平和ニコニコ・喜楽家花楽

平和ニコニコ・喜楽家花楽

東家力太郎(左?)と平和ニコニコ

 人 物

 平和  へいわ ニコニコ
 ・本 名 八木 常一
 ・生没年 1883年~1928年頃?
 ・出身地 ?

 喜楽家 きねや 花楽からく
 ・本 名 八木 かつ(後、中川)
 ・生没年 1905年~1959年
 ・出身地 大阪?

 平和  へいわ ニコニコ(二代目)
 ・本 名 中川 寅次郎
 ・生没年 ??~1957年以前
 ・出身地 ?

 来 歴

 喜楽家花楽は、歌楽と書く場合もある。本名は、澤田隆治氏所蔵の『関西演芸協会名簿1953年度』から写して、割り出した。

 平和ニコニコの前歴は不明。「江州音頭」出身というがどうだろうか。吉田留三郎『漫才太平記』の中に、

先代ラッパの師匠を八木あらため後に平和ニコニコという。初代ワカナの小芳時代にコンビだったことがある。また、その弟子に平和ニチニチがあり、上下合わせると何か自訓めいた意味になるのが面白い。

 とあるくらいか。生年と本名は『大阪朝日新聞』(1925年7月18日号)に、

○みだらな寄席芸人 田舎から入り込んでお灸

大阪市内の寄席に出演する芸人でみだらな言葉やいやしい素ぶりをして観衆を笑はし人気とりするものが多いので府保安課興行係は十五日西区方面の各寄席に一斉臨検を行つた結果、九条正宗館で出演中の万歳若松屋正右衛門こと野洲政吉(四十四)、米子(二十二)、花子(二十三)、咲子(十六)、末春こと田川義雄(二十一)、花びしやアチヤコこと藤本清太郎(二十九)、平和ニコニコこと八木常一(四十二)、松島廓内中島席松鶴家八千代こと内藤たき(十九)等が臆面もなくみだらな言葉を連発していたので十七日課に召還取調中である。

 古いのは確かで、『都新聞』(1920年4月4日号)に――

◇変り物では江州音頭の八木義弘といふ男と荒川富春の軽口が下がゝつてゐるのを巧に切り抜けた工合が寄席の客にはウケている。

 とある。古くは八木義弘といったらしく、『柳屋』(36号 1928年11月号)に、

 平和ニコ/\――もとの八木義弘。
へんに、氣のぬけたビールみたいに、おもしろくなさすぎて、一種の、奇妙なあぢがあつた。
小芳さいふ少女を相手に『ストゝンぶし一膳――ッ』てな掛聲をして、一とふし、諷ふたび、ひろげた扇から首丈けだして、ヒヨコ/\動かすあたり。
 あたしは、フシギな好意がかんじられた。
このニコ/\、先ごろ、あの世のひとゝなつたが、万ちゃんの仲間では、相當、いゝ顔だつたのだといふ!
頓生菩提!

 とあるのが確認できる。上の「八木義弘と荒川富春」のコンビは同一人物だろう。1920年から1年ほど、東京の「東西落語演芸会」に所属し、東京の寄席に出ていた。

 帰阪後は、気晴亭という新世界にあった寄席に出演。一銭で漫才が見られるという、いわゆる格の低い寄席であったものの、新し物好きの大阪っ子に人気を集め、後に大看板へとのし上がった。

 吉田留三郎『漫才太平記』によると、「八木ニコニコ、五條家牛若、松鶴家千代八らの名が数えられた」という。

 この頃、同じ座頭級の若松家正右衛門とコンビを組んでいる。レコード研究家の岡田則夫氏の連載『続・蒐集奇談』(1994年4月号)によると、

 ▼若松家正右衛門・平和ニコニコ
 平和ニコニコとのコンビでは、ハト印に「志ゃべくり・まげづくし(数え歌)」(289、290)、「ないないづくし(阿呆陀羅経)」(293、4)、「寺づくし(数え歌)」(1223、4)がある。

 また、八木義弘名義の物を含めると、

▼砂川捨次・八木義弘
ヒコーキ青盤に「付け文」(7286)がある

▼花廼家菊丸・八木義弘
大正14年5月にライオン(合同)から「都々逸・安来節、鴨緑江節」が出たが、未見。

 この頃は、大八会に所属し、荒川富春とコンビを組んでいた。同会には、若松家正右ヱ門も所属しており、共にしのぎを削り合った。また、大八会注目の若手に浮世亭夢丸・花菱アチャコもいたというのだから古い。

 1920年春から秋にかけて、橘の圓一座について漫才を披露。『上方落語史料集成』の、『九州日報』(2月6日号)に、

<橘家扇三一行・博多川丈座>

◇[広告]東京落語幹部 橘家扇三一行 若手腕利き十餘名出演/本日より川丈座
◇川丈座(博多) 東京落語幹部中人気者の橘家扇三一行今六日より開演。番組の主なるもの左の如し。
滑稽万歳(義弘、富春)乃木将軍(残月楼)親子の情(扇三)

