三田マサル

三田マサル

 人 物

 三田みた マサル
 ・本 名 本浦邦彦
 ・生没年 1934年~??
 ・出身地 福岡県 北九州市 小倉区

 来 歴

 三田マサルは戦後活躍した漫才師。コメディアンから鳳啓助・京唄子劇団に入団し、同座の俳優として活動する傍ら、鳳啓助の弟・森山みつると「みつる・マサル」のコンビを組んだ。後年、京唄子と結婚し、京唄子の3人目の夫となった――が、これも離婚してしまっている。

 人気者・京唄子と結婚した事もあってか、経歴は割かし残っている。今回は『サンデー毎日』(1980年5月4日号)などの諸雑誌と『上方演芸人名鑑』から割り出した。

 北九州の出身であったが、役者を目指して上京。大阪の劇団やストリップ劇場を転々としたという。

 『上方演芸人名鑑』によると、

 三田マサル みたまさる【漫才】
 本名本浦邦彦。一九三四(昭九)~
 OSミュージックのコメディアンを経て、昭和四三年鳳啓助の実弟森山みつるとコンビを。続いて昭四六、三田キヨシとコント一一〇番を結成したが、二年ほどで解消した。鳳啓助と離婚した京唄子の前夫。現在はミナミでクラブやスナックを経営。

 長らく劇団を転々としていたが、1966年9月、唄啓劇団に入団。この頃、啓助と別れ傷心だった唄子と仲良くなり、急接近を果たした。

 1966年11月9日、京唄子と結婚。北九州市で結婚式を挙げたという。この結婚式には鳳啓助が「親戚」として出演し、自ら祝辞を述べるというハチャメチャな結婚式だったという。

 仲は良好であったものの、婚姻届は出さなかった。

 その後、唄啓劇団の幹部として出演する傍ら、鳳啓助の異父弟・森山満とコンビを組み「三田マサル・森山みつる」を結成。「ひげコント」とよばれる独特の漫才を得意とし、若手のホープとして売り出した。

「京唄子の旦那は元旦那の鳳啓助の弟とコンビを組んでいる」というすさまじい関係性で時折ネタにされた。別れた夫婦同士がコンビで、現夫婦の片割れと弟がコンビだというのだから呆れるより他はない。

 その後、南風カオルと座・にっぽんずにいた鈴木清彦を誘い、「コント110番 三田キヨシ・三田マサル」を結成。演芸場やテレビの傍ら、啓助・唄子劇団の喜劇公演に出るようになった。

 1971年、三田みつおが入門。間もなく弟も入門し、「てきさすコンビ」を結成している。

 この頃、京唄子と共に新居に移り、幸せな生活を築いていた。唄子によると「娘にも良くしてくれたいい旦那」であった。

 1973年2月、引退し、青年実業家に転身。「レストラン大口」「スナックチコ」「三田企画」「三田開発」などを経営。

 高度経済成長期の波に乗り、実業家として成功をおさめたが、何をやっても「京唄子のパートナー」と陰口をたたかれるのが嫌なこと、また京唄子との関係が冷え込むようになり、数年間家に帰っては喧嘩をするような生活を続けていた。

 1979年6月に母の花枝が死去。

 1979年末に離婚。啓助の時とは違い、相談の末の離婚だったという。

 マサルは「自分なりに努力したつもりですが力が足りず、唄子に本当に申し訳ないと思っています」と、唄子の忙しさに甘えていたことを詫び、唄子は「稼いでいても唄子のムコハンといわれ、失敗したら唄子が養ってると陰口を叩かれる」と述べ、そうしたすれ違いが離婚に及んだ――と雑誌に書かれている。

 一方、『サンデー毎日』(1980年5月4日号)などでは「夫が手料理やお誘いにそっぽを向くようになった」「夫の不満やストレスとすれ違いしたまま、彼はぐでんぐでんになって家に帰り、家の中にあるものを手当たり次第壊すようになった」「そうした乱行に耐えられず仲が冷え切った」と複雑な心境を吐露している。

 無論、その後には「いい人だった」「自分の多忙や甘えがあった」と鳳啓助の時のように大々的な批判をかます事はなかった。

 結局、京唄子とよりを戻す事はなく、マサル自身も芸能界から去って行った。

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