小雀、龍光、紋十郎・五郎、十郎・雁玉、延若、一駒・柳枝、円枝、芳奴・庫吉、篠田実(浪曲)、石田一松、小文治、三亀松、春団治、九里丸、三木助。

下 席 

△南地花月 新昇、小雀、馬生、染丸、芳奴・庫吉、文治郎、十郎・雁玉、延若、五郎・雪江、一光、円馬、三亀松、エンタツ・アチヤコ、三木助、石田一松、春団治。

 12月は、北新地花月に出演。もうすでに一枚看板の貫禄である。

上 席 

△北新地花月倶楽部 春団治、正光、庫吉・芳枝、円馬、九里丸、歌木・妙子、五郎、三亀松、枝鶴、水月・朝江、福団治、幸児・静児、武司・重隆。

下 席 

△北新地花月倶楽部 春団治、正光、庫吉・芳枝、円馬、九里丸、歌木・妙子、五郎、三亀松、枝鶴、水月・朝江、福団治、幸児・静児、武司・重隆。

 1934年新年早々、北新地花月に出演。初席で、しかも深い所の出演。吉本に相当変われていたのだろう。

初 席

△北新地花月倶楽部 関東軍笑ひの慰問隊の石田一松、エンタツ・アチヤコ、鼈甲斎虎丸、桜川長生、結城孫三郎一座、春団治、円馬、藤之助、九里丸、文団治、福団治、円枝、庫吉・芳奴、雪江・五郎、竜光。

 続いて天満花月、新京極富貴に出演。下席に至っては掛け持ちである。新年から先行きがよい。

中 席

△天満花月 九里丸、芳妓・庫吉、五郎、結城孫三郎一座、三木助、八重子、福治、小円馬、朝江・水月、染丸、歳男・今若、一郎、円若、秀子・虎春等。昼夜二回。

下 席

△天満花月 九里丸、芳妓・庫吉、五郎、結城孫三郎一座、三木助、八重子、福治、小円馬、朝江・水月、染丸、歳男・今若、一郎、円若、秀子・虎春等。昼夜二回。

△新京極富貴 竜光、春団治、エンタツ・アチヤコ、石田一松、枝鶴、三木助、芳奴・庫吉、文治郎、福団治、寿獅子(桜川長生・梅好)、円若、三馬、三八。

 2月上席、中席と、北新地、南地と立て続けに出演。

上 席

△北新地花月倶楽部 春風亭柳橋、扇遊、神田ろ山、芳奴・庫吉、春団治、三木助、芳子・市松、円枝、久菊・奴、蔵之助、九里丸、枝鶴、馬生、福団治他。

中 席

△南地花月 松旭斎天右一行、柳家金語楼、大島伯鶴、石田一松、春団治、エンタツ・アチヤコ、円馬、九里丸、枝鶴、文男・静代、三木助、芳奴・庫吉、文治郎、竜光他。 

 1934年9月上席、南地、北新地花月を掛け持ち。凄い人気である。

△南地花月 吉本興行部総出演の「万歳大会」。小松月・美津子、今若・歳男、志之武・次郎、扇遊、成三郎・玉枝、出羽助・竹幸、市松・芳子、春楽、川柳・花蝶、キング・エロ子、雁玉・十郎、庫吉・芳奴、九里丸、アチヤコ・エンタツ、雪江・五郎、文雄・静代。

△北新地花月倶楽部 エンタツ・アチヤコ、五郎、出羽助・竹幸、三木助、花蝶・川柳、文治郎、九里丸、枝鶴、庫吉・芳奴、円馬、春楽、円枝、福団治、竜光ら。

 10月上席は新京極富貴に出演。

△新京極富貴 右之助、三八、三馬、源朝、出羽助・竹幸、染丸、助次郎、花蝶・川柳、三木助、芳奴・庫吉、五郎・紋十郎、扇遊、枝鶴。

 その後は、南地、北新地花月。

△南地花月 三木助、一光、枝鶴、雪江・五郎、柳橋、文男・静代、文治郎、九里丸、庫吉・芳奴、福団治、川柳・花蝶、染丸、志乃武・次郎、五郎、円若 。

△北新地花月倶楽部 雪江・五郎、柳橋、庫吉・芳奴、三木助、一光、日左丸・キリン、枝鶴、文男・静代、円枝、九里丸、正春・春子、福団治、蔵之助。

 11月上席は、二代目桂春団治襲名披露興行に参加。

△北新地花月倶楽部(二代目桂春団治襲名披露興行) 
せんば、円若、蔵の助、龍光、伯龍、雁玉・十郎、枝鶴、花蝶・川柳、紋十郎・五郎、文男・静代、染丸、襲名口上、庫吉・芳奴、九里丸、金語楼、幸児・静児