 また、『九州日報』(1920年10月1日号)の中に、

<橘の圓、金原亭馬生一座・博多川丈座>

◇川丈座(博多) 東京落語橘の圓、金原亭馬生一行は愈々一日より開演。前人気盛んなり。入場料は一等一圓、二等八十銭、三等五十銭にて、初日の重なる番組左の如し。前講(四名)源平穴探し(歌路)萬歳(義弘、富春)曲芸運動(夏雲中、夏雲升、張少春)住吉籠(圓天坊)親の情(扇三)堀部安兵衛(馬生)一休禅師(圓)

 1920年冬~21年には、橘家扇三らと共に、朝鮮巡業をしていたようで、『上方落語史料集成』の、『京城日報』(1921年1月5日号)に、

<橘家扇三一座・朝鮮浪花館>

◇[広告]明治町 電話二六〇番 浪花館/橘家扇三来る/當る一月一日より開演/桂藤吉 三遊亭遊玉 三遊亭圓若 三枡家小扇 信濃や東市 橘圓雀 桂三木弥 橘ノ圓千代 同圓ノ助 立花や扇遊 橘家勝太郎 三遊亭□奴 八木義弘 荒田富春 桂残月楼 橘家扇三

 1925年、大八会にいた河内家小芳という少女と漫才コンビを組む。この小芳が、戦時中に一世を風靡した天才・ミスワカナである。

 その後は、五条家菊二と組んだこともあるが、花楽と結婚して組んだようである。

 相方の花楽は、太夫元「上汐」の娘。この上汐は、かっぽれ中興の祖、豊年斎梅坊主の弟子でにわかの吾妻家松之助の弟子で、元々は璃キ志(吾妻家か?)というにわか師だったそうであるが、後年独立して、太夫元(寄席経営者)となり、上汐と名乗った――と「笑根系図」にある。

 その為、幼いころから、芸を仕込まれ、独立。桂米朝は、『米朝上岡が語る昭和の上方漫才』の中で、「あの人は初め剣舞師(詩吟にあわせて剣を振って舞う剣舞の専門家)やった。」と述べているが詳細は不明。

 長らく旅回りの座長格だったらしいが、平和ニコニコと出会い、結婚。長らく大阪の舞台を中心に活躍をしていたが、これという興行社には深入りしなかった模様か(吉本には出入りしていた模様であるが)。

 ニコニコは、「平和」一門の総帥として、平和ニチニチ、平和ラッパ、平和小夜子などを輩出。特に平和ラッパは、戦前の漫才界の人気者で、浅田家日佐丸とのコンビは名コンビとされた。なお、戦後活躍した「アホのラッパ」は浅田家日佐丸の弟子のため、「平和ラッパ」と名乗りながら、師弟関係はない。

 その後、ニコニコは夭折。『柳屋』(36号)に「先ごろ、あの世のひとゝなつたが」とある所から、1928年前後に亡くなった模様。正岡容は『柳屋』の中で「ニコニコ追悼」なる歌を詠みこんでいる。

ニコ/\追悼

ポンチ絵の恋失ひし老爺よりかなしかりけりニコ/\の顔
恋の鳥飛び去りしあとのさびしさに少し似てけりニコ/\の顔
ぜんまいの振り子人形の
ごとくにもおかし儚しニコ/\の顔
うつし世のありとあらゆるさびしさをあつめしに似しニコ/\の顔
いまははやりいるよしもなし 春の夜の投扇興のニコ/\の顔

 その後、弟子がニコニコを襲名(二代目の前名は小ニコニコといったか?)。花楽はその弟子と再婚し、コンビを組んだ。いい加減な話である。

 その二代目ニコニコは、地方の出身だったというが詳細不明。元々は五条家菊二とコンビを組んでおり、神戸千代廼座で人気を集めていたという。

 戦後は俄風の味を残すコンビとして重宝され、落語家たちと一緒に舞台を踏むことが多かった。

 1947年9月11日より行われた戎橋松竹のこけら落としに出演、俄風の舞踊を披露。

戎橋松竹こけら落とし

軽口 荒川勝美・一輪亭花蝶
舞台開笑三番叟 平和ニコニコ・喜音家花楽
落語 桂米団治
奇術百種 一陽斎陽一
落語 桂春団治
漫談 丹波家九里丸
東京落語 三遊亭金馬
万歳 寿御膳獅子引抜き二見浦初日出 浪花家芳子・市松