 以後、北新地花月、南地花月、新京極富貴を順繰りに出演。詳細は『上方落語史料集成』を読んでください。

 1935年8月6日、JOBKより「粋くらべ」を放送。

 1935年11月、タイヘイ、松本丈一『佐渡おけさ』の吹込みに参加。庫吉は笛を担当。太鼓・山本巖 タイヘイ和洋楽団。

 1936年8月23日午後1時20分より、JOAK・BK『漫才ヴァラエティ』に出演。出演者は、

 一、『逝く夏は唄ふよ』オオタケタモツ・ミス花月
 二、『漫才ハーモニカヴァラエティ』 松平操・枝左松
 三、『音曲夕涼み船』松本庫吉・杵屋芳奴

 1936年10月、ポリドールより三島一声の『松前追分(前唄・本唄・後唄)』に吹き込み。追分には欠かせない尺八を吹き通した。これが生前最後の録音になった模様か。

 1937年3月、新京極富貴出演中に体調不良と微熱を訴え、同月中席を最後に療養生活に入る。以下はその最後の舞台となった興行の顔触れ。

△新京極富貴 右之助、三馬、三八、ラツキー・セヴン、文治郎、三好・末子、蔵之助、庫吉・芳奴、竹本三蝶・豊沢仙平、舞踊競争、林芳男、川柳・花蝶、春団治、染団治・雅子。

 当人たちもしばらくの休み程度に思っていたようだが、結果としてこれが最後の姿になるとはだれが予想したであろう。

 同年4月、リーガルレコードより生野豊子・新地検 一平『安来節』発売。どうもこれは再プレスのようである。松本庫吉は尺八を担当。皮肉にもこれが死と前後して世に出た奇妙なレコードとなった。

 休席後、しばらくは静療していたようであるが、4月に入って、突如病状が悪化。

 4月17日、急性肺炎のために松本庫吉、死去。41歳の若さであった。

 その早すぎる死は、隆盛を見せつつあった漫才界に大きな衝撃を与えたと見えて、『ヨシモト』(3巻5号)に追悼文が掲載されるほどであった。

噫松本庫吉さん

 四月十七日、午前十一時、松本庫吉忽然として逝く。病名、急性肺炎、微熱を覺えて舞臺を休むや、間もなく病狀急激に悪化、春の陽気を外にして一葉の落ちる秋の冷たさそのまゝ、忽ちに幽冥その境を異にす。享年四十一 鳴乎、庫吉既に無し。悲しい哉。
 彼、もと農家の生れ、所が生れつき歌舞普曲に對して特別の嗜好を持ち、從つて天才的な音曲に對する理解力は習はずして、鳴物、三昧線、笛等々行くとして、可ならざる器用さを示した。鬼に金棒、その上に彼の喉の澁さは、眞似手のない歌ひ手として獨特の舞臺藝を作り上げるのを助けた、長唄の名取である芳奴を向ふに廻して、堂々三味線の達者を競ふかと思へば忽ち横笛を取つては甲の普乙の陰り嫋嫋、小鼓、太鼓、ヴァイオリンの弓を三筋に當てゝは西洋樂器そこのけの新しさを醸し出す、千手親音の異名も、げにやと思ふばかり、漫才界變り種中の變り種としてその特異性を誇つておた。庫吉芳奴二人、姿が現れたいけで、場内は忽ちにして華やかに陽氣に包まれたやうな氣がしたものだった。  
 親しきこれらの思ひ出も既に過去のものとなつてしまつた。鬼才庫吉既に今や亡し。世のさだめこそ悲し。惜しき人を又奪つてしまつた。吾等唯暗然としてこの天才の冥福を祈るのみである。

 彼が生きていたら、音曲漫才もまた違うスタイルや生き方を模索できたのかもしれない。

 同年10月、生前の録音がニットーレコードより発売。松本丈一の『佐渡おけさ(詩吟入) 』である。松本庫吉は笛、三味線・松本芳子、太鼓・山本巖というメンバーであった。死してなお、元気に活躍していたころのレコードが新盤として発売されるとは、些か不気味な話である。

 相方の死によって、芳奴は引退。以後、消息不明となる。

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