『近代歌舞伎年表 京都篇 第11巻』にも、

 十一時より二回 京都座
 九月(二十一)日~(二十六)日 〈短期慰楽興行〉

 第二回 かみがた名流演芸大会

【番組】
落語 笑福亭松之助
唄と踊の漫才 東鶴八・西鶴次郎
大阪俄 芝居の寄せ鍋(百姓与市兵衛=文団治 団七九郎兵衛=ニコニコ 雲助平作=花橘)
漫談 丹波家九里丸
舞踊百千種 文の家かしく 地方 鶴八
風流二人羽織 花橘・文団治・かしく
漫才 浅田繁子·浅田家寿郎
落語 立花家花橘
滑稽落語 桂春団治
漫才 平和ニコニコ・喜音家花楽
落語百種の内 爆笑怪談 庵寺潰シ 全二景(全員総出演)

 その後は京都富貴を中心に出演。専属に近い扱いだったようである。

 米朝と夢路いとし・喜味こいしが、『米朝上岡が語る昭和の上方漫才』の中で思い出を語っている。

こいし ところがやっぱりやりようが違うねンやろうなァ、最後にはストリップ小屋でしたな。それで潰れてしもた。あそこは今営業をやっている靴屋の土地を借りてたところやから。それで富貴には米朝兄さんも知ってはると思うけど平和ニコニコ・喜音家歌楽という人がいてはって、この人らは芝居をやらしたら、そらうまい!

米 朝 夫婦揃って、そらもう踊りはおどるわ、三味線は弾くわ、鳴物はうまいわ、

いとし 振りもね、

こいし 奥さんはちょっと身体が大きくてね。やっぱり旅廻りの座長でしたンやね。

米 朝 あの人は初め剣舞師(詩吟にあわせて剣を振って舞う剣舞の専門家)やった。昔は剣舞だけの小屋があった。それで私らの知っているニコニコさんは二代目やねん。

こいし そうそう、そんなことを聞きました。

 米朝 もともと相方の歌楽さんという人は大阪のミナミの小さな小屋の小屋主の娘でね、目がちょっと悪かったンで、それやなかったら、あれを女役者にということやったらしい。 

こいし 女剣戟でも何でも、 いとし全部やりこなして、踊りもね、

米 朝 小さい時から金をかけてるンだ。踊りも三味線もちゃんとしたお師匠はんにつけてね。で、歌楽さんはもともとは初代のニコニコさんの嫁はんやった。で、未亡人になったあとに、弟子の二代目のニコニコさんとデキてしまいよってん(笑)。歌楽さんは字もうまいし、「サインしてくれ」 といわれたら、ニコニコさんが嫁はんの方へスッと廻すねん。それでニコニコ・歌楽と書く。きれいな字や。

こいし 私らが富貴に所属している二年間に、南座なんかへ出ている歌舞伎の若い役者が二階席へかたまってニコニコ・歌楽さんを勉強のために見に来よる。そら皆感心して帰るもンな。 

上 岡 そうですか、役者が。 

こいし 見得そのものが違うがな。 

米 朝 そらホントに、あの『丸橋忠弥』でもね、ええ格好したもンね。 

こいし 石を投げて、堀の深さを計るところなんか、そら。 

上 岡 そうですか。昔の漫才の人って、芝居もちゃんとやらはりましたもンね。

 また、『いとしこいし想い出がたり』の中にも、

 平和ニコニコ・喜音家花楽さんというコンビはな、ニコニコさんより奥さんの花楽さんの方が大柄のお人でな、歌舞伎なんかに詳しいねん。やっぱり旅回りの座長で看板でしたな。ニコニコさんの方は地方さんやねん。
 ニコニコ・花楽さんの高座というのは、芝居仕立てでな。『鈴ヶ森』なんかを演る。ニコニコさんが幡随院長兵衛でな、今の三代目春団治が白井権八や。兄貴が黒子かなんかで出た。駕籠かきの役もあんねん。私と西都ハロー・ジローなんかが雲助の役で出るねん。それでな、「どうせ斬られんねやったら、手ェ斬られて飛ばしてみィや。そら客が喜ぶでェ」というてな。これはな、 ジローの方が義手やったから、それを斬られた瞬間に飛ばしたら受けると思てやったんやけども、 お客、シーンとしてしもてな。全然笑わんでえらい失敗やったね(笑)。さっきも言うたようにニコニコさんは富貴専属の元吉花菱の女の子を舞台で二、三人使いはるねん。その中にな、ひと りうちの親父の知り合いかなんかの人がおってな、それで富貴で会うたんや。私にその娘と結婚する気はないかというような話もありましたな。

 とある。

 戦後の漫才界の大御所として、独自の活躍を見せていた模様であるが、間もなくニコニコが没した模様で、花楽は一線を退いたようである。1957年10月に、四天王寺で行われた「物故関西家演芸家追善回向の精霊」の一覧に、初代、二代目のニコニコが仲良く出ている。

 花楽は、1959年、54歳の若さで亡くなった、と『笑根系図』に出ている。

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